あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

逃げちゃえ、若者。

若者擁護

 マッカーサーさんは議会で軍歌の一節にある

老兵は死なず、ただ去りゆくのみ(Old soldiers never die, but fade away)

と残してfade awayしました。

 マッカーサーさんや軍歌の真意ははかりかねますが、いくつかの戦争もの映画などをみていてこんな言葉がよぎりました。

 

「若者は死にたがり、老人は生きたがる。」

 

老兵は死なずかわりに新兵が死す

 戦場にかりだされる兵隊さんのおおくが若者で、士官学校卒のエリートで若者の下士官もいますが、 指揮官になるには知識と経験と生き残ってきた実績、つまりは時間が必要ですから当然といえば当然ですが、だとしても、死に引き寄せられやすいのは、より死に近い老人ではなく、より死から遠いはずの若者。

 

経験の差

 年とともに臆病になるというよりは思慮深くなるのでしょうか?

 そんな実感がないからわかりませんが…。

 若者よりも人脈があって実行しやすく、知識や経験などの情報がおおいために危険を回避しやすい。

 若者よりも楽しかった思い出もおおいぶん、苦しかった経験もおおいでしょう。でもそのごまかし方やいなし方も知っているから生きやすい。

 守るものも増えるでしょうが、それ以上に守りたいものが増えていくのかな?

 執着とか業?

 

死との隔たりと生との隔たりの差

 老人は自分の死についてみずからネタにするぶんにはおおらかですが、ひとにからかわれると機嫌を損ねます。

 

 若者、とくに男の子はちょっとのキズでもギャーギャーさわぐわりに、死ぬとか殺すとかひとごとのように発します。死が遠いからでしょう。

 

 すると「メメント・モリ」を若者に諭したところで理解はされないのもむりもない。

 であるのなら「メメント・モリ」の老人は、生きたがりながらも死にたがる若者の先を歩かなければならないとおもうのですよ。

壬生義士伝

壬生義士伝

 

 

 子ども・青年は死にたがり、死を恐れない。

 死を知らず、死をみていないから。

 

 大人は死にたがらず、死を恐れる。

 しかし生を恐れない。

 

 老人はそれらを越える?

 

 若者は今日を、今をどのように生きるかを考え、老人は今日を、今を生きることが目的となる。生きる意味を失った人は廃人となる。

 若者は今日を如何に生きるかを思い、老人は今日も生きることを感得する。廃人は今日が始まったことを嫌悪して苦痛を覚える。

 

経験を生かして歳だけでなく先を歩きましょう

 若者はなかなか覚えられないと自覚しているけれど、なかなか忘れられないことを自覚している大人はどれぐらいいるのかな?

 なぜわからないのか?なぜできないのか?大人は責めますが、それは忘れられないからでしょ?

 わからなかったことがわからなくない。できなかったことができるようになってしまったから…。

 九九を忘れてくださいと言われてもできないでしょ?なぜなかなか覚えられなかったか思い出せないでしょ?それがわからずに若者を責めるのはどうかなぁ?

 

 先人はじぶんだけでなく、若者のための逃げ道も用意しておいてあげようよ。こっそりと。

 

それってほんとうに教育的?従順にするための調教的じゃあないの?

 「メメント・モリ」では伝わらないから、そこが故郷でなくてもかまわない。はなれがたい大きな心残りと屈辱感があるかもしれない。それでも「I shall return.(かならず帰ってくる)」はもたせてあげましょう?

 大いなる撤退と言い換えてもいいから。

 ひとには逃避と映るかもしれないけれど、本人には攻勢に出た行動だっていうこともあるでしょ?

國破れてマッカーサー

國破れてマッカーサー

  • 作者: 西鋭夫
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2005/07/26
 

 

 大人だって皆勤はむつかしいのに、なんで学生には(お金を渡すわけにはいかないけれど…)有給休暇ないんだろう?

 一日でも休むと取り残されちゃうというのなら、そうならないように設計すればいいだけなのに…。

 ほんの一日休んだだけでわからなくなるほど進行がはやいのは問題なんじゃないのかな?

 労働機械の大量生産工場になってない?

 子どもに「将来なにになりたい?」って聞くのは、将来なにかにならなければならないことを押し付けているようでゾッとしちゃうので、わたしは聞いたことありません。

 

体育座りのどこが体育的なの?教育的?

 体育座りとか三角座りってどうなの?

 あれって荒廃しつつあった教育現場の生徒の動きと大声を制限するために40年ぐらい前に、両膝を両腕で抱えて呼吸しづらくして不自然な姿勢だって聞いたことがあるよ。

 当初不自然な姿勢すぎて広まらないと思われてたのに、応用力に長ける小学生がいとも簡単に吸収して広まっちゃったって。

 わたしもにがてだった~。地べたに座るのがそもそも苦手。おしりがおおきいせいか、1分とたたずに足がしびれちゃう。かといって足を伸ばせば怒られちゃうし。

 大人になってからあんな座り方することないのに、なんでだれも疑問に思わないんだろう?

 

宿題のどこが学術的なの?教育的?

 課題・宿題っていうのもよくわからなかったなぁ~。

 外国みたいに小・中学生でも各自で調べたことや考えたことをレポート形式で提出させるっていうのならわかるよ。でも英単語や漢字の書き取りとか計算問題とか、なんでみんなおなじことするの?覚えてるひととかわかってるひとにはむだでしょ?

 みんながおなじことをすることが平等?

 瞬間記憶っていう反則的な能力もってるひともいるみだいだけど、いいじゃない。

 学習進度によって課題量かえても不平等にはならないんじゃないの~?

 それを見極めるための小テストでもあるんじゃないの~?

 

 おなじ年齢の子が40人も50人も、今は30人ぐらい?が一箇所に集まるなんて特殊な状況なのに、そこは特殊にしないんだね。変なの~。

 これからすこしづつ広まるんだろうけれど、飛び級とかどんどんすすめればいいのに。

 

達しないからといってどうだというの?

 大器晩成「大きな器は大きいがゆえに、完成までに時間がかかる。」ということですが、「大きな器はあまりにも大きすぎるがゆえに、完成せ不(ず)」という解釈もできるそうですよ。

 完成しなくてもいいじゃない。

 完成したところで形あるものみな灰燼にきっするんだから、たいしたことない。

 

 死ぬほど生きづらかったら逃げちゃえ、若者。

 いつか「I have returned.(帰ってきたよ)」と言ってくれればいい。

老子入門

老子入門

  • 作者: 楠山春樹
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2002/12/10