小説が開示する問い
ある特殊な状況におかれたとき、ひと・自分は何を考えるだろうか?どのように考えるだろうか?
今まで見つけられなかった、まだ誰にも見つけられていない謎をどのようにして発見できるだろうか?どうしたら見つけられるだろうか?
小説ミステリー
小説において、それを読むことで、そのなかを行き、そのなかで生きることができ、場合によっては、物語世界の特殊な環境に投げ出されて自然と(強制的に)考えさせられます。
そのなかを生きることで、今まで見えなかった、見なかった謎に出会い、突きつけられて、見せつけられることがあります。
そのとき作者は、場の提供者であって、謎の提示者でも解の開陳者でもありません。(そういう場合や、そうなりたがるひともありますが。)
環境によって開示される謎もあります。
謎に会うために、疑問を見つけるために小説を読む人もあります。
問題が書かれた小説、問題の書かれた問題の書をくまなく調べてみても、どこにも答えが書かれていなくて肩透かしをくった経験をもつひとは多いこととおもいます。
答えは書かれていないと気づきつつも、答えはないと知りつつも、それでも一縷の望みをかけて、答えが書かれていると願い読む人もあるでしょう。
実用書と小説の違いは模範解答が提示されているか保留されているかではないでしょうか。
ではなぜ人はわざわざ答えの書かれていない小説を読むのか?
おそらく美しい答えより魅惑的な謎を愛するからでしょう。
解けない謎なら解けないということを解きたいのでしょう。
解けない謎の謎を解きたいのでしょう。
本を読んで得られるのは問い。
創造には、発明や解法という創造に先立つ問題の創造があります。
創造性は新たに生み出すことではなく、問いを見いだすことに端を発っします。
つまり問題意識が創造の別名です。
解答は世界の新しい見方を提示しますが、問いは新しい世界を提示します。
哲学における問いの優位性はここにあるのではないでしょうか?
新しい世界というのは、異次元といった類のものではありません。
日常の新しい見方。
新しい日常の見方のこと。
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