あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

不老不死に勝る自由

充溢した力が謀る願望

 古代より絶大な権力を手にした為政者は、ゆるがぬ力を得たその上で、または、それに次いで、不老不死を求めました。

 

 では、不老不死を求める土台となっているもの、その第一義、その前提となっているものはなにかといえば、それは、思うがまま、我がまま、願えば叶う自在の境地、つまりは自由(自在)。

 

 しかしひとは力に満ち足りていると、そのこと - 自由は不老不死に勝るということ - を見逃しがちになる。

 

顚倒する願い

 不死であっても病や怪我などによって体が蝕まれて激痛とともに生きていかなければならないとしたらどうでしょう。

 

 仮に病や傷を負っても痛みはコントロールでき - 痛みをなくしてしまうと辛味や触覚を失ってしまうかもしれないから - 損傷は傷跡も残さず元通りにもなる不老不死であったとしても、生涯、牢獄や、まったくなにも見えない暗闇、または光の中に閉じ込められたり、身体拘束されたままであるとしたらどうでしょう。

 

 「汝に不老不死を与えよう」と言われて有頂天になるひともいるでしょうが、続けて「……ただしこの監獄からは逃れられない」と言われたら、どんなひとでもきっと天頂から絶望の淵へと転落することでしょう。

 

 不老不死でも負った傷は元には戻らないだとか、痛みは自分で調整できないだとか、身体拘束されたままだとか、自在の境地、自由でなければ不老不死は不運不幸な最悪な災厄でしかないことでしょう -知能、思考能力がないのであればその限りではない…と思われる - 。

 

希望からの脱退

 すると、意志してそうするひともいるでしょうし、意志せずともそうなるひともいるでしょうが、いずれはやがて何人も何も考えず何もしない、無気力となることでしょう - 無気力:回避困難なストレス下にながく置かれたり(関連ワード:オペラント条件付け、学習性無力感、セリグマン などなど)、反対に生活に不自由せずある程度願望が叶ってしまう状況がながく続くとひとは無気力となるようです。重度の中毒者がそれにしか興味を示さず、他のことには無関心・無意欲で無気力に見える・となるのに似ているかもしれない。(ほぼ)そのことしか考えておらず、禁断症状のひどいものともなると、それができるのなら「死んでもいい」と、時に漠然と、時に本気で思ってしまうほどの無気力を(ともなった感情を)示すことがある -。

 

 このような永遠の不自由の中では、唯一残された自由は、このような状態だけなのかもしれない。つまり、不自由(な不老不死の状態)から逃れるには、悟りを開いて解脱するぐらいしか…。

 

 悟りを開いて解脱。

 

 それがどういうものなのかはわかりませんが、推測するにそれは、考えるとも考えないような状態、座禅や瞑想の究極の境地、面壁九年どころか面壁永遠、不自由な不老不死に耐えるには、またはそのような状態から救われるには究極の泰然自若、ただあるだけの状態、要は知力を捨ててしまうしかないのかもしれない。

 

自由自在な願い

 不老不死を第一に求めるひとは見誤っている。

 それは第二義的なものであって自由自在こそが第一義であることを。

 あるいはまた不老不死とは自由自在の範疇にあるもので、自由こそが大願であり、より大きな野望であることを。

 

 この錯覚は絶大な力が見せる幻覚であるともいえます。

 もうすでに自由自在であるのだから、次に求めるのは不老不死。

 生老病死を操ることも、それから逃れることもできないにも関わらず自分は自由自在であると。

 

 みな不老不死よりも自由を求めている。

 自由あってこその不老不死。

 不老不死も自由。

 より正確には自在な自由の一種。

 

 ゆえにひとの求める至高の願いは、自由。

 自由に勝る願いなし。

 

不老不死の夢を見せる自由

 若かりし頃、不老不死を願ったひともいるでしょう。

 きっとそれは力が充溢していたから。

 力みなぎりまだ「衰え」を知らなかったあまりに自由に不自由しなかったあのときの夢。

 

 若かりし頃、困苦のなかを生きていたひとは、そのとき不老不死を願うことはないでしょう。

 なぜなら、そのとき、現状に不満足だから。

 「今」が今すぐなくなるように、「今」がもう終わり続かないようにと願っていたでしょうから。

 もしかしたらそんな困窮の日々があまりにもながく続いてしまったから、もうすでに「願う」ことすら失って無気力・無力感のなかを生きてきたのかもしれない(し、今もそうなのかもしれない)し、願っている暇も余裕もなく生活に追われていたのかもしれない。

 

自由の指標…?

 すると翻って、若かりし頃、不老不死を願ったことのあるひとというのは、無自覚にも自らが思っている以上に当時は自由であったのかもしれない。

 

 「いやいやそんなことはない。親の躾が厳しくて…」とか思っているひとでも、不自由で雁字搦めになるほどの過度な躾であったのなら、そのとき不老不死をおもうことはなかったでしょう。「親が死んだ後で好き放題やってやるために不老不死を願うんだっ!」といったような選択的生存戦略をおもったりなんかしていなければね。

 

 不老不死を願うことは力の充足具合を測るひとつのゆる~い指標なのかも、またはゆる~い指標になるかもしれないね。

 

 ところで…

 

 

 あなたは不老不死を願ったことがありますか?

 

 それはいつですか?

 

 そのときあなたは自由でしたか?

 

 今 、 あなたは不老不死を願いますか?