清流が草原をゆき平和と博愛の間に龍が巣くう
現在ある方の初公判の報道がされており、検察の読み上げた調書によると「心の隙間を埋めるため…」だったそうです。
「心の隙間」は埋めなければならないもの?
「心が満たされる」というのは幸せな時に言われる言葉ですが、満たされたところには、もうそれ以上のものは入りません。過剰では溢れてこぼれて受け入れられずに取りこぼします。
幸福感に満たされている時ってまわりが見えていないからそんな風になってしまっているでしょ?それにさえ気づかないほどに。わたしには幸福感に満たされたという経験がありませんのでわからないのですけれども。
「心の隙間」って「余裕」ってことでもあるのではないでしょうかねえ?
その余裕を埋めなければならない、埋めるべきもの、埋まっている方が望ましいという感覚に余裕が感じられませんし、また強迫神経症的だなあと感じます。
その他大勢のひとは満たされたことがなく、あってもごく短期間のことです。これまでにも多くの方々が「心の隙間を…」とおっしゃってきましたけれども、ずっと満たされてきた自身の幸運をおもわないのでしょうかねえ?それも満たされていたがために盲目になっていたところなのですかね。
器が大きいとか小さいと言われますが、器がある以上は限りがあります。ほんとに大きな器はまだ完成していない器のこと?
かわいらしい?
入れ墨に対して特段の抵抗感やおもうところはありませんが、『龍』ってどうなんでしょう?
偉人や豪傑、十字架や鯉ならまだわかります。尊敬し信念とするものを刻む。信仰心を深く彫り込む。姿勢や生き様を映すといったところがあるのでしょう。
でも龍って…。それを言ってしまったら物語も宗教も生き方を投射して見ている実在の生きものもすべて空想にすぎないですけれども、なかでも龍って想像力たくましく大抵は強く格好良いものとして描かれる空想上の生きもので、そのあたりにメルヘンを感じてしまうのです。
多くの方は龍はかっこいいものという認識なのだと思いますが、わたしには「自ら思い描く空想上のカッコイイ生物」に心酔しているのかと想うと、その方のその姿や姿勢がなんだかかわいらしく見えて、遡ってその『龍』も畏怖や脅威の対象ではなく愛らしいものに見えてしまうのです。
学ランの裏地に龍の刺繍を施していたり、修学旅行に行ってその土地とはそれほど縁がないのにも関わらず龍の図柄の入ったなにかを買ってしまうちょっとやんちゃな学生さんのようではありませんか?
それをいくつになっても追い続けているのですから「男ってバカだなあ」といらつかされることも度々ですが、その合間には時折、ほんの時折「男って愛くるしい」とおもうときがありませんか?