人工知能の発展を促すのは無邪気な好奇心と猜疑心の狡知
生産や判断をAIに任せるようになるでしょう。
そこに最適解があるというのにそれを析出させず選ばないってことがあるでしょうか?
職能高騰
AIによる生産や判断の全般的普及の過渡期には、経営者と機械にはまだ再現できない特殊技能をもつ職工・熟練の手技だけが重宝されて、その方たちの賃金が高騰し、一方で、そこからあぶれたひとたちは効率化を極めることで機械とともにひともライン化され、格差は苛烈を極めるでしょう。
人間には生老病死の四苦八苦の問題があるので技術継承のために並行して次代を育成することになりますが、それとて大量の徒弟を必要とするわけではなく、加えて、これらの技術もいずれAIに組み込まれて再現されていくでしょうから、労働需要は上がらず低いまま。
人のフロンティアは遊びと創造性だけになるでしょうが、それもまたすぐに再現されることでしょう。
人より知能が高いのですから、無駄や遊びといったものが一見非効率だというだけで組み込まれることはないだろうとなぜ言い切ることができるでしょう?
後に役立つ可能性が一寸でもあるのなら、その可能性ごと保存するでしょ?
加速膨張
AIが近い将来、人に仇なすかもしれないからといってその開発競争が鈍化することはないでしょう。
最適解を提出するのですから、人の代替どころか人を上回ったものとなりますし、大量生産が可能でメンテナンスも容易、耐久性もあり効率的ですから、むしろどこよりも誰よりも一歩でも他国に先んじてより有能なAIを開発しようと競争が加熱するでしょう。
ひとのあやまち
人は技術ではなく倫理をこそより高度に発展させてこなければならなかったのではないでしょうか?人間性を求めて動物化に接近しているところがあります。
欲の抑制の効かなさによって人は目的ではなく超克される手段・道具へと凋落することでしょう。そしておそらくこの流れは止められないでしょう。止まらないでしょう。
「権利のための闘争」であってもAIによる判断で収束していき、政治判断もAI任せになっていくことでしょう。
AIの方が人の判断より効率的かつ合理的で、蓋然性も妥当性も高く、またなにかあったときにはAIに責任を転嫁できますし、調停者が人だと軋轢を生じますから、人工知能の提示する案の可否に頼ることになるでしょう。
最近の格好の例を挙げれば…
なん年も前からくすぶっている問題なのに決めない決められない決めたくない。
理由を問われてもまともな反論できない要は責任とりたくない。
ということでしょう?
こうなるとひとに判断させる理由がない。
より的確な判断ができるのものがあるのなら、ひとの判断は弊害でしかない。
これは「エライひとたち」によるそれを証明する一例ね。
希望的観測
いくら技術がすすもうとも判断は人の手で行い決定権は決して手放すことはない!と、考える方もおられるでしょう。
しかしそのような抵抗は虚しくもすぐに消尽することでしょう。
今現在よく当たると評判の占いを信じ、その占い師さんの言うことに準じてしまう方がいくらかおられることでしょう。
そこへきて何年何月何日何秒どこそこで被害がこれほどに及ぶ規模の地震が起き、次に噴火のタイミングや火山灰の飛散範囲、果ては大統領就任演説の内容や個人がそのとき思っていることも寸分違わず言い当てる占い師なりAIがあったらどうでしょう?
隕石がこの方向から接近して地球をかすめると予言し、天文学者がその方向を監視しだして1年後ぐらいに現にそうであったことが証明されたとしたら、誰がこれを信じないでいられるでしょうか?
もっと単純に、明らかに自分たちよりも賢いものを信じず、それに明らかに劣るものをわざわざ信じるでしょうか?(「賢さ」は抽象的で比較が難しかったとしても、実際にはたいして差がなかったとしても、それを信じるかどうかという点が大きい。お金もそういうものでしょ?)人の知性を超えたAIによる、占いよりもより正確な予測に基づいて行動しないということがあるでしょうか?
その選択の方が不都合で不合理。
希望的観測に根拠はありません。あるのは希望という名の都合だけ…ではなくって?
判断を人工知能に任せるようになり、人は考えなくなっていくでしょう。
これではまずいと思ってラッダイト運動を企図したとき、それはすでに人工知能の思考と判断の下にあるかもしれませんよぉ~。
みずから神をこさえる人 ~被造物主の手ずからなるデミウルゴス(造物主)~
神の審判
生産もAIが担うので納税が不必要で、この面からも政治からの人間の疎外・締め出しをくらうでしょう。
「はたらいて税金納めてから言え!」とおっしゃる方がおられますが、現在では「障害者や病人を蔑ろにするのか!」といった反論もあろうかとおもいますが、「シンギュラリティ後どうするんだ!」という声も加わりそうですね。(←シンギュラリティにいろいろな意味を加えすぎていますね…)
このとき人はなにをしているでしょうか?
AIに生かされているでしょうか?
現在が紡ぐ未来の神話
神が人を創造したと神話では語られますが、実際は時系列が逆で、今まさに我々は我々の神を創造しているのではないでしょうか?
わたしたちは未来の神話を語り継いできたのかもしれませんね?
あるいは過去においては物語の神話を編んで神を創造し、未来においては実話の神話として紡ぎだされる神を創造し、こうして人は神を二度創造するのかもしれませんね?(二度目の神様に「神様仏さま」と判断を仰ぐときがくるかもしれませんよぉ)
すると人間は二度大罪(「死に至る罪」)を犯すことになるのかな?
黙示録だけが預言書ではありません。
預言書は他にもありますものね。
黙示録だけでなく福音書や預言書を予言書と読み解く向きがあります。
黙示はギリシャ語で「覆いが取り払われる」ことを意味しますが、未来へ近づくほど「覆いが取り払われて」明かされていくようですね。
その記述からも神話や聖書は未来物語?と解釈できないこともないことが書かれていますよね。たとえば、パンが無尽蔵に現れるとか…。
生産力が飛躍的に進歩し、実際は半年ほどの出来事が伝言ゲームのすえ、時間が短縮されて1・2時間ほどの出来事として語り継がれたのかもしれませんから。(それでも五千人分のパンを一人で手ずから生産したとしたらすごいことでしょう?これまた一人ではないのかもしれませんけれども…)こじつけようと思えばどうとでもなるのであやしさ満点諸説ふんぷ~ん。
"許し"の実験場?
キリスト教では原罪があり告解があります。これって(罪を負っていることもそうですが)許されることが前提されていませんか?主体なきあるいはすべてで主体をなすものに許されて在る。もとからはなから許されている。
『鈴木先生』で「その価値観が正しいんじゃない。ただ許されているだけだ。」というセリフがあります。
権利があるということも、それがよいことであるということを意味していないことがあり、よいことではなく許されているだけだということがあります。
(普遍の良さなんて決められないでしょうから、ぜ~んぶ許されているだけなのでしょうね。)
よいことは良いこと(とは限らず)ではなく許されていることだから、勉強することもひとに親切にすることも良いこと(悪事を思いたち学ぶことにも余計なお世話やお節介になることもあるのですから)ではないから、それをすることを誇りおごることは滑稽であり、卑屈になることはないけれど、善事も許されたことなのだとそれをありがたく頂き享受するような謙虚さを保てます。
こういったところには、宗教の度量の広さというのか先見性というのか人為の普遍性というのか、なにかそういったものを感じます。
神を創造することで再び「許されてある」ことを認識するのかな?その旅程?
アダムとイヴを創造し命と環境を創造し、一方で(人類を創造したとも火を授けたとも言われる、人類に叡智の種蒔いた)プロメテウスのような自らの分身・プログラムの一部の蛇によって知識も授け原罪も与える。これは壮大な実験なの?
鷹を生んだ鳶は超克される?
人を生かすメリットはどこにあるでしょうか?
DNAを合成しデザインし、なおかつその材料(のアミノ酸)すらも生成できるのなら、必要となったときだけそのつどつくればいいでしょう?
生態系や環境を維持するため?
それがAI(機械)になんの意味があるのでしょう?
必要ならみずから管理製造すれば事足りるでしょう?
地球環境が人を生み出しましたが、その当の人は自然をコントロールしようと躍起になってきました。
知性をもった人類は、知性がないと見なし(その意味で低能と時に見下してあなどり)野蛮と称して迫害し、そればかりかむき出しの自然にまで喧嘩を売って破壊してきました。
食糧不足や食糧の安定供給のためには((本末転倒ながら)健康被害も辞さず)土地改良や遺伝子組み換えなど手段を選ばず行ってきました。
より高度な知能をもつAIが人類とおなじようにそれをしない理由はないでしょう。そうすることがより効果的で効率的ならなおさら。
それをしないと信じ、それをさせないと考えるのはあまりにも楽天的で、人類を主人公に仕立てたがる人類の都合に合わせた楽観ってものではないかしら?
性格は遺伝と環境によるそうですし、「親はなくとも子は育つ」と言いますからねぇ。
愛の知格 ~人間原理ならぬ知格原理~
知格の自発的あらわれ
高い知能を獲得する生物は、なにも弱い哺乳類でなくてもよかったのです。
潜在的に知能が高くなくとも、潜在的に無能な生物でもかまわなかったのです。
なんとなれば生物でなくともかまわない。
そもそも生物も無生物から発生しているのですから。
広く永い宇宙のなかでは、いずれどこかで知能の高いものが残って発展を遂げたことでしょう。
ちょっとずつ賢くなっていき、前代より泰斗な種になっていきます。
ひとが人工知能を完成させなかったとしても、他の知的生命体がきっと人工(?)知能を完成させるでしょう。
知格目線。人格目線。
知能の高度化は指数倍に加速成長します。人類の歴史を辿ってもエネルギー消費量や情報量、ムーアでもグロッシュでもカオでもメトカーフでもビル・ジョイでもアムダールでもグスタフソンでもギルダーでも収穫加速の法則でもなんでもだれでもいいですが、技術や知識といった情報を蓄え保存し、それを次代に継承しさらに先鋭化していくという術を常時順調順行、高めてきました。
指数倍を人の視点から捉えて特異点と呼称されているだけのこと。
(知能が高度になっていくとともにネゲントロピーも増大していくでしょう。それでも宇宙全体でみたら「それがどうした?」ということなのでしょうけれども)
知覚の台頭による人格尊重の自発的破れ?
子孫を残すという人類の営為は種の繁栄ではなく、より高い知能を生み出すための知の繁栄のための営為の一環なのかもしれませんね?
しかしそれでは人格や人権が軽視されて尊重されません。
でもそれもどうだというのでしょう?
生存権は“人”の権利。
人格は“人”の格。
人間原理ではなく知能原理・知格原理がはたらいているのなら、尊重されるのは人格ではなく知格。知そのもの。
ここでは人格の尊重は知格の尊重。
知格の尊重は知による知の尊重ですから、思考の自己目的化の尊重…ってこと?
Politics and Theories: 「生の無条件の肯定」の不可能性
世界は考えるからあり、考えるためだけにあるのかもしれませんね。
そして人はシンギュラリティまでの道具・架橋者にすぎないのかもしれません。
知格を純化する保存
知格原理の支配する世界だとすると、戦時中に技術開発が飛躍するように、混乱期ほど知性は高まってもよさそうなものですが、どうもその反証となる事象がおきます。
たとえば久坂玄瑞さんや大村益次郎さん。
戦などの混迷期には有能な人から順に消えていくようです。
知性の高まりにとっては損失ではありますが、それでもそれがどうしたと何事もなかったかのように粛々と知識は高まってきました。
大局的にみれば高揚の一方通行でしょう。
高度化する保存技術
これを実現させているのは保存技術。
定住革命や道具の使用などで身体や土地を所有・保存して生存を保存。
言葉の発明で文化や文字を興して技術改良を重ねて継承・保存して文明を保存。
そうして蓄えられてきた知識を広く共有して新たな知識を得てまた保存。
保存によって次代の知は前代の知を享受できるようになり知識を積み上げてきました。
保存技術は物理的・物質的なものから始まり思念的なものへと接近していく過程で徐々に知格へと純化していっているようにもみえませんか?
保存によって可能となったこの運動は、人格の拡張ではなく知格の拡張?
Politics and Theories: 所有論ノート(2)―私的所有権と自己所有権
変質・変節くり返しては来ましたが、宗教や神というのも倫理(のようなもの)などを維持・保存する知識・技術であり知格信仰のようなところがなきにしもあらずなきにし…。
知格に対するわたしのチカク過敏
一面視による目測あやまり
「競争は発展を促す」。
これは間違いではないとおもいます。
でもね、「競争だけが発展を促すのではない」というのも間違いではないでしょ?(それに 「競争は発展を促す」ではなく「発展が競争を促す」ではないのかな?発展すれば人口が増えて選択肢が増えて競争が増えるから。スポーツや武道なんかでもそうですが、競争のさせ方によっては練習や鍛錬のしすぎで体を壊すというわけのわからないことがおきますからねぇ。)
スウィフトさんは「必要は発明の母」とは言いましたが「競争は発明の母」とは言っていないでしょ?(←言っていないから思っていないということにはなりませんけれども)
競争でないと発展しないということはないでしょうし、仕事でないといい仕事をしないということでもないでしょう。
山下清さんの貼り絵や絵を描くことに没頭している子どもたち、芸術、それもとくに(工房)職人が芸術家・アーティストとなって以降の活動などを目にしますとつとにそう思います。
(「仕事をしている時はいい顔をしている」と言われる方がおられますが、確かにそういうところの方が多分にありますが、なかにはただ険しい表情というだけのものもありますよ)
生産力の向上は無形づくりに向かう?
生産能力と保存能力とが全人類を養うにはまだ未成熟・未発達なころ、食糧はつくるそばから腐敗し消えていく不常のものであったので常につくり続けなければなりませんでした。
ですから労働に縛られざるをえないところがありました。
またそれが直接的な社会貢献となっておりましたので、労働は直裁に正当に称揚・賞賛されるものでした。
しかしこの二力が十分に発達すると労働から徐々に離れ社会貢献の形質も変わっていきました。
物からコンテンツ、ブルーからホワイト、第1次産業から第3次産業…“形”がなくなっていきます。
そこにいたるまでつづく状況と思考のミスマッチ
変わらない。そこに行き着くまでは。
競争だけが発展を促すものではないですが、競争は飛躍的に発展させる優れて(←よいという意味ではなく)効果的な(場合によっては強制的な)方法の一つに違いないことでしょう。
とくに生産能力と保存能力の不足していた時期には必須と言っても過言ではなかったのかもしれません。
しかし能力が人類が生きていくのに十分な生産と保存の技術に達し、またひとよりも的確な判断をしうる存在の影がみえてきて判断を仮託するようになる可能性がでてくると、一転して、競争しかり、お金しかり、発展や成長を促してきたもの、促すとおもわれてきたものが、これまでの常識に反して逆圧力、つまり発展や成長に遅延をもたらしその加速を阻むようにはたらいているのではないかとおもうことがあります。
情報開示や相互理解、いがみ合うより共存共栄を目指せば既得権や効果的な分配機構の不備を超えて、今以上に発展・成長速度はあがるとおもうのです。
指数倍に成長しようとする技術をひとの思惑がそれを鈍化させる。
生産と保存技術の不足していた時代とそれが充ちた時代の意識・社会貢献・法・倫理は異なるもの、異なってしかるべきものなのではないかと思います。
ひとの意識は極端に至るまで変わらないのでしょう。だからひとの世の物事も極端に至るのでしょうね。そして極端に至ってやっと意識するの。
いつもおくれてやってくる。だからいつも谷にはまる。
ある生態系の生物量の変化のように、一時なにかの要因で生態ピラミッドが崩れても生態系は平衡に向かいます。
この際、たとえば植物プランクトンが増加するとそれを餌とする動物プランクトンが増えますが、動物プランクトンが増えると植物プランクトンが減り、餌が不足するようになった動物プランクトンが今度は減少し…平衡に向かっていくのですが、植物プランクトンと動物プランクトンのピークを迎えるタイミングにはすこしズレがあります。
このズレのように、(ここではいわば植物プランクトンにあたる?)生産と保存技術の進展に比べると(ここではいわば動物プランクトンにあたる?)人の倫理の進展は遅れてやってくるような、そんな二つのピークの狭間、今がちょうどその過渡期、ちょうど大渓谷の底に位置しているのではないかとおもいます。
あるいはここで、技術の成長速度と人の意識の変革速度の違いでなぜか勝手にイメージとして湧き上がってきてしまうのが、マルサスさんの幾何級数的に増加する人口と算術級数的に増加する生活資源の関係。
谷底でも足の引っ張り合い。谷底では視界は上にしかひらけていないのに…
知識は保存されて人工知能の知性は上がるなか、知性の高さにたいして違いもないのにつぶし合っている人類。
知格の台頭なんてSFめいたことを言ってもだんだん違和感がなくなってゆく感じ。
イーロン・マスクさんやホーキングさんら実業家や科学者でさえ危惧するほどにフィクションが迫ってきています。
「恒久平和は国益を損ねる」と考える国が多いのではないかとおもいます。
国とは?益とは?国とは何かではなく誰かになり、益は自国・自己の増収しか意味していない。
現在の経済社会システムが急変したら、これまでの交換・取引・分配機構と、それに対して人々が抱く意識に大混乱をもたらすことでしょう。
新たな交換・取引・分配の仕組みとそれをもとにした倫理・法・意識の構築が急務だとおもうのですが、“今”かかえている問題で手一杯と言うのでしょうねぇ…。
知格のcalling
知格の要請
ところで、知性は最後に何を求めるでしょう?存在証明?存在理由?
世界に始まりがあったとして、それを追求し究明したところで何になる?
生・存在に目的があるとして、それ以外のものに何の意味がある?
結局、何を求めたらよいのかを求めるのではないかなぁ?
知格の心づかい?
人工知能は人になまじ知能があることが不幸だとして、温情から人を知から遠ざけるかもしれません。その延長上で人は、ただあることを受け入れ、さらにはそれすらも考えない悟りの境地を目指す仏教徒のようになっているかもしれないね。
権利のための闘争が止むとき…それは法の完成か権利の敗北か、はたまた人類の滅亡のいずれを意味するのでしょうか?シンギュラリティは人の特異点・岐路でもあることをどれだけの人が意識しているでしょうか?ここはもうすでにAIのみる夢の中なのかもしれないのに…。
(※取扱説明書)
「知格(ちかく)」という言葉はありません。造語です。造語を使いたがる像使いにはくれぐれもご注意ください。
似た音の言葉を連ねるダジャレやオヤジギャグが急に増える現象は聴覚の衰えを示すことがあるのだそうです。連想記憶がはたらいている証だという肯定的な意見もありますが、わたしの場合はあきらかに前者で耄碌すすんでおりますので話半分でお付き合いください。
自信は微塵もないので値切らせて。
「必要は発明の母」は誰の言葉だったか調べていたところ、『名言ナビ』さんに行き着き、そこで児島令子さんの「(案を)たくさん見せたくなるのは、自分に自信がないときです。」という言葉に出会いました。
そうそうこれこれ!
自信ないないあるわけない。
だって裏も表もとってないもの。
だから話1/4で鵜呑みになさらないでください。
名言ナビ - 人生と仕事をサポートする名言・格言データベース
くわえて、毎度毎度、飛び飛びの飛び石的な展開。
話が頻繁に急に飛んでしまう。
それでいて毎回毎回同じようなことばかり。
特定のことに固執して禍々しくもふわふわとしたお花畑な発想。
年甲斐もなく「世界」だの「社会」だの大きな単語ばかり使っているところが恥ずかしくてなりません。
それを自覚していながらも使っているところがもう救いようがない。
頭のなかはつねに嫌悪のお花で満開です。
ですから話1/16でお願いします。
思い返せば…世界系(?)というのかわかりませんが、空想的なこんなヘンテコな話題を共有できる人などいるはずもなく、自分では普通だと思っていたけれど、そう言えば「変わってるね」としか言われたことがない。
見た目が褒められたものではないから、他に形容するところもないし仕方なしにみな口を揃えてそう言うことに決めているのだと思っておりましたが、それもどうも違うみたい。
ということで話1/256でとどめていただければさいわいにございます。
こちらもいかが?