めまぐるしくまわりめぐりつづく
貨幣は貨幣であるから貨幣である
とは岩井克人さんの言葉ですが、貨幣に限らず自我論も他者論も承認論も一元論も二元論もなにもかも、すべてはぐるぐるまわる同語反復。
たとえば概念を獲得した人類が社会をなして言語でもって法として規定し、法(倫理)のもとで貨幣に信をおいて経済活動をおこなうとき、貨幣は貨幣、貨幣は法、貨幣は言語、法は法、法は言語、言語は言語のままその始原にあり、資源であり続けているのは概念でしかありません。
ここでは例として「言語・法・貨幣」をあげただけであり、また岩井さんは「言語・法・貨幣」を課題とし、まだそれについては探求中であるようで明言されておりませんので、岩井さんのおっしゃられる「言語・法・貨幣」とは関係ございません。
ブーメランストリート
ぐるぐる(酔いが)まわるほどに複雑さが増して存在強度が高まって定立・自存し、形をもたなかったものが何層にも折りたたまれて凝集し、屹立・鋭利に研ぎ澄まされていく日本刀のよう。
この刀を活かすも殺すも使い手・知性しだい。
それ自身もトートロジーだから、どんなにぐるぐるまわったとしても依然それも精神しだい。
見かけが如何に複雑怪奇でも、また、どんなに錯綜した構築物も「たそがれ(黄昏)がブルーのアクセントをつけて」虚しくなんどもかえってきてしまう、結局はひとの信に頼るしかない、俗っぽくも信仰の世界。
ふへん探し
13の断片のなかから復活する
富山県の小竹貝塚から91体の縄文人の骨がみつかり、そのうちミトコンドリアのDNAからハプログループを判定できたのが13体あったそうです。
13体ということで共通するのがスペインのエル・シドロン洞窟でネアンデルタール人の化石が発掘されたことです。
この13体の化石からは損傷・欠損した細切れのDNAしか抽出できなかったのですが、それらのDNAをオミックスアプローチによって各DNAの断片から端点の共通項をみつけて参照し、相互に補完してつなぎあわせてDNAを復元したそうです。
法を篩にかける
これを聞いたとき、こんな妄想が作動し始めました…細切れでも復元できるのなら…不変で普遍なものがあるのかはわからないけれど、各国の法や各自の信念といったものの共通項を抽出すると(平等より平準化に寄っちゃうかなぁ…と思いつつも)不変・普遍に近いものになるのではないかと。
そこで、有史以来一時でも施行された各国の法や国際法など、主義主張を問わず成文化されたありとあらゆる法を一つどころに集めてふるいに掛けたら、とっても小さいけれど砂金のように光るものがみつかるのでは?
文章作成ソフトに要約機能がありますし、参照型の翻訳ソフトやSiriや人工知能の発達著しいですから、人による比較法学といった人工的な操作ではなくコンピューターによる政治的な色のつきづらい人工的な操作も一考?それとも一興?なのではないかと。
もうすでにどこかで行われていそうですけれどもね。
そもそも法ってそうやってつくられてきてますし。
哲学者(や革命家)に法学者(や数学者)が多いのは抽象度の高い概念をあつかうからということもあるのでしょうが、共通項を抽出して普遍を探る営為でもあるという、その活動の特徴によるところもあるのではないかと、ふとっおもう。
あるのか?ないのか?やじろべえ
NHK『サイエンスZERO』「教えて!生命の不思議 プレゼンスタジアム2015 前編」のジタバタンという仮想生物を用いた鈴木麗璽さんによる「進化の”ビックリ!”お見せします!」のプレゼンテーションにおいて、同じ状態で同じ実験をしても創発は多様であるということなどを聞きますと、今が何度目の宇宙かはわかりませんし、たとえ条件が同じだったとしても人類は今あるような人類になるかも、そもそも人類が発生するかもわかりませんし、さらには今あるような人類であったとしても、今と同じ法、同じ権利、同じ道徳、同じ倫理をもつのかなぁと考えてしまいます。
そうすると、法や倫理に普遍はありそうにないなぁ〜とも、それでも不変な権利や道徳があるやもしれない、と、メトロノームのように両端に振れつづけて、どちらも夢想の糧になり、おもしろそうだとおもってしまいます。
ふへんはなくとも
恣意的な定義やカテゴリーは定められるものであって、数学や物理法則のように発見するものではありません。イデオロギーにせよ平和希求にせよ法・権利は発明されるものです。
「法は何よりも人間の自覚的な創造の所産であり」と言われますし、人権宣言などにも「権利を創設する」とありますし、また、知的所有権のように後に新設される重要な理念なんかもありますから。
それに所有権の正当性は認められても所有の正当性はどうかはわからないといったように、権利と事態・事象は常に一致するとは限りませんので。
なにかを定めるには合議・合意が必要です。合意に至るには利害関係や信条の一致といったようなものをみなければならないとおもいます。
人権というのは、まさしく教理は異なっても共通する認識を抽出し、確認しあった賜物ではなかったでしょうか。
倫理敷衍の実現困難な性格
仮に普遍的な倫理や道徳があったとしても、倫理や道徳は繊細でもろく弱いものです。
倫理がいくら正しかったとしても、非倫理的なひとは非倫理的であるからこそ倫理には従わず、倫理的なひとが非倫理的なひとを倫理に従わせようとしても、倫理的なひとは、よくいえば優しく、わるくいえば弱腰であるため妥当されてしまいます。
しかして非倫理がまかり通ることとなります。
倫理的なひとが倫理を敷衍しようとおもうなら、非倫理的を上回る狡知性が必要となります。
しかし狡知の性格上、倫理的がそれを発揮することはできず、またそれを行使すれば倫理は非倫理へと転落してしまいます。
諸個人が自発的に倫理をもち発揮しないのであれば倫理の治める世界はやってはきません。
諸個人の倫理を拠所とするのは現実的ではありません。
「いじめられっ子は弱いのではなく優しい。寝ているときなんかにいじめっ子を殺傷したりすることができるのにそれをしないのだから」というようなことを言っていた漫画を思い出しました。著者やタイトルなんかは忘れましたけれど。
倫理の敷衍には、まず、倫理の確定作業が必要となります。
そしてその後に個々の自発に任せるのではなく、かといって強制するのでもない方法を案出する必要があります。
バベルの薔薇
不変・普遍があるのかもわからず、それが「あるかもしれない」とも「ないでしょう」とも言ってみてコロコロコロコロ始終春秋逡巡でしたが、それでもトートロジーなのではないかな?と思います。
まったく同じところをグルグルグルグルするのではなく、転落転倒展開な「π」や「バベルの図書館」みたいな、螺旋のようだけれどそうでもないトートロジーなのではないかな?と、もう一度おなじようなことを言ってみました。
哲学が胡散臭いのではなく、トートロジーな世界の特性が胡散臭さを醸し出しているのではないのかな?
ニーチェさんのウロボロス。ボーアさんの太極図。神話のなかの円環…
タイトル逡巡
今回の記事のタイトルは「世界はトートロジーでできている。」ですが、トートロジーに踊らされている感じから「トートロジー・マジック」、それがあまりにも悪魔的であるので「ベルゼブブの同語反復」や「バアルのトートロジー」、トートロジーをつづめて「トトロの秘術」、トートロジーのトートの語源を組み込んで「トト(神)のトートロジー」、ぐるぐるまわるかんじから「ヨルムンガンド(ミドガルズオルム)のトートロジー」、世界蛇から世界樹を連想して「トトロの木(ユグドラシル)」、北欧神話から連想して「自己(自家)撞着のラグナロク」はどうだろう…と遊行したすえに、ひねりのないシンプルなものにしました。
最期までどうでもいい話でした。