あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

労働による拘束時間の短縮で経済活性化してより「善イイ社会」

悪イイ社会見学会

 いい会社ではなく売る会社がいい会社と呼ばれています。

 ここでいわれるよさは売上・数値のことなので中には「悪イイ会社」というものがありえます。

 しかもそれは想像以上に多いようです。

 

不自然労働

 就職難民や失業者が多い反面残業続きで忙しいひとが多いのっておかしいでしょ?

 社会保障費やら人件費やらを抑えるためにギリギリの従業員でまわしているようなところが多いでしょうが、それだけ個々の従業員に依存しているにも関わらず給料も抑えなければまわらない社会って、労働資本の分配効率悪すぎるでしょ。

 

労働独禁法

 ワークシェアリングって8時間なり10時間なり、1人のひとが長時間労働するのが当たり前っていう前提があるからシェアとか言っちゃうんでしょ。

 ラッセルさんやラファルグさんの提案するように、そもそも3時間か4時間労働にしちゃえばいいのに。

 その際どこか1社だけでも8時間労働のままだとその企業だけ生産性が高くなって独り勝ちしちゃうから、4時間労働を法で縛っちゃう(生活水準下がらないように物価や給与体系調節してね。消費税みたいに段階踏んで徐々に短縮してこうか)。「労働(時間)独占禁止法」みたいなかんじで。

 

 今の労働時間を申し合わせて法に抵触しないようにどこもかしこも8時間いっぱいにしていいるようなところがすでに独占的じゃない?8時間労働は「8時間働きたい」ではなく「8時間は働かせたい」ってことでしょ?

 それに8時間フル稼働でも終わらない仕事って、根本的に欠陥かかえてませんか?

 「時間がほしけりゃもっと働け」といってがむしゃらに働いたところで成果は比例するわけでもなし。

怠ける権利

怠ける権利

  • 作者: ポールラファルグ,田淵晋也
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2008/08
 

 

言葉頭を離す

 「もっと働きたい」という言葉は長時間労働や労働そのものを求めての言葉ではないでしょう。

 その多くは仕事が好きでもっと働きたいといったような希望に満ちた言説ではなく(そういう声もあるでしょうけれど)、生活するにはそうせざるを得ないという悲痛な叫びなのではないかとおもいます。

 でなければなぜ年間3万人ものひとが自ら命を絶たねばならないの?生活苦が主な原因ではないの?

図録▽主要国の自殺率長期推移(1901〜)

 

パワーunバランス

 憲法を守らなければならないのは国民の側ではないですが、国民の意気込みといいましょうか、そういったものとして、義務として謳うのはいいでしょうけれど、その方法に自由や選択肢がないのはいただけませんねぇ。

 

 雇用者と被雇用者では雇用者に分があり、その雇用者も大企業相手では分が悪く、このような産業資本社会ではどこもかしこもパワーバランス悪すぎっ!

 

あちらはたてておいてこちらは無視

 経団連は経済を考えるのではなく現行システムの存続を志向するので、その硬直性とイデオロギーとでむしろ経済を不活性化しているようなところもありますし。

 労働が産業化して価値体系が構築され、働けるだけ働けという圧力と化しているように見える憲法・法・義務・「痛みを伴う改革」・「一億総活躍社会」。

 この圧力はなにかしらの理由で働けない(働きたくないというひとを含めてもいいのかもしれませんが)ひとの自尊心を大きく傷つけスティグマを刻みます。

 

 また同じ労働(量)でも為替レートや物価などにより国ごとで賃金・(評価)価格が異なります。

 差異が利益を生むと申しましても、これは区別ではなく差別の範疇に入ってしまうのではないでしょうか。

 

 資源(人やモノや資本やお金など)の国家間取引が世界規模に広がり(規制緩和規制緩和で)自由度もあがっているのに、価値観・価値概念は資源ほどには広まらず受容されずムラがあり、タックスヘイブンに群がり奢侈税やバンコールといったパッチもあてられていないことに違和感を感じます。

 

 ワン・ワールドを志向しているわけでもありませんし、国家間を超えた超国家的な施策で価値観を一にすることの困難さはわかりますけれども、一般的な倫理観との乖離が大きいとおもいます。

 

「お前はもう商品だ」

 人は商品にはなりません。というかしてはいけません。が、間接的に商品となっています。

 すでに人も擬制商品(犠牲商品なのかもしれませんけれど)化されています。

 

 モノの価格は需給量や効用限界理論なんかで決まりますが、労働によってお金を得るとき、それは労働を商品化して時間を売ってお金を得てはいないでしょうか?

 労働価値説の矛盾は多く指摘されていますが、はたらいてお金を得るときには労働価値説がはたらいていないですか?

 

 労働が商品化すると商品を算出できない個体・ひとの価値が低く見積もられてしまいます。

 なのに今のところ労働や価値をうまく昇華できていないとおもいます。

 

 労働によって商品が生産され、それに手間というコストを付加して商品化し、市場で価格付けられて、この過程が遡及して労働が価格付けられてしまう。

 

ハイブリット・マヨネーズ

 能力給・歩合制は市場によって価格が変動する商品。

 給料制は概ね時間拘束に対する対価で、市場の弾力性とは異なる特異な商品。

 これじゃあまじめに働けば働くほど損をするからテキトウにかたすようになって勤労意欲もあがらないでしょうよ。そこへもってきて「お客様は神様」ですよぉ顔の横柄な客への塩対応なんてむりからぬことでしょ。

 

 たとえばガソリンを給油するとき時給1,000円のアルバイト代に換算したことがないでしょうか?

 ガソリンは価格が変動します。それによってアルバイト労働による価値も変動します。

 

 モノには効用限界理論なんかがはたらき、ひとの労働には労働価値説なんかがはたらいて、それを仲介しているのが価値の基準の地位を占めたお金が担い、お金の実体のなさが混ざり合わないはずの水と油を溶け合わせる界面活性剤(乳化剤)のような役割をはたしてエマルジョンを可能にしている(してしまっている?)ようなイメージをもっています。

 お金は無色透明で換算できることがよい所であり曲者なところなのでしょう。

不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する

不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する

  • 作者: ウォルター・ブロック,橘玲
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/02/22
  • 購入: 8人 クリック: 81回
 

 

 貨幣や労働や価値についての考え方には貨幣数量説やら貨幣形態論やら労働価値説やら限界効用理論やら貨幣商品説やら貨幣法制説などなどあるようですが、どれか一つが正しいわけでも間違っているわけでもなく、統一理論なきハイブリッドなシステムになっているのでしょうね。

 

 貨幣は貨幣だから、価値は価値だから、労働は労働だから、人は人だから、神は神だから。

 すべてがトートロジー・同語反復の神話。

 

消せない刻印

 労働によって仕掛けたものに対して所有権が発生すると考えられています。

 労働の対価としてお金を受け取るのですが、お金は媒体であって労働を仕掛けられてpropertyの刻印を押されたものそのものではありません。

 お金は富そのものではなく富の象徴だから所有権の正当性を問われないのかな?

 

 お金のいらない生活をしようとある地に腰を落ち着けようとしても、きっとそこは誰かの土地。

 無人島なんかでも私有するつもりはなくても公共のものだからと追い出されちゃう。

 土地やなんかの所有権を放棄して自然にかえそうとおもってもそれをだれかが買いとって私有地としてしまうかもしれない。

 公共団体に提供しても裁量権が自分から離れているので公共団体の意思によってしまう。

 それを防ぐために私有し続けるしかないのだとすると、一度所有の刻印を押されたものからこの焼印を消し去ることは困難で、所有を巡る争いからは逃れられない。

 

 所有は権利?

 捨てたくても捨てられない重荷?

 消えない、消せない刻印は…傷やアザの類じゃない?

 

 身体所有権から拡張・演繹された世界像。

 

こちらもいかが?