読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

憲法


 民主主義は正しい判断をするとは限りません。民主主義は政治形態であって正誤や善悪の基準ではありません。君主が保科正之や上杉鷹山、山田方谷や二宮尊徳らのように、優れていて徳もあり、家臣や領民も君主を慕い反抗しないのであれば、国政を誤ることは少なく意思決定から実行までがはやくなるので、君主制の方が民主制にも勝り、君主制は理想的な政体となります。これは『社会契約論』においてルソーも言及するところです。しかし、そのような君民一体の統治は実現が難しく、また君主の意志が代々伝えられとは限りません。善政は一代限りということの方が多いでしょう。

 そこで次善の策としてとられるのが民主制です。意思決定から実行までに時間を要し、突発的な出来事への対応が遅れることがありますが、君主が絶大な権力を握り国民を抑圧するという利己的な政体になることを防ぎやすくします。

 合議による決断でも誤ることがあります。独断が悪だということはありません。合議であっても君主の独断であっても、排他的で利己的な判断が国を傾けるのです。

 

 憲法で民主主義を謳う以上は、より民主的な政治を指向することが国民の意志に適うことなのではないでしょうか。

 憲法改正が一度も成されていないことが問題なのではなく、憲法改正の発議が一度も成されていないことが問題なのです。現行憲法に不備を感じず変えたくないから憲法改正の発議には反対だというのは個人の願望です。発議され国民投票に持ちこまれれば憲法が改正されてしまう可能性が高いから憲法改正の発議にも反対するというのは欺瞞です。話し合いをもちかけてくる相手に論破されることが目に見えているので話し合いには応じませんというのと同じです。相互理解の大切さを訴える一方で憲法改正の発議に反対するのは矛盾です。衆愚政治に陥る可能性は憲法に起因するものではありません。主権者たる国民に起因するものであり民主主義の孕む拭いがたい性質です。改正を改悪と称する方もあるようですが、善悪は情動倫理であり個々異なります。民主主義が不可謬であると金科玉条のように偏重しています。

 日本は憲法発議要件が厳しいのか厳しくないのかでいえば、やはり厳しいのです。この論点において引き合いに出されるのが日本と同じように憲法改正発議要件が両議院の3分の2と定められているアメリカです。しかし日本とアメリカでは、多党制か二大政党制かという違い、憲法発議要件が「両議院の総議員の3分の2」なのか「両議院の定足数の3分の2」なのかという違いがあります。またアメリカでは第二次世界大戦以降憲法修正が6回、憲法修正発議件数が1万件以上にのぼります。他国とは政体が異なるので一概には比較検討できませんが、それにしても憲法改正発議件数が0件というのはいかがなものでしょうか。

 どのような条件であれば妥当なのかはわかりませんが、決定ではなく提案であるのなら「両議院の総議員の過半数」は妥当ではないかと思います。

 憲法改正の発議要件より問題なのは憲法改正の有効要件の方ではないでしょうか。憲法改正の発議がされたとして、国民投票についての法律がなく、憲法の条文に過半数の賛成が必要とありますが、有権者の過半数なのか投票数の過半数なのか定足数の過半数なのかが不明で、憲法は改正されうるということが想定されていません。とはいっても憲法は易々と変えられるべきものでもありません。投票方法により結果は異なるものです。「有権者の3分の2」が有効要件としては妥当なのではないでしょうか。

 

 信仰の自由や政教分離を謳っているにも関わらず、日本国憲法第1条は天皇についての記述です。だからといって日本は神道を特別視しているのでしょうか。憲法に記述されているという点ではそうでしょう。しかし権威について成文化されていなかったとしたらどうでしょうか。権威は権力を付与されやすく、権力は権威を欲しやすいものです。権威と権力とを明確に恒久に分けるということを明文化することで、逆説的に権威と権力の集中を抑止しているのです。

 皇室が廃されて天皇が一般人となったとします。一般人となった天皇が立候補し国会議員となり首相になったら権威と権力が集中します。あらかじめ旧皇族の被選挙権を規制するというのは個人の自由の侵害であり権威があると認めて特別視しています。

 そもそも政教分離は英語でSeparation of Religion and StateではなくSeparation of Church and Stateであって、国教分離だといわれます。フランス語においてもReligion(宗教)ではなくEglise(教会)との分離が謳われています。

 今日においても政教分離を謳いならが徹底されていないのは、政教分離が政治と宗教の断絶ではなく、宗教権力の政治介入を防ぐ国教分離のことだからです。政教分離は政治と宗教の乖離ではなく権威と権力の剝離をあらわすのです。政治と宗教の断絶した政体をとっている国はありません。アメリカ合衆国憲法修正第一条に政教分離が謳われていますが、歴代大統領の多くは就任時に聖書を用いて宣誓します。

 フランスはライシテの原則に基づき公的空間から宗教色を廃する傾向にありますが、キリスト教的シンボルは慣例であるとして認める一方で非キリスト教的シンボルは認めず、ノートルダム大聖堂をはじめとするカトリック施設は健在です。

 日本は明治になって不成典であった憲法と皇室典範とを成文化しました。また産業化などにより集団意識は薄れていきました。それにより個を過剰に尊重し信仰心の低くなった現代人の目からすると、政治と宗教とが癒着しているように見えてしまうことは否めません。だからといって一度成文化したものを再び不成文化することもできませんし、そもそも政治の根にあるのは古来より宗教であり信仰です。そこのところも含めて深慮し、日本国憲法を再検証しなければならないのではないかと思うのです。

 

 アメリカ独立宣言において法の下の平等は「~ all men are created equal, that they are endowed by their Creator ~」と神によって人類は平等に創られていると表されています。

 またラ=ファイエットがアメリカ独立宣言を参考にして起草した人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)Article 6では「~ étant égaux à ses yeux ~(英:~ being equal in the eyes of the law, ~)」と法の目の前の平等と表されています。

 そして日本国憲法第14条の英文では「All of the people are equal under the law ~」と字義通り法のしたの平等と表されています。

 日本国憲法はGHQの占領下で押しつけられた講和条約調印前の国家の変局時に制定された憲法であるので無効であるといった意見や、日本国憲法は欠陥憲法だといった様々な意見がありますが、そのことには触れず、日本国憲法のGHQ原案と草案ⅩⅢにある法の下の平等は「All natural persons are equal before the law.」と法の前の平等と表されています。GHQ草案から日本国憲法が作成されるどの過程でbeforeがunderに変わったのかはわかりませんが、underからは覆われている感じや下方という意味合いが漂い、平等が法に抑圧されているように感じるのです。

 アメリカ独立宣言では、神は人類に平等という機能を付与してつくっている、フランス人権宣言では法の中での平等、GHQ草案では法の前での平等を表していて、少なくとも人は法と対面しているように感じるのです。

 Equal justice under lawは法の下での平等な正義や裁判を求めているのでunderが適していますが、日本国憲法の英文にあるような表現には抵抗感があるというか、抵抗を誘引するものがあります。

 

 平等という言葉の影で静かな宗教改革が進行しています。無政府主義や共産主義という言葉では魔性が漂ってしまうため、国民主権という名を冠した、いわば人類主権を実現させようという思潮です。意図的に変容させようとしている者もありますが、魔性を帯びているために、無自覚に魅入られている者も多くいます。自類主権は、理念は高くとも自然状態への回帰あるいは実現です。はたしてその世界は平等で平和なものでしょうか。

 

 憲法はその国の理念を示すもので公平公正の指標ではありません。

 君民一体の国体で君主が優れていれば、その君主制は民主制よりも優れた政体です。

 民主主義を保障するのは国です。民主主義は正しさの指標ではありません。一般意志を表象する公平さの指標とみなされるものです。無瑕疵な憲法はなく完全無欠なしくみはありません。国がより民主的で安定的な政体を確立するためには、ときに憲法の検証が必要です。