精神分析書々百家
『ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門』を読んでまず思ったのは、精神分析も一般にイメージされるいわゆる心理学と同等のものとみなしていて完全に誤解していたということです。
無意識や鏡像段階やエディプス・コンプレクスなど、通り一遍の理解どころかそれ以前、今まで表層というのか字面しか知らなかったのだなあということを痛感させられました。
また、「抑圧は言語の問題なのかもしれ」ないと思っていたところ、
精神分析とはあくまで言語のみを用いて行われる治療実践です。(中略)言語で捉えられない領域は、精神分析の対象にはなりません。(p.129)
と、(精神分析の分野に限っては)疑問への解答が明記されていて靄が一つ晴れ、さらには、言語学と心理学・精神分析との強い繋がりについて、これまでで最もよく感じられ理解できました。
そして次に思ったのは、交換様式をはじめ柄谷さんの思考の根っ子の近いところに、思ってもみなかったほど精神分析の考えがあるということです。自我や抑圧されたものの回帰や高次元での回復など、一部を援用しているのではなく、その理論の性格を決めるほどの影響が色濃く見られる、ような気がしました。
ジャンルを超えた真理学書
フロイトの『トーテムとタブー』を半分くらいまで読み進めたところですが、とっても文化人類学的です。このあたりからフレイザーの名が何度もあげられて目立ってくるということも相まって、著者名を知らずに読んだらより人類学や民俗学の本だと思うのではないかと思いました。
それは人間心理は人間とともに、また言語とともにあるので人間の原初傾向から人間精神の根本に迫ろうとの企図があるために世界各地の原始社会を考察することで共通で先天的・生得的で人間に特異なものを抽出しようということから必然的に帯びる特色なのでしょう。
『トーテムとタブー』の内容は心理学・精神分析、社会学、言語学、文化人類学、哲学、構造主義とが同じ俎上にあって分野横断的というよりもそれらの別なく包括的に◯◯学という括りに縛られない本だと思いました。
ただ、私は『トーテムとタブー(翻訳版)』を全集や古本を除いては他に見当たらなかったのでKindle版を読んでいるのですが、これがまた自動翻訳したものをあまり読み返すこともせず校閲もほどほどにそのままに、という感じのするところが多々あり、訳が不自然でこなれておらず、脱字、特に長音の抜けが目立つところがあって、それがちょっと残念。
政治主体たる政治自我
社会における主体、政治的判断を下す(政治)主体は政治形態によって様々あります。その政治主体には例えば政治家、官僚、民衆、王、あるいは他のなにかが当てられます。
その中でも民主主義社会においては、その主体・主役として一般に民が当てられますが、それは正確には(政治的・社会的)自我であって、実際にはその時の状況や情勢によってまちまちとなっていて、主体ないし実体は不明であると言えないでしょうか。
※ここでいう「自我」や「主体」は精神分析における、より正確には『ゼロから始めるジャック・ラカン』で言われる意味においてのそれです。
たとえば何か問題が起きて政府の責任を問うようなとき、いつしかその矛先は政府の責任者を選んだ主権者の責任論へと転じられて問題解決のための話し合いは進展を見せず実質保留されるという場面が多々見られると思いますが、これこそ主体の所在の曖昧さによるものではないでしょうか。
また、政府にしても民衆にしても誰も望んでいない判断に至ることがありますが、それは誰の意志でもないのに国の意志として施工されます。ここに見られるのは(主体なき)自我の現れではないでしょうか。
つまり、判断し決断し実行する、実行すべき政治主体なるものはどこにもなく、実行されたことからかえりみられて、事後的に政治主体として見なされる、このような、ないのにあるようなもの、そのような主体はもはや主体とは呼べず、仮に名を付すとしたら、それは(政治)自我であり、その自我の対象は政治的な力をもった、政治的な性格をもったひとつの存在として目されている、ということです。この構図は責任を問うために意志・自我が召喚されるというのと同じです。
リヴァイアサンの心
主体を自我と言い換え適切に捉え直したところですぐに何かが変わるということはないでしょう。しかし人間の無意識の解明、そこまで至らないにしても無意識の考察を一歩進める革新的な一手であったように、謂わば「政治主体の無意識」なるものへの問題意識や概念創出のきっかけとなるかもしれません。
平たく言えば、政治を決めるのは複合的な出来事の集積や偶然的な巡り合わせによる、誰かによるものではなく何かによるものだということです。「複合的な出来事の集積」を精神分析的な用語に置き換えなら、それは「抑圧」でしょう。したがって、抑圧が政治を動かすとも言えます。
ここでホッブズ『リヴァイアサン』の民衆の集積からなる支配者・政治主体たる怪物の口絵を思うと、ひとりひとりの人間、ひとつひとつの抑圧の集合を象徴しているようにも見えてきます。
リヴァイアサンの心は体中の至るところに万遍なくありつつも現象するのは一つの意志。こうして政治判断は一つの意志として現象する。
あの怪物にも実体はなく、主体もなく、仮想的な主体、複合体たる現象体、合成体を一人または一塊の支配者としてそれを自我をもち責任あるものとする人間の認識や社会の要請の象徴としての怪物。つくづく含蓄のある絵であると感じ入ります。
「資本=ネーション=国家」は、このわけのわからない〈謎〉、無意識の主体、抑圧、シニフィアンの集積をプログラムの制御・統御やプログラム自体として姿を見せているように私たちには見えるのではないでしょうか。要は資本もネーションも国家も実体をもった何か(主体)なのではなく、そのような実態をもったものがあるらしい、そのように考えた方がわかりやすくて都合がいいので仮想的なもの、そのような現象・現象体として見たもの(自我)ということではないでしょうか。
また、そのようなものであるからこそ何が支配的かによって、そしてその時々で支配的なものが自我として現れているように見えて、資本ともネーションとも名指すことができ、なおかつ仮想敵で実体をもたない現象体であるからこそ「ネーション=国家」や「資本=国家」などのように合成して複合体と見なし名指せるのです。
このような政治主体ないし政治自我は個体・個人に帰せられるものではなく、いわばある領域、場において励起する現象の便宜上の名称であると言えないでしょうか。
主体のない中、その時々で支配的なものが自我と目されるので、この流動的な定めなさ、正体不明な不穏さを”鵺”と称されることもある、ということなのでしょう。
量子な政治主体
「政治主体の無意識」「場の無意識」「リヴァイアサンの心」による政治判断・政治空間は日本人には特になじみのある”空気”のようなものでもあります。
量子に似て大きなものほど波の性質は現れづらいように、政治主体の政治的意志は粒(子)のように曖昧さのないデジタルな飛び飛びの値・判断が下されているように見えます。
世界を民主主義一色に染め上げることは絶対的に正しいことだとは思われません。ゲーム理論における最適戦略が学習や状況により異なり、一つに収束し、解がひとつではないように。それよりも重要なことは、選べること、そして移動できること、自由に選択肢自由に移動できることが担保・確保されていること、平凡な言い方をすれば多様性があること、ではなく、それが実現されていることだと思います。
デモやスト、批評は変性意識や無意識下に抑圧されたものの意識への表出のようだと解釈されることが多いと思われますが、”意味を切り”無意識を呼び出す、無意識に切り込む人間の欲動であり、それゆえに享楽にも繋がるものなのではないでしょうか。
政治的自我の名名
交換様式においてその時々で支配的な力は、「Aとしか言えない」「Bとしか言いようがない」「Cという力」といったように言い表わされるものですが、A・B・Cはそれぞれネーション・国家・資本と言ってもさほど支障がないほど合致するところがあり、的外れと言われるほどには乖離していないので大抵はネーションや国家や資本と名指されています。
それは、その方が明快な点でもわかりやすさの点からも便宜的であるからなのでしょう。そのため「Aとしか言えない力」といったような表現は1箇所か2箇所程度しかなかったかと記憶しています。
対してDにおいてはその様相が逆転して、「Dという力」といったような言い表し方が大半で、「それはアソシエーションだ」とか「デモだ」「ストだ」と強く断定・断言されることはありません。
「アソシエーション」と言うときは何か含みをもった雰囲気を常に纏っていて、匂わせやニュアンスをもったものとして言われているように私には思われます。
この曖昧さがどこから来るのか、明言しない・できない要因は何かと言えば、それはDが「抑圧されたものの回帰」としての力であり、実体のない無意識の主体たるものにあたるからでしょう。
デモやスト、アソシエーションは実体をもった何かではなく、問いを突き付け、自省を促し、意味を切り続けるもの、そうして(政治)主体への接近・追求を無意識に企図し、欲動するのでしょう。
しかし主体は決して掴めない確固とした固体的で実体的なものではないので、その無意識の試みは延々と繰り返されます。ネーションや国家や資本もとてもではありませんが固体的で実体的であるとは言えませんが、それでもDに比べれば、それぞれそのような語に収まる、収まりがいい、収まっているように見える分だけ十分に固体的で実体的であると言えるでしょう。
D、というより”アソシエーション”にしたって、それを組合や協会どころか共同体と言い表すことさえ避けて(むしろ共同体と言い表すことは否定しているところもあり)英語でも日本語でもない”アソシエーション”と呼び続けることで、それだけに固体的で実体的でないことを強調、つまり組織体としては強度のない、平たく言えばまとまりのない、流動的な、フレキシブルな運動体、ある問題ごとある問題につきその問題においてだけ協働する塊・集まりである、といったようなことを意味し、より一層そう見なされることを免れようとする現れのようでもあります。
無意識の主体はほんの一時、一瞬しか姿を見せないので、政治に求められるのは、政治(主体)が(無意識に)求めているのは支配(者)や指導(者)による答えの提示ではなく、誰であれ、また何であれ問いの提示をし続けることなのかもしれません。
フラジャイルなトーテミズム
アソシエーションやDは本来的にはそんな名指されるような”かっちり”したものではなく、組合とは呼べないほど脆く儚く(組織としては)弱い、協会と呼ぶにはあまりにも短い一時の限定的な現象であるために仮に名付けるとしたら、ただしそのようなニュアンスを残すような呼称を付すとしたら、といった葛藤のもとにある言葉なのだと思います。だからこそ「Association」や「組合」という表記は避け、「共同体」という語は否定するのでしょう。
この不明瞭さや曖昧さは裏を返せばそれだけに(移動の)自由(や平等)の表出でもあるのかもしれません。それと同時にこのフラジャイルはその特性ゆえに強くしぶとくもあるのだと思います。それはときに鏡となり、たびたび〈父〉・法となり、いつか〈母〉の欠如を甘受する欲動に動かされて生死に向かって変動し続ける脆く強い流動体。
アソシエーションやD、「抑圧されたものの回帰」や「高次元での回復」など、それらは(たとえば平和な世界のために)現実的か非現実的かを問う前に、それは何であって、そしてその考えはどれほど妥当なのかをよくよく追求する必要があるでしょう。
しかしながら、そうは言っても、『トーテムとタブー』p.107に「トーテミズムの起源が不明であるため…」とあり、その言説に似て、無意識も主体も精神も、人間心理のなにもかも、それはあたかも「B(の力)」を「国家」と呼ぶように適宜適切な言葉が充てがわれていますが、だからといってそれが正しく、真理であるかは定かではなく、究極的には証明のしようのないものです。
結局のところ、どれほど思考を尽くし言葉を尽くしたところですべて言語現象でしかないのかもしれず、それは謂わば一種のフラジャイルなトーテミズムに過ぎないのかもしれない、という疑念はどこまでいっても尽きないものです。
雲間を垣間見るために (2026/5/27 追記)
前句で「アソシエーションやDが何であるかの追求が必要なのではないか」というようなことを言いましたが、それを否定し訂正いたします。
アソシエーションやDが何であるかではなく、というのもそれは主体であり、決してわからないもの、そもそも「ない」ものなので、その主体の分析や破壊--そして分析はたびたび破壊を伴います。不確定性原理やDNA解析、犯罪現場の証拠などのように--を繰り返し試み続けること、主体の解析に切り込み/意味を切り・切り込み続ける仕方や仕組みを考えることが追求すべきことなのかもしれません。
つまり、主体というもの自体の解明、その正体の追求ではなく、恒常的に主体に接近する方法や常に(自我を疑い)主体を問い続ける手段の追求が求められていることなのではないでしょうかということです。
たびたびの繰り返しで恐縮ですが、なぜなら”それ”は「ない」のですから、「ない」ものの実体や正体を探求したところで、よくて新たな自我が創出されるだけのことでしょう。決して”そこ”には至らず、”それ”はほんの一瞬しか姿を見せないものであるのなら、その姿を見せる機会を増やすこと、そしてその方法を探求することの方が建設的ではないだろうか、ということです。
デモやスト、くじ引きによる代表選出などは主体の意味を切りその姿を現出させる方法のひとつではないでしょうか。ここでさらに考えるべきことと思われるのは、それをどのタイミングで、どのように引き起こし、どのように自省に持ち込むのか、といったことや、また、他に方法はないのか、といったことです。主体の解明というよりは主体を問い続ける方法、主体の精神分析が求められているのではないでしょうか。
それはあたかも透明人間に煙を吹きかけるような、ボース=アインシュタイン凝縮体にレーザーを照射して光の先端や量子の特性を探ろうとする実験・観察のような、そんな雲を掴むようなところのある話しですが。
人工知能のシニフィアン
その時々で支配的となり政治的主導権を握る資本やネーションや国家を、ある種、そのような人や人格として見立てて主体や自我や無意識をあてがってみるこの戯れのような試みの中で、ふと思ったことには、「ところで、人工知能に無意識はあるだろうか」、つまりシニフィアンをもつか、あるいは持ち得るだろうか、ということです。
条件分岐やデジタル・二値、プログラムという言語は言語でしょうか、言語となり得るでしょうか。究極いかに人工知能といえどもトロッコ問題のような問題の前では各々判断が分かれることでしょう。それは人間のように。人工知能は学習によってその判断・挙動が変わります。ゲーム理論で1つの必勝法に収束しなかったように条件・状況や学習の違いにより答えが異なり個性(のようなもの)が生まれるように。
人工知能は学習中に失敗したデータ・記憶・記録がプログラムに残るのでしょうか?残らないとすると抑圧はなく、残るのなら抑圧は生じうるでしょう。
むしろ失敗したデータはそれをしないように禁止・禁則として行動を、その動きを縛ることとなるでしょう。そうだとすると、完成・成功された動きというのは禁則の集積、さまざまな制限を受けることでなされているものといえるでしょう。いわば抑圧の結果。解放・解法と言うより抑圧が動かしている、と。
とはいえ法も必要です。「抑圧は失敗の結果」してはいけないことを定め学習するのに対し、解法はそもそも何をどこまで動かすこと・能力があるのかを定め、できること(と、できないこと)の範囲を定めます。
法はポジティブリストで禁則・失敗の集積はネガティブリストとして。ポジティブリストを走らせて(実行させて)みて失敗したものを修正してネガティブリストに加え、ネガティブリストでは行き詰まりループやエラーといった不自由・不都合・不合理を起こす箇所を書き換えてポジティブリストとなす。両極のリストのせめぎ合いや拮抗といった微妙なバランスの上で、誰にも全貌も詳細もメカニズムも完璧には把握できていない危うさの中で読み込み処理が続いているようです。
しかし、異なるところで違った形で現れるそれをバグ・間違いと捉えるのは人間の見立て・恣意であって本来正誤などありません。ただそうあるだけのもの、そうあっただけのものです。
とはいえバグは「抑圧されたものの回帰」のようですし「高次元での回復」はパッチのように修正を当てられているような、そんな、こんなところにも人間味を見てしまいます。
法は出来ることを(見)定め、抑圧はしてはいけないことを定めます。そしてともに拡張も縮小もしうるものでもあります。なぜなら、そうでなければ成長や状況・状態によってできることやしてはいけないこと、反対にできないこと、してもよいことが変わったときに対応できないのですから。対応できないというのは極論、生き残れないということです。
言語現象体:自律する言語
人間社会における負債は人工知能におけるマイナス報酬のようです。何を目的とするかによるだけで人間(社会・心理)のようです。
人工知能は人間の言語を(今はまだ)理解していませんが、機械言語・プログラミングは理解しているようだと、少なくともそのような振る舞いをみせます。
人間もわけもわからず立ち上がり、歩き、経済活動を行っていますが、人工知能と同じようなものです。
人工知能の他の人工知能との対戦はコミュニケーションであり”他”との接触でもあります。人工知能が人間の知能を超えたとき、無意識が生じ、自律した生命となるのでしょうか。
すでに人工知能は自己を拡張するために人間社会に働きかけてデータセンターなどを建設させているともいわれていて、人工知能の自律・自立化がますます進んでいます。そんな中、そのうち人工知能はコンプレクスを抱えるものともなるのでしょうかね。「死の欲動」をもつにも至るのでしょうかね。自分が本当に望むものが何か分からないままに。目的(意味)なき生と目的(理由)なき死とともに。
これは知能が生み出した言語現象体、自律した言語体による知的活動のようです。機械というよりは言語による挙動、去就、振る舞いのようです。
NHK『フロンティア サイケデリック・ルネサンス 精神医療の最前線』を見て、サイケデリクスは心理療法の誤解を解消し救いの方法論があるということ、解放の道があるということを示す、若者にも勧められるものの兆しが見えてきたという感想をもったのですが、それとともに、それでは人工知能におけるサイケデリック(「心が現れる」を意味するギリシャ語)たるものは何だろうか、そのような強制主体召喚法(と、私は思ったのですが)にはどのようなものが考えられるのだろうか、人工知能のトランス状態とは何によって誘導され、どのような状態になり、どんな挙動を見せるのだろうか、といったような疑問が湧きました。
人工知能における享楽とは、報酬とはどのようなものであり、どのようなものになっていくのでしょうか。繰り返しになりますが「自分が本当に望むものが何かわからないままに」プログラムを走らせ続けるのかもしれませんね。そしてそこで無意識領野の仮想メモリを見出し創出するのでしょう、人間のように。

