あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

抑止する人

戦争抑止力として働くひと

 正午は過ぎてしまいましたが…エイプリルフールを盾に、いつもよりちょっとだけ派手なことをいってみます。

 

前線配備

 開戦となったとき、それを決断した者がまずは前線配備されるようにしたらどうでしょうか?交渉失敗しているのだし、それだけ運も判断力も手腕も欠けているのでしょうから、それほど支障はないのではないかとおもうのです。むしろ居座られると戦争長期化しそうではありませんか?

 

対象外

 それでは「これまで交渉を続けてきた交渉窓口がなくなってしまい停戦の調整などを行おうとおもったとき困るではないか!」と言われるかもしれませんが、その方が開戦を決断するということは少ないのではないでしょうか?

 総理がころころころりと変わっても外交交渉できているある国なぞ眺めておりますととくにそうおもうしだいです。

 

選択再考を迫る処置

 これを国際規約としまして、戦争行為が勃発した場合、戦闘行為の決定をおこなった者は前線に送られるようにします。

 あるいは、戦後、勝敗などにかかわらず混乱を招いたというかどで、それ相応の処罰を受けるようにします。

 

 敗者のみが責めを負っていたからバランスが偏るのであって、勝者にもそこに至るまでの配慮に欠けていたということで罰を科します。

 極端に残酷なものではなくとも、たとえば禁固刑であったり、永年政治行為の禁止でもいいです。

 

葉を加えながら飛ぶ鳥のシルエット この処置は、為政者にそれが戦闘行為に及ぶほどのことなのかを今一度問いかけるものであり、為政者にそれほどの覚悟があるのかを迫るものであり、人気取りの政権支持率向上をねらいとしたような不純な動機による悪徳敷衍の芽を摘みとるものであり、戦後極力禍根を残さないためのものであり…

…要は戦争抑止力とならないでしょうか?

 

あれは戦争?これは戦争?どれが戦争?

 「あれは戦争ではないっ!」と言い張る者がでてくるでしょう。

 しかし戦争終結時には講和条約を結びます。講和条約を結ぶということは、それが戦争であったと認める行為であり、かといって講和条約を結ばず侵攻をつづけるのであれば、それはただの侵略行為ですから国連規約にも反するでしょうし、戦争に相違なく、戦争より非道な行いとして非難必至、制裁必定となります。

 

戦争認定協会?

 “戦争認定“の判断基準として、とりあえずは国境をまたいだ戦闘行為は戦争とするっ!とします。

 ただ…戦争の多くがその当の国境線を争うものであるから判定がむずかしいのですけれどもねぇ…。

 

 ある日、宣戦布告され防衛戦争も致し方ないというような場合は、侵攻された国の要請により国連軍を派兵します。国連軍の戦闘行為の決断だけは上記処置の適用外とします。でないとだれもなにもできなくなってしまいますから。ミース・ファン・デル・ローエ設計のシーグラム・ビルディングのような建物の白黒写真

 

 こうすることで国連がすこしはましな有意義な組織としてはたらくのではないかとおもうのです。ただこの場合、国連やそのトップがしょうもないものだとどうしようもなくなってしまうのですけれどもね。

 

平和機関

日本で戦争のことに触れるなら避けては通れなそうなところ…

 天皇の戦争責任は問いません。それどころか問えません。

 上でも「戦争の最終決定権者・最終責任者」と書いていないのもそのためです。

 戦闘行為の最終認可は陛下がなされますが、戦闘行為の判断・決定は政権を担う者が行い、天皇には政治判断・決断をすることができないようになっているからです。

 このような政体であるにも関わらず天皇の罪を問うのは内閣の責任を天皇に押しつけるだけのものにすぎず、悪徳しか残りません。

 

戦闘行為拒否の大権

 たとえば…開戦の拒否権は天皇陛下に掌握していただいた方がいいのではないかとおもうのです。

 内閣も国民もみな戦争ムード一色に染め上げられ今にも暴発しそうになっていても、天皇陛下が戦闘行為の拒否権を行使されたらそれがどれほど民主的ではなかったとしても戦闘行為は行われないとするのです。

 

 なさけなくも、陛下お一人にそれほどの、これまで以上の重責を担って頂かなければならなそうなほど、今、日本の政治はあやしいものとなっております。

 

 世界で唯一陛下一人担われます非戦権により、世界平和の象徴ともなられ、また先の大戦での天皇のお立場というものの誤解もとかれていくのではないかともおもうのです。大御心は日本の心であり平和の心であったのだと。

 

戦争は政治か?

 「それは天皇の政治介入だっ!」とおっしゃる方もあるでしょう。

 それならばお聞きしたいのですが。

 戦争は政治ですか?

 戦争を政治にしていていいのですか?

 国防・国境・国益…“国”はまつりごと。政治に相違ございませんが、戦争を政治の範疇におさめるのですか?

 逸脱していませんか?

 政治の枠を越えてしまったから、政治でおさめられないから戦争になったのではないのですか?

 

 “開戦”の権限も保持して頂くというわけではないのです。ただ“非戦“の絶対権限だけは握って頂いたらどうでしょうかという提案です。

 

 安保関連法案や改憲をするのなら、このことを加えませんか?

 陛下が「ならぬ」と言われれば理由の如何に依らず「ならぬ」ものとするのです。

 

天皇平和機関説

 かなしくも人の世を統治するには暴力が必要となります。それを必要としないほど、国同士はわかり合えないのです。

 

 最大規模の暴力装置(国)間の協調や尊重が戦争を回避するのです。

 そうではないより小さな暴力装置・集団(軍・自警団・テロ組織など)は戦争を引き起こすことはできても(戦争)抑止力としては弱すぎます。どれほど軍備を整え強力な兵器を開発しても、戦闘能力ほどには抑止力は高まらないのです。

 

 ひとは平和を願いながら統治のための暴力も必要とする表裏一体の生きもの。

 そうであるのなら、言葉がすぎて非難されてしまうかもしれませんが、誤解を恐れず申し上げますれば、「絶対平和のための暴力装置としてはたらく天皇という機関」という考えを提出し各方面から批判されるような愚か者が一人ぐらいいてもいいのではないかとおもい、おもいきっていってみました。

 

 憲法学者でも法学者でも、活動家でもなんでもないのに…なんかごめんなさい。打たれ弱いので攻めないでね。イベント事には無頓着なわたしですが、今日という日を口実に使わせていただきまして、なんとか許してねっ。

 

パノプティコンは世界化する

 戦争が技術を躍進させるというのはよく知られていることです。

 そうであるのなら、発展速度は疑心暗鬼の程度と相関するところがあるのではないかとおもいます。

所々ピースの欠けたPEACEという文字の書かれたパズル

 

せめぎ合う軍拡

 他者・他国から防衛しようという意識は、相手には不信・軍拡の意図と映り自国の軍事力の強化に向かわせます。この動きを察知した当の国はその脅威に対抗できるようさらに軍備を整えます。こうして軍拡競争に突き進みます。

 これをおさめるには絶対的強者・暴力が必要なのかもしれません。

 しかしこれが意図あるものであると、たとえば失策などにより自国でも他国でも不満と緊張感が高まってしまいます。

(ですから神は当初それをおさめ諫めるための機構だったのかもしれませんね?)

 

人類の敗北宣言?

平和な暴力に必要だとおもわれるもの

 ここで規律維持のための平和的(?)な暴力にあるとよいものをあげてみます。

  • 強力な力
  • 潰えない生命
  • 妥当な判断
  • 無私(普段はその存在が意識されないほどの)
  • 干渉をうけない独立性

といったところでしょうか?

 

 種々の暴力を凌駕しなければならないので「強力な力」が必要となり、世代交代などありますとその切り替え時期に、都度、問題が出てきそうなので、そうならないように「潰えない生命」。あとの「妥当な判断」「無私」「干渉をうけない独立性」は、あらゆるものとの適度な距離を保ち、公平公正中立を維持するために必要だとおもわれることです。

 

ひとと平和の性格の不一致?

 ほかにもあるとはおもいますが、これぐらいにしまして…これを実現するとしたら、それは人ではないですよね?

 実現しうるとしたら、やはり人工知能になっちゃうのかな?

 

 ということは、(人工知能は人工物ではありますけれど、そのことはおいといて)人の手だけでは平和を実現できないようです。

 

 ということは、暴力なしの平和は創造できないようです。

 

 人工知能が紛争を事前に回避するか暴力装置としてはたらくか、あるいは人類が滅ぼされるか…いずれの道の先も、“平和“ということに関していえば人類の敗北を意味しているのではないかとおもわれてなりません。

 

 離婚理由の第一位は「性格の不一致」だそうですが、ひとの特質上、平和との相性もあまり芳しくないようですねぇ。ひとの性格にあうものってあるのかなぁ?

 

オブジェなオブジェクト

 国に権力・力を移譲して秩序維持をはかってきましたが、国の歳入を超える想定外の企業の登場でパワーバランスはますます混迷。

 『ヘヴィーオブジェクト』でいうところの一国のオブジェクトにあたる人工知能が開発されて、人間同士の争いの代替として各国の人工知能どうしが競うようなことになるのかな?

 

 昔の学校で、絶対暴力のオブジェといえば体育教師や番長なのではないかとおもいます。理由もなく殴る理不尽な者もありましたが、その存在だけで場を規律正しく統制してしまう体育教師や、強者に刃向かい弱者には手を出さない番長といううまく機能したオブジェもありました。

 「暴力」という語に過敏だとおもわれる現代の学校にはどのような暴力装置が残されているのでしょうか?と、すこし気になりました。

 

パノプティコン見参!

 わたしはなんどか「パノプティコン」という言葉を取りあげていますが、それは

その仕組みに共感するところがあるだとか、ベンサムさんやあるいはフーコーさんの考えに触発されるところがあるといったような、なにかそういう高尚なものがあるからなのではなく、実に仕様もないことなのですが、ただ言いたいというだけです。

 

 監獄を連想させない弾んだ音。これがちょっとお気に入り。

 パノプティコンの意味からしても

all「すべてを」(pan-)observe「みる」 (-opticon)

『wikiedia』より

というように千里眼を想わせ、千里眼といえばむちゃするオーディンさん。

 オーディンさん好きにはそのことものっかるわけです。

 かくしてたびたびパノプティコンが召喚されるのでした。

…おしまい。