あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

"法の精神"を蝕む長時間労働

 現在、長時間労働といってまず思い浮かぶ産業は配送業でしょう(←例の印象的な映像とかね)。

 

 そしてこれは以前、聞きかじってはいたのですが高速(道路)催眠現象(ハイウェイ・ヒプノーシス)。

 

 長時間労働による睡眠不足で判断力の低下。

 加えて高速道路催眠現象。

 睡魔のワンツーパンチ。

 これで「居眠り運転するな」なんて無茶でしょう。

 むしろ何十年も居眠り事故を起こさず就労していることが奇跡的なことで、そのひとはきっと一重足りない二重苦にさらされている奇跡の人たち。

 

 それほど困難で不可能におもわれることを課しながらわき見事故より居眠り事故を起こした場合の方が罰則が厳しいって…それじゃあ仮に居眠り事故であっても事故を起こしたひとは「わき見運転によるものだ」って言い張ることでしょうよぉ。

 これじゃあ信頼のおけない統計データが集まるよぉ。

 もうすでに偽わき見事故がわき見事故の中に多くの居眠り事故が紛れ込んでるんじゃあないのかい?それでいいのかい?

集中力の限界!起床後13時間で作業効率が落ち、15時間で酒気帯び運転!?

 

働かせてはならない使用者≒働いてはならない労働者

労働基準法第32条に…

  1. 使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。
  2. 使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない。

とあります。

 

 法定労働時間(原則1日8時間、週40時間以内)が定められていたり、事業所が複数でも法的には雇用者は割増賃金を払わなければならないと定められています。

 これってつまり「8時間以上は働かせないようにしましょうね~」とか「8時間以上働かせないことが望ましいですよね?」と希望や理想を語っているのではなく、(原則)法的には8時間以上働かせてはならないと禁じています。(労働基準法第36条、通称:三六(サブロク)協定により幅を設けていますが)

 

 「長時間労働」で注目されるのはもっぱら企業においての労働だけであって、家事労働のように無賃労働等の所謂「見えない労働」については蚊帳の外、論外。

 長時間労働、そしてまたこの見えない労働にも従事しているひとは長時間労働どころか"超"長時間労働におよぶ、あるいはもうすでにそのような状態に陥っているひともあるでしょう。

 

 たしかに家事代行サービスや洗濯機や冷凍食品などの発達・普及により一昔前に比べれば断然、家事労働等に費やされる時間は短縮されました。

 

 短縮ということであれば会社での労働時間もそうで、日本人の働き過ぎが問題視されて祝日が設けられていくらか休日が増えました。週休二日制も取り入れられて定着もしました…と、直接的な労働時間の短縮もされてきました。

 

 ただ、それでほんとうに労働時間や企業・労働に拘束されている時間が短縮したか?…というとあやしいところがあります。

 というのは短縮されたはずの労働時間が残業として、またはもっと悪いことにサービス残業へと付け替えられただけということや、これには多分にコンピュータやIT技術の発展と普及ということが寄与(というのかこの場合には弊害という意味合いの方が強くなってしまうのかもしれませんが)しているのですが、仕事の家庭やプライベートへの持ち込み・持ち込まされが増え、結局のところ「昔と比べて労働時間・拘束時間って短くなっ…た?」的な状況がそこここでみられるからです。

 

 このような惨状現状も散見されることから「8時間以上働かせてはならない」ということは、ひいては労働者に原則8時間以上働いてはならない…と注意を促しているようにも響いてきます。

 

逆転現象の弊害

 近現代人はなぜ働くのかといえば生活のため。生活のためには稼がなければなりません。

(※近現代人と限定しているのは、ひとが、人類が生きてゆくためにはお金・貨幣が不可欠ということではないからです)

 しかしその生活のために健康を害し生活がままならないというのでは本末転倒。笑止。

 本末転倒であるのに横行しているので笑止も止むわ。

日本の自殺 - Wikipedia

 

働けど働けど…

 バブル期前では「働けば働いただけ稼げる」というのがある程度妥当するところでしたが、バブル崩壊後以降、現在にも至るなが~い経済の低迷期(←国内の経済規模は拡大したかもしれませんが、人口(構成)や超高齢化社会、都市化や格差など個人レベルの実情・経済感覚として)ではそれが妥当しないことのほうが大勢。

 

 そうじゃない?

 今「働けば働いただけ稼げる」と言われて信じられるひとが、特に好景気を知らない若者のうちにこの言葉を信じられるひとが果たしてどれほどいることでしょう。

 

 (世界)人口の増加と労働集約でモノに溢れ需要不足でモノの価値が低く、薄い利益をめぐる競合他社との競争、そればかりか新たに参入してくる異業種他社(たとえばスーパー化するドラッグストアやリフォームを請け負う家電量販店などなど)もあって競争が激しくなるばかりでモノの価値がさらに下がってコスト削減が求められて人件費は圧縮され企業存命延命が図られるといったような世相で「働けば働いただけ稼げる」は死語となりつつあります。

 

 およそつくればつくっただけ売れるといったようなモノ不足社会であれば妥当する思想であり、権利商売なんてものも珍しくなくなってきた世の中でその実感をもてという方が無茶な話です。

 

すり替わった目的

 おそらくは貨幣経済のはじまった最初期から、働くことは「生活のため」ではなく「お金のため」となっていたことでしょう。目的をすり替えられた。あるいは優先順位を逆転させられたのです。

 「生活のために働いてお金を稼ぐ」が「働いてお金を稼ぐことが生活を成り立たせる」(←「お金を稼ぐために生活・生きている」とまでは言いません。そんな生活を送ることを強いられている方もいらっしゃるようですけれども…)というように。

 言葉の上では微妙な差なので気づきにくいかもしれませんし、今ある生活の中では大した差にはおもわれない精神状態にまで追い込まれているのかもしれませんが、この差は大差。

 

 だから(←「だから」という接続詞が妥当するかあやしい意見が続きますが…)、なぜ生活がままならない(場合によっては「生活のために命を奪われる」ことにもなる)かというと、それは"働き足りない"からなのではなくて、単にお金が足りないだけ、対価が見合っていないからなのではないでしょうか。

 

 8時間以上働かせては・働いてはならないというのに8時間拘束し、それでいて8時間労働で得られる収入では(正規・非正規問わず)ふつうの暮らしもままならないというのは給与体系か、あるいは貨幣運用の仕組みがおかしい。

 

 労働時間の短縮や規制・禁止が必要だし、給与・給付の増額を検討してもいいでしょう。

 

"法の精神"は「国の存続と繁栄」

法は規制する

 「規制緩和=善」といったような風潮・認識がつよいのではないかと感じるのですが、規制は過当競争の抑制や(国家間に限らず同国内の企業間においても謂わば)"底辺への競争"(たとえば、甘い蜜は好まれるから上層で多く消費されて下層にはわずかしか滴り落ちてこないのに対して、苦い蜜は選好対象ではないから上層ではほとんど消費されることなくしわ寄せだけが、しわ寄せのシワシワのクチャクチャだけが下層に垂れ流されます。トリクルダウンで下流に放流されるのは澱ばかり。厄介ごとは下層に押し付けられて底辺に向かう競争の発生)の抑止、固有文化の保護など、貨幣制度を基盤とした経済・財政ばかりを重宝していては見落としてしまう、そしてまたおもっているよりも重要な事柄を守るという機能を有しています。


 たしかに規制を利用した不法行為が横行しているのも事実です。

 ですがやはり"規制"の中には死守した方がよいものもあるわけで、すべての規制緩和がよいことであるという認識をもっている、あるいは抱かせているのであれば、それは改める必要があるでしょう。

 

 地域のお祭りも形骸化していき、ただ花火を見る日、もう花火さえ見ることもなく夜店をめぐるだけの日、なんとなればなににも参拝することすらなく出会いを求める(←これも"縁"だから悪いことだとは思いませんけどね)だけの日にまで貶められているのではないでしょうか。

 

 電気が普及し照明機器が一般的となり、夜らしい夜は夜間から追いやられて昼夜問わず商売・活動・働くことが可能となり24時間営業のお店も珍しくなくなりました。

 同業他社との差別化、隙間、独占市場などをねらって盆暮れ正月祝祭日でさえ出勤・"平日"という企業もいまでは珍しくありません。

 

 昔は年の瀬・年越しが迫ると…「お正月になるとどこもお店が閉まっちゃうから買い込んでおかないと」や「お正月ぐらいは"お母さん"も休めるように(←実際は建前でお正月も、特に本家ともなると忙しくてかなわないのですけれどもね)」とおせち料理やお雑煮をつくって2・3日後には家族から「今日もおせちかぁ…正直あきたなぁ…正月だけに」「なにバカなこといってんのよ。それ去年も一昨年も言ってたじゃない。お正月はお店が閉まってるんだからしょうがないでしょう」…といった毎年お決まりのやりとりが各家庭でみられたものでした。それがよいのかわるいのかはわかりませんし、良し悪しの問題ではないとはおもいますが、昨今"非日常"を求めるなかそれを駆逐していくというのは何とも奇妙な感じがします。あるいは非日常が求められるのは非日常が駆逐され減少したために起きた現象・ムーブメント・揺り返しなのかもしれませんね。

 

…んっ?

 言いたいことはこういうことではなくって、祝祭日をも平日へと変えてしまうことは数ある文化破壊方法のうちの一つではないでしょうか。

 また、このような状況が進行することをたいしたことではないとみなして放置し、進むがままにしておくことは実は危ういことなのではないでしょうか。

 

 なんにせよ労働者の休日が少なすぎる。

 法に定められた祝日(休日)が蔑ろにされています。

 遵法意志薄弱。

 そのくせ社内規則を守りましょうとはどの口が言っているのか。

 

 賃金や休日を奪って消費者が育つか?

 これじゃあ経営者のなかには好きだというひとも多いヘンリー・フォードの考えとも合わないでしょう?

 

事実誤認

 経営者が、そしてまたおそらくは為政者も完全に見落としている、いやほんとうは理屈の上では理解しているのでしょうが言うほどの影響力はないと見誤っているのでしょう、順法意志の低さ、違法状態の放置・順化が国力を削ぐということを。

(経営者は国の存亡よりも会社の存亡をこそ優先して考え行動するというひとの方が多いでしょうから多少は致し方ないというところもありますが、一国を凌ぐほどの経済力を有し、ほんの一社で一国をも二国をも三国をも…全世界をも左右し右往左往させるグローバル・エフェクターなまでに肥大化した昨今においてはその多少の域を遥かに逸脱していますから、そうもいっていられないでしょう。グローバル・スタンダードを生み出すのは、そしてまた生み出してきたのは私企業なのですから。)

 

 たとえば、休めない、有給休暇をとれるような雰囲気でないという風潮は国益を損ないます。

 言い過ぎのように聞こえるかもしれませんが余暇なくして出生率を上げられるでしょうか。

 また自由に使える時間だけが増えてもお金がないのでは家にこもるか稼ぐためによそで働く時間にあてることでしょう。

 

法との共存

 休まないことは決して美徳ではありません。

 それは職場にしか居場所が見いだせず、仕事しかすることがない・思いつかないといった多様性を欠いた状態であり、またそれが会社や国に貢献するものであるかのようでいて、その実、損なうものです。

 

 というのも、不適正価格の横行を許しサービス残業を容認し給与体系の底辺への競争を促し、「それも仕方ない」「大人の世界・事情」と不要な諦観を常識におしあげ必然でない不条理に肯定の地位を譲り渡してしまうのですから。

 そうして自ら招いた苦境に不満を漏らしながらお酒をあおって翌日も出勤する毎日。

 

 長時間労働は国を疲弊させるとは認識されづらい隠れた大問題です。

 国の強靭化を図るのなら、まずは手始めに「愛国の有志よ、有給を消化せよ。」です。

 権利・権限・権能がありながらそれを行使しないという職権・権力乱用もあるのですから。

 

 残業しなければ生活が苦しくなってしまうような給与体系の企業、長時間労働を課す雇用主、国力を低下させてきたのはあなたたちです。

 そしてまたそれに抵抗してこなかったわたしたちです。


権利意識の差異

 日本は資源に乏しく、原料や食料(およびそれに付随する水をも)の多くを輸入にたよっています。

 そればかりか権利や制度など国の根幹にも関わる目には見えない理念や思想でさえ、そのほとんどを輸入にたよってきた輸入大国です。

 

 自ら勝ち取ったものではないからなのか、日本人の権利に対して抱く感情は…"恩恵"、与えられるもの、輸入し享受するもの、貰い物、希望的…といったもので権利(者)意識が薄いのではないかとおもいます。

 対して自ら勝ち取ってきた国々の権利意識は"行使"や"不可侵"といったもので…侵させない、自ら守るもの(自衛)、国や為政者に守らせるもの(監視)、勝ち取り守らせるもの、獲得物、つくるもの、生まれながらに有するもの、抑制する、主体的、管理者…といった意識が強いように感じます。

 

法は束ねる

 法を共有することで習慣や意識を共有し、文化や共同体意識、価値観を形成するということもあります。

 ガチガチに生活を拘束するというのでは自由が抑制されてそれはそれで問題ですが、あまりにも法が蔑ろにされていたり形骸化してただの理念・お飾りになってしまっているのも問題で、またそれは"共有結合"が弱まっているあらわれ・指標となっているのではないでしょうか。

 

忍法・人法・神宝

 人、人間社会が存続するように法は定められます。

 法の"生きる"ところに人間はおり、法(の精神)が歪められたところでは人は生きづらいものです。(←民主制下の法のことで独裁制下の法のことではありません)

 

 民主制であれ独裁制であれ、いずれにせよ"法の精神"は通底しています。

 では"法の精神"とはなにか。

 それは「国の存続と繁栄」。

 民主制と独裁制で異なるのは国民本位か独裁者本位かというだけのこと。

 独裁者本位といっても「独裁者が自らの利益のみを求めた自分本位の政治を行う」ということを必ずしも意味しません。独裁者であっても民を慮った政治を行うひとも(稀に)いるのですから。

 ですから"本位"というのは自分勝手ということではあるのですが、その"勝手"の意味するところは身勝手や自分本位、自己利益優先ということではなく、政治の決定権を握っているということです。

 決定権自体に悪徳も善性もないでしょう?

 

 法の精神は憲法にあり、その憲法の精神は人類・国民の幸福を謳っています。

 

 ただし、たとえ憲法序文などに「人類の繁栄」といったようなことを謳っていたとしても、それは対外的かつ形式的なもので風呂敷を広げすぎているものにすぎず、実際のところ「国(民)の存続と繁栄」のためのものです。

(本来的には"人"が先にあるところでしょうが、その性質上、つまり社会契約、社会運営、またそれを実現・実行するための土壌・環境整備といったところから"国民≒人"よりも"国"が優先されています。)

 

※言うまでもないことですが、ここにいう"法の精神"とはモンテスキューのそれではありません。なのでダブルコーテーション(" ")で囲っています。

 

生まれたものは拡大を目論む

 生まれ出たものは生存を維持しようと拡大(または増殖)を目論むものではないでしょうか。

 しかもこの特質は生物に限らず無生物であっても生まれながらに有する本能なのかもしれません。

 

法(ダルマ)の業(カルマ):法の生存意志

法 (法学) - Wikipedia

 (法と法律との違いに関わらず)生物ではなくモノでさえない法であっても誕生すると生きようとする。

 自ら(法)を傷つけようとするものに抵抗するでしょう?

 その原資・原動力は、その法によって利益を受ける受益者・既得権益者にありますが、それでもそれはあたかも法自身が生きているかのようではありませんか。

 法は誕生すると意志をもつのかもしれません。

 産まれ出たものは意識的にか無意識的にか、生きようとする意志を宿すのかもしれません。

 

 人間は遺伝子の乗り物・ヴィークル・DNA・ミームを存続させる入れ物に過ぎないといった考えや、小麦粉に操られた傀儡(かいらい・くぐつ)に過ぎないのかもしれないとも言われますが、自ら産み出した法に支配された法の入れ物でもあるのかもしれません。

 すると人間とは…単なる"入れ物"に過ぎない…のか?

 

感染する意識

 そんな風に考えていたら、意思が通じるだとか言葉が通じるだとか、およそ伝わるということ、伝播、伝染とはある生まれ出たものの生存意志なのかもしれないとのインスピレーションが降ってきましたよ。

 

 そしてさらには宗教や思想、あるいはそんな大仰なものでなくってももっとも身近で日常にあるコミュニケーションやおしゃべりなんてものもなんといっていいかわからないけれど、いわば(生まれ出た)"思考ウイルス"なるものが(生存維持を図って)伝播・感染していくような、そんなイメージが湧いてきました。

 

 宗教というのは人を介して伝わる思考ウイルスの最たるものかもねなんてね。

 

 このイメージの彷彿には最近読んだ『攻殻機動隊 PERFECT BOOK 1995→2017』にあった「並列化」や「ゴーストハッキング」、「情報の海・第三世界から生まれた…」といった言葉・思考の影響・干渉がありそう。これも思考ウイルス感染の一例…か?すると"発想"のなかには発症によるもの、病状の一つで、発想と発症・発病とは同義語なのかも…と、とめどないのでこのあたりでやめておきますね。

 

恨みつらみの呪詛

 なんとなく章立ててはみたもののとりとめもまとまりもなく内容の重複が多く意図が読みづらく大変に読みにくかったこととおもいますが、ここまで読んでくださってありがとうございます。

 もしここに列するいずれかの言葉・思考があなたのインスピレーションの源泉・感染源となれましたら望外の喜びに存じます。

(とは言いつついくらかは興味深い視点をちりばめ提供できたのではないかとおもっています。)

 

 ここのところ更新が滞っておりますが、なにせ労働(?)時間が長いものでサーカディアンリズムもサーカセミディアンリズムもウルトラディアンリズムももうガタガタで慢性的な睡眠不足。(←ウルトラディアンリズムなんてものもあるなんてはじめて知ったわぁ)

時間生物学 - Wikipedia


 おそらくはそのためにこれまで経験したことのないほど頭がずーっと働かない感じ。考え続けられない、何日要しても考えがまとまらない、ぼんやりしっぱなし。

(ただのボケのはじまりなだけかもしれないけれど…)

 だからまとまりのない文章は忙しさのせいってことにさせて。

 

 仕事憎し。

 忙しさ憎し。

 

 今回はそんな忙しさへの恨みの感情を原資として書かれているので負の感情がだだ漏れ溢れ出ているでしょぉ。

 

 ただこの状態に留め置かれたためにわかったことがあるの。それは習慣に思考を明け渡すということがあるということ、習慣による思考停止というものがあるということ。

 

 『哲子の部屋』でも習慣と考えないということ・考えることの節約・思考停止について触れられていたとおもうのですが、なにかそのことにも通じるようなもの、しかもそれを意識・認識できてしまうような強いやつを体感したようです。