かき氷器をもって砂場へ行こう。
砂場の砂をかき氷器にかけたらシャリシャリになって、肌触りやさしく、手でギュッとすれば思いのままに雪のようにまとまってくれる。もしかしたらスナダルマがかんたんにつくれるようになるかもしれない。
そんなみんなにうれしい空間をつくれるのではないかと想像を膨らませ、当時お砂場で大きな山を築いてはいくつものトンネルを開通させていた子どもが、誰にも悟られないように、ある日、実行にうつす。
そのことを誰にも伝えなかったのは、言えば怒られると考えたからではなく、名乗りでない善意の第三者を装うことで、安住な日陰生活を侵さないようにするためだという防衛手段だったみたい。
ドラえもんに夢を託す。
毎年、梅雨の明けるか明けないかというところで納戸から引っ張りだされ、箱から出されてその封印の解かれる、海水浴シーズンがすっかり過ぎ去ってしまうまでの1・2ヶ月の間は台所の棚の上に鎮座するドラえもんのかき氷器。
セミの鳴き声も聞こえなくなったつい昨日も、冷たい夢見心地をくれたひみつ道具。
今年の御役目もそろそろおわり、また次の夏まで暗い記憶の片隅にしまい込まれてしまう前に連れださなければならない、と思い決意したのか、イスによじ登って、玉座からなんとか静かに誘い出す。
こうして、だれにも見られず最大にして最難関であるとおもわれた第一関門を突破して、いやがうえにも気持ちは高揚。
期待で胸を、それ以上に想像をふくらませ、ドラえもんを抱えていつもの工事現場へと向かう。その足取りはいつもよりもなおいっそう軽く、でもひみつ道具を落とさないようにと慎重に、気を配りながら急く気持ちを抑えつつ歩みをすすめる。
太い木枠で囲まれた、ところどころまだ納得できるほどには粒子の細かくない砕石場に到着すると、おもむろにおヒゲの1本欠けたドラえもんの頭頂部をひねり外し、そこに現れた円筒形の空洞に、まだ粗雑な現実の砂をたくさんつめこんで、頭に蓋をしてひねり戻そうとしたら、どうやらいっぺんに現実を詰め込み過ぎたようで回らず、ここで一呼吸。
リアルをすこし取り除いて仕切り直し。今度はちゃんと押さえ込めた。
ドラえもんの顔の下、首輪の下から夢が次から次へと削り出されて広がってゆく世界で満たされる。
それではいざ行かん。夢の国。
おそらくタケコプターを模したレバーを右に、いよいよ回そ…らないっ。
1cmも動かない。
いやはやこれでもまだ欲張りすぎていたみたい。まだまだ夢と現実が多すぎたようだと察し、また頭を開いて体ごとひっくり返し、砂を抜いて、レバーがちゃんとまわることを確認。そうして今度は砂を少々。たっぷり余白はとりました。
そして再挑戦。さあ出てきて手触り抜群の粉雪サンド。と、再びレバーがまわりだ…ない。
砂は削れないのだということを悟ったその刹那、熱いメルヘンは一瞬にして深淵の彼方まで後退。冷たい現実にあとかたもなく塗りつぶされて、短い夢から醒めた気持ちが覚める。
周りにはだれもいないにも関わらず、この姿をみられることが恥ずかしいことだと、まだあまりに幼いものだから理解はしていなかったのでしょうけれども、それを感じ取り、終始うっすらニヤケ顔だったのに、「えっなになに?なにもなかったけど。まさかかき氷器で砂を削れるなんて微塵も思ってやいませんでしたよ。砂は氷よりもカタイですもの。当然のことじゃなくって?」とでも言いたげに、今ではスンっとおすまし取り繕ってすこしこわばった真顔の面持ち。
ドラえもん自身はひみつ道具にはならないようだということを学んだ夏となったようです。
いったんここでCMです。チャンネルはそのままで。
ドラえもんのかき氷器はこんなタイプのものでした。
砂には無力ですが氷には有効です。
口の中で溶けて広がる、冷たくやさしい現実ならいくらでも削り出せます。
いくら食べても頭がキーンとならない天然氷の絶品フワッフワッかき氷もいいですが、食べるとすぐに頭のキーンがやってくる、砂場の砂のようなやや粒の大きな氷がところどころ残り、ときどきゴリッという歯ざわりのやってくる、昔懐かしい荒っぽいリアルをつきつけるかき氷器。
久しぶりに「そうそうこれこれ。こういうところがいくらシロップをかけても甘くならないところだったなぁ〜」と、あの日のリアルの再確認に、この夏いかが?
冷たいものを食べた時の頭のキーンをしずめる方法
頭がキーンとなったら、その器をおでこに当てて頭を冷やしてみてね。
頭が冷やされると、痛みとして認識されてキーンとなっていたものが、ちゃんと冷たさとして認識し直されるので、頭のキーンがスーンとなくなります。
わたしはゴリゴリかき氷得意じゃなく、あまり食べないからキーンとなることもなく、試したことありませんけどね。
ついでに天然氷のフワッフワッかき氷も食べたことがないから、ほんとにいくら食べても頭キーンとならないのかどうかも知らないんですけどね。
あの夏の日の童話
その場にいなかったのになぜドラえもんさんが夢の製造機械として使われたことを知ったのか?
それはね。その日の夜、昨日の夜とおなじように「かき氷たべるひと〜」と聞いたらなんの反応も示さず、なんかシレ〜っとして、食べるのか食べないのかわからないまま、返事の返ってこないままにドラえもんの頭を開いたら…だったから。
それで要領を得ない説明を聞いて、だいたいこんなことだろうと解釈しました。
氷は削れても砂は削れないことを知ったようですし、もう二度と同じようなことはしなさそうですし、それよりなにより、こんなにやさしいお伽話を聞かされては、怒りの感情なんて湧くわけもなし。
それに、働きに出ていて幼い子ひとり家に残しておかなければならなかった負い目のようなものも手伝って、到底怒るなんてできやしない。考えもおもいもしませんでした。
あれ以来、ドラえもんか砂場を見ると思い起こされるあの夏のメルヘン。
ひとりで砂場で遊ばせるなんて、今では虐待やネグレクトと見なされてしまいそうですが、昔のことと、そこのところはどうぞよしなにお許しください。