あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

交換の霊の怨 on the 恩

半音移動の長恨歌

 朝鮮文化は恨(ハン)であると言われます。

 わたしにはその真偽のほどが直接にはわかりません。

 それを国からは感じることがあっても人からは感じた経験がないものですから。

恨 - Wikipedia

 

 一方、日本文化は和(ワ)であると言われます。

 でもなんかしっくりこない。よそよそしく余所行きの感じがするのはわたしだけでしょうか?

 それじゃあなんならしっくりくるかって?

 わたしの感覚では恩(オン)の方が近いような感じがします。

 

 和(国)では恨が恩に異動しているのではないか?恨が恩になる怪、恨が恩になっていない怪?とおもったのです。

 ただ恩だとするとそれは日本に限ったことではなく、現代の貨幣社会全体においても当て嵌まってしまうようにおもうのです。

恩 - Wikipedia

 

 貨幣社会・交換社会は受けた恩は返さなければならないというメンタリティを形成してはいないでしょうか?

 強制ではないけれどなにかを頂いたらなにかを返さなければならないという圧力めいたものが多少なりともそこにはあるでしょう?特に日本の儀礼上では。

 それをしないと「非常識〜!変わり者〜!!世間知らず〜!!!」と、言葉を投げかけられることはありませんが、陰ではそう囁かれますでしょう?

 

半音階の不協和音

 エネルギー問題と言いますが、もっともエネルギーを喰ってるのは製造業。

 そんなにつくらなければなりませんか?つくらなければなりませんよねー。

 なぜならつくらなければ産業が衰退するから、…ではなくってぇ、お金が回らなくなるから。

 

 産業が衰退すると言われるでしょうが、それは製造取引量・製造取引額のことであって技術のことではありません。

 「それならつくらなければいいのに」というところですがつくらなければ他国に脅かされてしまいます。

 他を信じられないから。

 信じられる他はないから。

 

 つくらないということを考えられない。

 つくることをやめられない。

 「こんな夢を見た」ことはないけれど、ひとは意固地なまでになかなかかわらない。

黒澤明,夢

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交換時代

 分業の一般化が交換ベース、「交換することが当たり前」という認識を養ってきたのではないでしょうか?

 そしていつしか「公平のための交換」から「交換することが公平である」という意識の方が強くなったのではないでしょうか?

 公平という判断基準をもとに交換という行為が行われていたのが、交換という行為が公平という判断基準を担保し、その代替か保障、証明であるかのように振舞ってはいないでしょうか?

 まあもともと交換が公平だとは限らないですけれどもね。

 このあたりのことは保険や投機についておもうとき、特に強く感じるところです。

 

 ある文化では相手からの贈与に対して返礼しなければ贈与の霊に呪われてしまうそうですから、交換のお霊はもっと激烈な性格をもっているのではないでしょうかね?

マルセル・モース,贈与論

贈与論

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 仮に公平と交換に以上のような関係があったとしたら、この『妖怪の定義』のフローチャートに近いものになりそうな予感がしたので貼り付けてみました。

 

 これをもって分業を否定しようということではありませんよ。分業は効率がよく不可欠であったことは疑いようのないことですから。

 

交換の脅迫

 大々大昔、物々交換はなかったという説もあります。

 単純に考えても衣食住が生活圏の森のなかに充溢しているのなら交換する必要ありませんものね。

 交換しなければならないというのは強固な思い込みなのではないでしょうか?

 現代社会においてさえwin-winは一方的譲渡であっても成り立つこともあります。

 無償でも譲ることで片付くということがありますでしょう?

 これは捨てるときに廃棄料がかかる社会に生きるわたしたちにはますます身近でよりわかりやすい例となっています。

 

 ものが余っているのに交換するのはなんだか滑稽な酷刑?

 現代の貨幣社会の問題は交換を迫ること。貨幣社会は物不足社会の原理であって物余り社会の原理ではないのではないでしょうか?

 

 立派な高層マンションが乱立しているというのにそこには誰も住んでおらずゴーストタウンとなっているところがあります。かとおもえばそこからほんの2・3kmも離れていないところには住むところもなく路上生活を余儀なくされている人たちであふれていたりします。

 それならそのような人たちに使われてもおらず、また使われる予定もない住居を提供して住まわせればいいのに、と、単純に思ってしまうのですが、それはできない、しない。

 なぜならお金がないから。お金を得られないから。これがまかり通ってしまうと貨幣帝国崩壊してしまうから。

 

 こうして貨幣社会を生きない自由は失くなった。

 

 仮にGDPと個人負債額や格差指数などに相関関係があったとしたら、借金してまで金を富裕層に移譲しているというだけのおかしな経済構造なのではないかな?とおもいました。

 魔法のようにパッと産み出されて貸し出されているというのにそれを借りた方は借金返済のために付加価値を産み出し続けることを余儀なくされて、そんな常識が社会を席巻し、そんな意識で相互依存して成長を強要し、また強要され、成長なしでは停滞してしまうから「成長しないと生活が脅かされるぞぉ!」と脅迫し、「付加価値生み出せぇ!」と強要する脅迫強要社会。

 

 現代はコントラストcontrastの強い契約contract社会。

 con(共に)trust(信頼)しないといつまでもcon(共に)tract(ひっぱる)綱引きで疲弊してしまいます。

 

廃れゆく交換台。消えゆく交換手。

 映画『ペイ・フォワード』の前後ぐらいから"交換"に対する認識が揺り動かされ、数千年前の感覚へと揺り戻すような意識が現れてきたのではないかな?と、感じます。

 「例えば?」と聞かれると窮してしまいますが、SNSやクラウドソーシングサイトなどで考えられないほどの低価格、なかには無償のものもあったりすること…とか?

 そこには単純作業の機械への移行などの影響も大いにあることでしょうけれども…なんにしてもとりあげている例が少なく説得力に大いに欠けますが、そこはまあわたしの感覚なので話をすすめてしまいます。

 

 あの頃Pay it forward、恩送りされたものがこの頃やっと現前してきたような感があります。感覚だけで具体例あげられませんけれど。

 田坂広志さんは「螺旋的発展」の法則を説かれておりますが、これは交換におけるその胎動なのではないかとやっぱりわたしの精神がフれているのです。

【PDF】使える弁証法

 

 (内線以外の)電話交換台は時代や技術がすすんで廃れました。それとともに電話交換手は退場していきました。

 時がたてば交換(時)代を抜け、交感、さらには交歓台へと向かい交換主も消えてゆくものなのではないでしょうかねぇ?