あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

不安の射程

不安が視界を狭める

はじめに

 あぁ~もうダメ。

 なんとか1本道に舗装しようと組み換え言い換えお取り替え、いろいろ試してみたものの環状線になって「不安」「労働」「信用」「勤労意欲」といった各出口で渋滞発生しちゃって流れが悪い。

 1本道にできないこともないですが、それだと重複おおすぎて、それはそれで信号機や一方通行の多発で無駄な公共工事が増えて渋滞緩和につながらない。

 だからもういいも~ん。エイヤッと勢い「公開」ボタンをポチッ。

 各章すこしずつ重なっててすこしずつズレているから論点ふらふら放浪記。

 組み換えるとまた違った事故・問題発生するオフロード。

 

状況の変化に対応した意見

 生涯を通じて意見を変えたなぁーと非難されてしまう方がおられますが、そのような方のなかには信念がなく認識が変わったからではなく、見識が広がったか状況が変わったかしたから変わったのであって、自分の意見や信念は首尾一貫していると譲らない、譲れない方があるかとおもいます(たとえばウィルソンさんあたりはそうなのではないかとおもいます)。

FRB 連邦準備制度 - 隠された真実

アイスランド無血革命を理解するために|ブーゲンビリアのティータイム

 

 「あぁ~意見変えたぁ~」と言われると「意見を変えたんじゃないの状況が変わったの」と言い続けてきましたので、こちらでもそういった塩梅で先に言い訳をしておきます。させてください。

 

念動力の超常現象。実体経済の気化。

 そつなくなんでもまんべんなくできるひとより、なにか1つのことに特化した才能をもつひとや、平均とかけ離れたひとが重宝され成功する社会。

 

 第三次産業が台頭して個別化・個性の発露へと重点が置かれるようになってきているのに、同質が優先される標準仕様の工場・産業労働者を育成することに秀でた前時代的な教育システムってどうなんでしょう?

 

前半勝負の逃げ馬有利

 手に職をつけ熟練を要する職人さんなどは別として、人生の前半の四半世紀の努力がその後の三四半世紀の実績や成果とはほぼ関係なく、ミスさえしなければ生活が保障される「それじゃあ志の高い人が現れづらいじゃない」という(三四半世紀という言葉がなければ、1世紀の4分の1が四半世紀なら、1世紀の4分の3は四3世紀でもいいんじゃなくって?ということで、こう言い表したかった→)資産世紀。

 

物の過不足とストック&フロー

 (物理的な)物・商品は関係や価値を投影していると今よりも素直に信じられていた頃、可処分物を多く保有する物持ちほど利益をあげることができました。

 これはまだ供給不足の需要過多の傾向があったためストックがフローを保障してくれていたからでしょう。なので以前はストックが指標になっていたのだとおもいます。

 

 技術力が上り分業化が一般化して供給過多の需要不足へと傾き、加えて物・商品の関係や価値を投影していると信用されるものが物理的な物ではなく、より観念的な数字へと移行していくと、物・商品は物・商品にすぎないものとなり、フローがストックを保障するようになって、フローが経済指標の主たるものとなったのだとおもいます。

 ですから物を持たずストックはため込まず、数字を動かしてフローをあげた方が利益を享受しやすくなっています。

 

観念を動力源とする実体経済

 物に疎外された人間の逆襲でもあり、新たに数字から疎外の報復を受けているような、なんだか誰が何を疎外しているのか、何に疎外されているのかよくわからない見えない影に脅かされているみたい。

 

 物を持たず(蓄えず)に動かす。なんだかテレキネシスかポルターガイストのようですが、まさしく実体経済は観念動力の様相を強めてきた歴史なのではないでしょうか。

 

 商品は物なのか関係なのか人格なのか価値なのか価格なのか数字なのか…時代や理論や個人によって擬態するタコやカメレオンのような性格を見せるのは、商品(に限らず全てのもの)には実体がなく人間の信任状あってのことだからでしょう。

念力 - Wikipedia

 経済は水ものともいわれますが(水ものではないものってあるのかしら?)、名を持ち人格をもって往来していた物・商品も液化して大洪水の人間経済圏水槽のなかで溺れて息苦しいわ。

 そのうち温暖化の影響でこの水、気化して雲散霧消、露と消えてしまいそう。

 そうなっても雨となって降り注いでまた水槽を満たすのかな。

 

労働価値の夢想。可処分時間の夢遊病。

 たとえば5年80億(年俸16億)円契約。オーナーはますます活躍して価値を高めるかもしれない選手を値上がりなしに囲い込んでおくことができる投資として、選手は怪我や故障、スランプなどに陥っても生活や収入に困らない保険として、互恵とリスクを含んだ不確定なものであることを知りながら取り結ぶ契約。

 このような契約は対等な契約だとおもわれています。

 しかし、ここで価値を生んでいるのは選手の能力・労働力であり、オーナーの側の原資でさえ、その選手の労働力によって賄われています。

 

 仮に現役時代に活躍したオーナーが、現役引退後に起業して、さらに大金持ちとなり球団を創設・買収し、企業利益からその80億を拠出していたとしても、物価も効用も需給状況も違う時間をへだてた、時間でへだてられたもの、今このとき原資となって動いているのではないのですから。

 

 契約期間をずっと縮めて1ヵ月とすると一般的なサラリー体系とおなじ。

 これをこんどは契約期間をずっと延ばして複数年とすると年俸制とおなじ。

 どちらも可処分時間が契約の原資になっていて、可処分時間だけが動いています。

 

勤労意欲の旗下

 社会主義の失敗の要因はいくつかあるとおもいますが、そのうちのひとつに勤労意欲があげられます。

 

勤労意欲の低下はなにも社会主義の専売特許というわけではない

 現在日本でも国をあげて投資を推進しています。

 普段は時間労働者として収入を得て、その収入のうちのいくらかを投資へまわしましょうと励行されています。

 

 時間労働の方は、今そのときの仕事を評価されるのではなく、ある期間の働きを均して算出されます。ほとんどの場合は体系に沿ったもので、直接仕事の出来とは関係のないものも多いでしょう。

 対して投資。なかでもデイトレードでは、今そのときの値動きによって損益が決まります。このある種二重生活においてあなたはどちらに軸足を置きますか?時間労働に精を出しているようにみせて気持ちはいつも投資に向いていませんか?給与体系に沿った時間労働では大きな利益をあげるよりも大きなミスをしないように気を配るのではないでしょうか。時間, クロック, 男, 実業家, ネクタイ, スーツ, 作業時間, 慌ただしさ

 

 また毎月・毎日ノルマがあるようなときは、その日・月にもう少し生産・販売できたとしても、翌日・翌月のノルマを達成するために意図的に生産・販売機会を延期するのではないでしょうか。

 これが常態化すれば勤労意欲はなくなるでしょう。

 

資本の偏向流動

 こちらの企業の株価が上がったからといってそのぶん必ずどこかの企業の株価が下がるということはありません。

 市場全体では必ずプラスマイナスゼロになるということではありませんから。

 

 全企業の株価が上がるということも現実的ではありませんが絶対にないということでもありません。

 ここまで極端でなくともいいですが、好景気で多くの企業の株価が上がると投資家は潤います。

 でもその利益はどこからきたのでしょう?

 数字が動いているだけではありませんか?

 

 仮に空前絶後の好景気の到来で、日本人全員が利益を得たとして、その利益はどこからきたのでしょう?

 外国資本を掠め取ったもの、世界規模で見ればただの資本の移動、それも偏向・偏重した運動ではありませんか?

 

勤労の投函先

 お金で勤労意欲を操作するというのはいかがなものでしょう。

 そうして上がった意欲は勤労に向かっているといえるでしょうか?

 意欲がお金に向かっているでしょ。

 意欲ってそのものに向かっていて、そのものを目的としていることの言いではないですか。

 

 その仕事が好きでお金とか他のものには関係なく、もっとはたらきたいという意思が仕事に向かっているのが仕事における意欲でしょう。

 他物が絡むことで目的がねじ曲げられ、この場合はお金に意欲を回収されてしまうので意欲が低減します。

 

瓦解する勤労絶対王政

 金銭報酬は(外発的動機を向上させることがありますが)内発的動機を低下させる(アンダーマイニング効果)ということが知られています。

 これでは「イノベーション」や「やる気」を称揚したところで勤労意欲湧きづらいでしょう。

 

 これで大人に責任感や社会規範を訴えたところでどれほどの説得力を示せるのでしょう。

 そんな大人の姿をみて育つ子どもにどれほどの魔力を発揮できるのか甚だ疑問です。

 

 お客様の中でどなたか、そのことを理解していながら「やる気をだせぇー!」「仕事に対する責任感を持てぇい!!」「がんばればきっと報われる!!!」と叱咤激励している方ご搭乗されていませんかぁ~?

 

 どうやら社会主義でも資本主義でも、またその混成物であっても、どんなにそれを称揚しても、観念や生産力が増大した社会では勤労意欲は玉座をおわれる運命にあるようです。

 なのでそろそろ勤労意欲の王権体制から脱却しませんか?

 

二つの信用が錯綜する夢のワンダーランド

 

 質のことなるものの交換を容易にするのがお金です。

 お金はそれを持っていれば交換できる、相手は交換に応じるという相互の信任、社会的信用によって成り立っています。

 

 負債が社会的信用に関わるというのは、その負債を抱えた企業との契約・手形・取引は(お金の)交換が保証されていないということです。

 契約したものの、手形を切ってもらったものの、それを換金できるかという将来的な不安、未来のリスクが不確定で不確信です。

 

信用の二重人格

 取引先があなたの古くからのなじみで非の打ち所のないとてもいいひとだったとします。

 このいいひとには非がないのですが、不運にも時代の隆盛、またはいいひとだから連帯保証人となり、相手に逃げられたかなにかして負債を負ったとします。

 いいひとはいいひとなままで依然信用できるひとなのですが、負債によって社会的信用は急落します。このときおなじ信用という言葉で言い表されている対象は異なっています。

 前者の信用は個人の人格に向けられていますが、後者の(社会的)信用はお金あるいは交換の保証に向かっています。

 この異質な信用をおなじ言葉で言い表しているために、とくに第三者からは混同してみられて不幸を呼び込むことがあります。

 

 人格に向かう信用は目に見えませんが、社会的信用は(今や物や商品や労働(力)ではなく)貨幣という形態をとって現前化します。

 「百聞は一見に如かず」ではありませんが、姿態をもったものの威光・威力に制せられ、社会的信用が信用の第一党を占めています。

 こうして信用は数字で測られることが大勢となり「信用」不信が広がります。

 

 社会・貨幣の(社会的)信用恐慌はハイパー・インフレの、個人の(社会的)信用恐慌は破産の呼び水。

 しかしてその実態は…胡蝶の夢?

 

君の視線に恋してる

 

 表層的には物が動かないこと。

 心情的には未来の不透明さが呼び起こす現象。

 それが恐慌ではないでしょうか。

 

 将来が不安で先の見通しがたたなくなると視線は遠い未来、将来世代、普遍的なことへは向かず、今日の生活、数年後の老後、個人的なことへと向けざるをえなくなるでしょう。

 

「労働」「仕事」「活動」の拝借

 ハンナ・アーレントさんは活動力の代表的なものとして(←「思考」もあげていませんでしたっけ?とおもいますので代表的という表現でぼやかし、なおかつひどくざっくりと言いま~す)、日々の暮らしの「労働」、製作(制作)の「仕事」、共同体・政治参加の「活動」の3つに分けています。

 

 ここから…

  • 「労働」は生活費をえるための活動、ということで「仕事」にもかかってしまうアーレントさんの「労働」よりもやや広いもの。
  • 「仕事」は物質的なものにとどまらず観念や仮想も含めた、したがって境界線のはっきりしない、つくるという活動全般におよぶ「労働」にも浸潤しているアーレントさんの「仕事」を逸脱するもの。
  • 「活動」は世界平和や道徳といった、あるのかないのか定かでなく、合議のうえ構築していかなければならないような、普遍的なものに向かうアーレントさんの「活動」よりあやふやでいかがわしく現実味のないもの。

 といったような具合に、アーレントさんの「労働」「仕事」「活動」とは異なる、ただ単語を拝借したものとして使用させて頂きます。

人間の条件

人間の条件

 

 

不安までの距離を目測

 このように遠回りなお断りを致しましたところでわたしのおもったことは、この「労働」「仕事」「活動」は視野の開け、視線の射程に対応するものなのではないかということです。

 そしてまたこの射程を決めるのは、未来展望の不確かさ、将来への不安。

 ここでいう不安は、生活との実際の距離感ではなく、不安との距離感のことです。

 

 フローで測られる社会で個人がストックに向かっているのも、個人の実際の経済状況に対する不安ではなく、感情の不安からくるものに左右されているからでしょ?

 ばらまき政策では消費が上がらないのはそれが不安根治の処方箋になっていないから。だから貯金やタンス預金。

 

 旅行に出かけるとき手荷物がた~っくさんのひといるでしょ。あれってそのひとの経済状態に関係なく不安感のつよいひとの傾向じゃない。「旅先で晩餐会に呼ばれたときに着ていくドレスがなかったらどうしましょう」「タオル足りるかなぁ」「アメニティが合わなかったらどうしましょう」「ドライヤー使えるかしら」…そうして「一泊二日なのにそれぇ!」という大きさのキャリーバック。

 潔癖症傾向の方にみられる「いつも使っているティッシュがなくなったらどうしよう」「石鹸は手放せない」といったようなストック癖も不安感からきてるでしょ。

 

 捨てるほどに遠くまで行けるようになり、持つほどに動けなくなります。

 

不安の射程と思考の圏域

 

 今現在生活に追われているひとは労働に縛られて他に何かを考える余裕がなく、未来展望が開けず、不安に絡め取られていて手の届く範囲の直近の利益、せいぜい自分の人生分の長さの未来しか思い及びづらいでしょう。

 

視界の広さに依る思考の射程

 労働に縛られていては普遍をおもう余裕がなく、不安に絡め取られて労働に駆られます。労働と不安の車輪。不安では個人の人生分の射程しか考慮できないのではないでしょうか。

 

 「労働」にかかずらわなければならないひとの視線は内・個人・自己・自我に向きやすいのではないかとおもいます。

 次に制作。(「製作」が「労働」になっていることも多いですが)制作者は制作できる最低限の余裕はあり、「労働」・生活視野圏よりは広い世界をみることができ、自分の人生の長さをいくぶんか超えて存続し、影響を残すと考えられる制作物・作品の寿命分の長さだけ生活に追われているひとよりは広い視野をもてるでしょう。

 

 「仕事」をしているひと、「仕事」ができるひとは「労働」をしているひとよりは公共的なのではないかとおもいます。

 

 そして活動。将来にわたって生活に不安がないていどの蓄えがあるか、自暴自棄あるいは他者や国や人類のことを第一義として自らの将来には関心がない(ので自らの将来に不安を抱いていない、思い至っていない)ようなひとが、現在・過去・未来といったあまりにも遠くの眺望を想い、時間を超えた普遍ともおもわれるものを見つめることができるのではないでしょうか。

 

普遍をみるなら不安から

 先を見つめている人は自らの人生を省みず、自らの余生を思う人は先に思い及ばず。だから端からは自己犠牲的とも傲慢とも見られることもあるでしょう。

 

 普遍を見つめるためには自己犠牲か余裕、はたまた自己を埒外に置く自己隔離のような自己疎外が必要なのかもしれませんね。

 不安が視線を近視眼的にするのなら、不安の払拭で視線が普遍に向かう…かな?

 

不安を解消すれば視界は、世界は広がる。

 今自分が「労働」「仕事」「活動」のどこにあるのか、これはどんな不安のなかにあるのか、なにを思考しうるかという不安や問題との距離感を測る目安になるかもしれません。

 

 また不安の射程が思考の及ぶ射程だとすると、生活不安は個人の人生、家庭不安は家族や家名の将来、戦争不安は民族の行く末、地球環境不安は人類の存亡にとどまり、世界不安でいよいよ普遍に及ぶのではないでしょうか。

 

 このなかではもっとも現実味のある「活動」・政治参加促進の方途は余裕、つまり生活におわれず「労働」に縛られないようにすることで不安を払拭することだとおもいます。

 

 政治にはお金が必要なのではなく、不安を振り払う余裕が必要なのではないでしょうか。

 格差の放置は政治や人間の条件からの疎外にも通じているとおもいます。

 

政治参加と不安の相関関係

 裁判員制度は国民の司法参加や司法での市民感覚の反映を目的として導入されましたが、諸説紛々ではなく不評ぷんぷん風前の灯火であると感じておられる方もおられるのではないでしょうか。

 かく言うわたくしは裁判員制度には大っ反対!…というほどではなく、そうではなくって時期少々尚早だとおもっています。

 

文化と精神的負担の変遷

 裁判員制度の問題点として、裁判員の精神的負担が大きいというものがありますが、これは運用までの助走が短かったことや事後対策の不備などによるものでしょう。

 

 ほんの数百年前の貴族の子女はコルセットを締め上げすぎて血流を疎外していたということもありますが、なにかあれば気絶してしまうものでした。

 現在気付け薬を常時懐に忍ばせておられる方はほとんどおられないでしょう。

 

 それに戦争体験者の心的外傷後ストレス障害というのは聞きますが、近代以前までは古くから各地で娯楽として行われることもあった公開処刑の観覧によってトラウマを抱えたということはあまり聞いたことがありません。

 トラウマという語がなく、また私心を綴ったものがあまり残されていないからということもあるのでしょうが、この辺りの精神的負担はそうした方がいいということではありませんが、現実的には教育や環境や価値観の変化によって、今よりはもうすこしどうにかなるものなのではないかとおもいます。

 

「プロ意識」という目隠し

 裁判員制度の問題点として、国や個人の経済的負担が大きいというものもありますが、それは給与や生活や国費の問題であって、法や倫理の問題ではないとおもいますので、それは裁判員制度の問題というよりは経済構造の問題なのではないでしょうか。

 

 わたしがもっともひっかかってしまうのが「素人任せにするな」といったような意見です。

 

 法を司るのが司法。法曹界の方々は法の運用・知識に長けていることは事実です。

 また立法は立法府の司るところで代表者が集まって決定される民意を反映しているもの(と形式的には見なされるもの)です。

 ですがだからといって人任せ?立案局面と運用局面では齟齬をきたすことがあるでしょ?でもこのズレは運用に関わらないとわからないこともあるでしょ?法は規制するものである前に法=権利のレヒト(Recht)でしょ?法=権利のプロってどういうこと?法曹界の方々の感覚が市民感覚と乖離していていかがなものかなぁ…という疑念もあって導入されたものでしょ?法は実用に耐えるよう更新・検証し続ける姿勢が必要でしょ。

 

 法は関係・お金・倫理・精神ではなかったでしたっけ?

 産業化と分業化の進展が法にまで及んでいませんか?

 「法曹界の方々、それはあなたたちのお仕事でしょ」と言って自らの活動領域を(お金や時間で代替して)切り売りして(フィクションの)大岡裁きを待望していませんか?

 

 どうも裁判員制度の問題点の多くがお金に回収されてしまっているような気がしてならないのです。

 

「プロ意識」を意識したことありますか?

 「プロ意識」という言葉は「意識」を意識した言葉ではなく、「プロなんだからちゃんとしなさい!」と他者が当人に突きつける責任感情。他者の保証の確約を得たいという危機回避意識から発される「プロ責任」の婉曲表現になっていうような感じがして、そのためにわたしは他者の発する「プロ」という言葉に嫌悪感を喚起されてしまいます。

 

 当人の発する「プロ意識」「プロだから仕事をきっちりこなす」というのは責任をもつということでもありましょうが、それよりも決意表明に近いものだとおもいます。

 そもそもプロはそれを口に出さずとも、また責任や報酬といった他者(との関係)の有無に関わらず、ただただ誇りや自負心や自己満足、それをしないと、そこまでしないとどうにも具合が悪くて落ち着かないといった、もっと利己的で浅ましくも強欲で、俗っぽいのに崇高な意識に向けられた意識のことなのではないかとおもうのです。

 

不安による統治のシナリオ

 オートメーション化もすすみ、生産力が上がり情報処理量や制作量といった1日あたりの消費エネルギー(←消費カロリーではなく)が原始的な生活より3倍ほど高いというのに、1日あたりの労働時間が原始的な生活より1時間ほど長く、一向に労働から解放される兆しが見えないのはなぜ?

 不安で満ちているのはなぜ?

 人心が政治から離れているのはなぜ?

 

 革命や体制変革の動きといった政治参加が活発になることがありますが、それは社会不安からくるものなので、政治改革や政権打倒の色調が濃厚で、政治参加にかわりありませんが、普遍よりも生活に近いものです。

 

 このような政治参加を支配願望の強い方は望まないでしょう。

 もっと言うと、このような方にとっては政治に参加してほしくないとおもうのではないかとおもいます。

目, 心理学, 不安障害, 一般的な, 脅威, サイコ, 多くの, 表示モード

 

 そこで不安と労働。不安を煽って労働に縛り付け、労働に専心させて不安の射程・視界の変域の操作で人心掌握。

 そうして法に関わらない、法に関わらせないようにする歴史の筋書きを辿ってきたのではないかと訝しくおもっています。

 

 多くの問題解決の糸口がお金と紐帯し、お金に集約されて回収されてしまうのは、ひとがお金に不安の元凶となるような意味づけ、用法用量を歪めてしまっているからで、ここを変えれば法=権利、意識、政治参加といった諸々のことを取り戻せるのではないかというおもいに囚われの身となっております。

 

機密の秘密?

 内閣官房機密費などの使途を明らかとしなくともよい報償費の必要性がいかほどのものか測ることができないのですが…必要ですか?

 それを用いない政権運営がなされたことがないからその不必要性がわからないだけなのではないのかとおもっています。

 情報にアクセスしやすい社会では、情報にアクセスしやすい社会なりのやりようがあるでしょう。

機密費と接待費 - 経済はミステリー

 

後出しジャイケン禁止

 たしかに現行では軍事技術などの開発・保有・廃棄に絡む資金の流れは公にしない方がよさそうなものがありますが、そうでないものを隠しすぎなのではないでしょうか。

 

 社会が情報公開の流れに傾いても、難癖付けて個人情報や軍事技術なんかと無理矢理紐付けて隠し続けてしまうのでしょうけれども…。

糾弾 日本の政治改革 自民党の資金の流れ

 

 情報開示によって意思疎通がはかれるので衝突が避けられやすくなるということをどこかで聞いたような気がするのですが「情報公開で軍事衝突を回避」などと打って検索かけても当たらないんですよねぇ。ただの聞き違いだったのかなぁ?

 

 これを真に受けて一国だけ率先して実施しても、各国せーのでつねに情報を開示しあわなければ、情報を秘匿し後出し小出ししてきた国の独り勝ちの構図を発生させやすいですから、情報の後出し小出しに対して他の国が一丸となってその行為を非難し規制するような心情的、倫理的、法的な土壌が必要なんですよねぇ。

 

 情報開示や情報漏洩、諜報活動などによる情報傍受による外交交渉の失敗や敗戦を招いた事実があります。

 

情報イコン

 しかし、ここからはとーーっても派手なことを言いますが、それで壊滅的なダメージを負うのはその国に限定されていませんか?

 情報隠蔽や情報改竄、国家機密などによる情報操作が招くダメージは広く、また永く世界に波及して遺恨のイコンを刻み残していませんか?

 ここでわたしが思い浮かべているのは20世紀初頭のイギリス外交です。

 

 キリスト磔刑は人類の贖いのイコンであって、ある特定のひとたちへの復讐を喚起し弾圧を促すイコンではなかったはずです。

 

 民主政治でも間違いを犯します。

 民主政治は人気者に弱く、人気者になびきやすいおっかないものですが、主権者の意思に反する資金運用によって、主権者の意図しないメッセージを発信してしまうのは民主政治の否定だとおもいます。

 

 為政者からすれば無知な民衆と映るでしょうけれども、それなら説得しなくちゃだめでしょ?

 都合のいい情報だけをばらまいて「国民に審判を仰ぐ(選挙)」とかなんとか言っちゃって、だれが信じるの?

 いやまってよー信奉者は信じるかぁ~。

 

名付け親の威厳

 マーティン・セリグマンさんの説くオペラント条件づけによる学習性無力感のように、低品質・大量生産・大量消費を促進する土壌では、そのような環境に適った消費者が育成され、さらにそのような土壌をつくるといった循環に陥り、無人格化したお金の刺激に対して鈍感に飼い馴らされてしまっているのかもしれません。

 

居場所の加減法

 帰る場所があるなら+1。ないのなら0。帰れない場所があるのなら-1。それで総計マイナスなら、帰れない場所で囲まれたひとの居場所はいずこか?

 かといって逃げ場で囲めば行き場をなくして依存してしまうでしょうけれど。

 

名前制御機構

 デーヴ・グロスマンさんやスタンリー・ミルグラムさんのミルグラム実験(別名:アイヒマンテスト)などから、ひとは権威や大義名分の膝元にあるときや、顔が見えない相手や対象が個人ではなく集団であるときなど、そのようなときには残虐非道な行為をしかねないということを示唆しています。

 

 また「誰だれさんから何なにの理由でいただいた」といったように来歴の明らかな名前のついたお金は名前のついていないお金より大切に使う傾向があるようです。

 

 深夜番組で(無職で)アイドルの追っかけの方が15万円のおひねりを渡し(正確にはアイドルが去り際に1万円返していたので14万円ですが)、取材者がアイドルに「何でお客さんはお金入れてくれるんだと思います?」という質問に「繋がりたいからですかね?繋がれません」と返答をなさっておりました。

 このお金は無色透明なのっぺらぼうなもののように感じます。

 渡す方からも受け取った方からも、そこに感情の移動が感じられず、ただ形骸化した儀式や作法、なにか機械的な作業を目にしているのだという感覚をうけました(ザッピング中に見かけただけですので感覚違いかもしれません)。

 

お金を名づけて見える化する

 世紀末前後に食の安全神話が崩壊したと叫ばれ、その後その対策の一つとして生産者や流通の見える化の潮流が生まれました。

 名前や物語のなかった商品が個性や差異を取り戻して信用を回復してきているケースがみられます。

 

 お金も名前のついた人格をもったようなものにできませんかねぇ?

 お金・数字が商品にもなりますし、お金の流れももう少し見える化して安全性を高めて不安を払拭するようにしたらどうでしょう。

 お金にまだ関係やつながりの役割があるのなら、その方がよりその役をまっとうできるのではないでしょうか。

 

既存の追尾機能を利用した捜索

 デジタルマネーで必要なときにはその(出生から現在に至るまでの)人生・流れを追えるようにしませんか?

 情報追尾を必要なときと限定したとしても、なにを買ったのかプライバシーを侵されたくないというのであれば、せめて誰にということだけでも(これならお金の授受の確認だけでお金の使途用途についての情報管理責任は相手が負うことになるでしょ)残しませんか?

 

 数字に着色。着色料は関係・精神・情・法・倫理。

 

 なんだかまた珍妙なことを言っていると思われるかもしれませが、これは珍しく既存のことを言っているだけなんです。だって普段目にする会計(帳簿)やレシートってそういうものでしょ?あれなんて資金使途記載されてますからね。それをもうちょこっとちゃんとしませんか、とくに公務についておられる方々。というだけのことなんです。

 

価値と価格の隔絶と近似

 価格が販売戦略(市場価格より高額に設定して高級感を演出するなど)やコストから逆算されて価値を装っていることがあります。

 

コンテンツの蔓延と疎外の拡張

 「終わったコンテンツ」略して「オワコン」という言葉があるようです。

 はじめはマンガやアニメにおいて使われていたものが、サービスや商品、はては個人にも適用されて使われているようです。

 ただの言葉遊びなのでしょうけれども、人もコンテンツ扱いになるとは…。

 人格は物・資本に疎外され、いよいよ(お金や数字といった)観念・資本からも疎外されるようになったようです。

 

コンテンツに真偽なし。あるのは信の価値。

 お金も概念もひともみんなコンテンツ。どれも信用を失えば夢まぼろしと消える幻想。

 絵画などの芸術作品が価値をもって高値で競売にかけられるのも、多くの人がその作品の価値を信用しているから。

 贋作が価値をもつのは本物と信じられている間だけ(偽物あるいは作者を詐称した贋作であることが明らかになっても、あまりにもよくできているために価値を保ち続ける贋作なんかもありますが)。

 

 バベルの図書館にすべての書籍が保管されているのなら、世に作家はなく剽窃者しかいない。

 そしてその仕事は創作ではなくレコメンド(リコメンド)。

 その(愛)読者はブックマーカー(ブックマークする人という意の方)。

贋作 - Wikipedia

にせもの美術史―メトロポリタン美術館長と贋作者たちの頭脳戦

にせもの美術史―メトロポリタン美術館長と贋作者たちの頭脳戦

  • 作者: トマスホーヴィング,雨沢泰
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 2002/03
 

 

 戦前戦中に土地や財産を接収され没落したひともあれば、闇市から身を立てた方もおります。

 インフレ対策で預金封鎖や新円切替なんてこともかつてはおこなわれました。

 信じなければ存在定立できないあやしいものと嘆くより、強く信じればそれだけ強度をもった存在定立させられるものと認識して、それならもっとよい意味、もっとよい存在を付与しようという潮流生まれませんかねぇ。

日本は戦後直後に預金封鎖をした前科がある - 格差脱出研究所

 

 そんなことは絵空事、すでに前時代に死に絶えた大きな物語だと嘲笑を誘おうとも、100年先、1000年先の世界をおもって活動するひと、活動できるひとが現在人類のもつ技術力の高さから考慮すると、もっといてもいいのになぁ。