わたしが名付けなくてもだれかが名付ける。
名付けられたものは値踏みされる。
わたしは値付けたくないのにだれかが値付ける。
値付けられるものは名付けられる。
値付いたものには名がある。
まだ名付けられていないものをだれよりもいち早くみつけて値踏みすることが開発になっている。
値付けられることが社会に根付くための条件になってしまっている。
値踏みのイニシエーションを経なければ認知の対象とならなくなってしまっている。
あの光はまだだれにも知られていない。
あの闇にはまだ名前がない。
あの場所はまだ値踏みされていない。
どうかこのまま値付けられませんように。
どうかこのままだれにも知られることがありませんように。
土地区画によって所有権が明確になるように…名付けられてその身体の所有者であることを認められるように…
戦時下の軍事教練など、相手の名を奪い、相手を敵と見る「敵視」の養生がすすめられます。
そして戦後には復名、名を還して還俗視するものだからいよいよ反省。
名付けられれば値付けられるおそれがありますが、名付けなければ「視認」されないおそれもあって名付けないわけにもいかず。
ですから、名付けたのなら名を奪わないようにつとめること、国をはじめとした所属組織には名を奪わせないように、そのことを努々忘れさせないようにつとめることが肝要かとおもわれます。
G.C.スピヴァクさんの『デリダ論』に
言葉と物、言葉と思考は、事実、決して一つになることはない。(p.27)
といったようにほかにも例はございますがそれはいいとして、言葉が思考を、富が物を、カネが社会の中で認知される場をつくっている性癖がつよく、言葉が物象化をおこす呪詛のようにこだましているように感じます。
極端で多分に断定的な偏見が練り込まれていますが、この警鐘の音が特段の注意を惹かない日常のなかの時報のように、閑かに響き消えますように。
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