天才と凡才の間隙
天才までの距離
多くの人が自分の知らないことを知っている人を俗に「頭が良い」といいます。
その根拠は「自分の知らないことを知っている」というだけなのに。
なので、他のことは一切ダメダメでも、ある1分野、ある1事だけで天才と裁定されるひともあります。
天才と凡人の差は、天才の知っていることを凡人が知らず、凡人の知らないことを天才が知っていること。
彼が頭がいいのは私の知らないことを知っているから(というわけだけでも実際はないけれど…)。
でも私がそれを知ったら「私は頭がいい」と思う人はいないでしょぅ?
知性の評定は自分に厳し〜い。
無知は無知を知覚していないために無知ですが、天才は無知を知覚しているがために無知です。どちらも無知で愚かしい。無知の知。
天才要件
天才の要件:問題を知るひと。解答者<問題提起者。なぜなら提起の前に解答はないから。
- 第一要件:問いをみつける。問いであることに気づく。
- 第二要件:(解答できない場合)問い方を変える。問いかえる。
- 第三要件:(自らの)問いに解答する。解答を決める。解を創造する。
凡人はあれかこれかに悩み、秀才はあれもこれもと欲張る。天才はあれでもこれでもない閃きを創造する。この点において天才と変人は紙一重で共通するのではないでしょうか?
凡人は苦悩者。
秀才は統合者。
天才は(選択肢の)創造者。
わたしがもうすこし賢ければ他に考えることがあっただろうに…。もうすこしアホなら考えなくてすんだだろうに…。なんと中途半端な…(嘆き)。
偉人はその時代の先端に位置する時代の代表者であって特別者ではない。
おそらくは変革者でもない。
そのように見えるのは変化の域値が限界に達したとき、その突端にたまたま閃きや時流などにのって居合わせただけ。
驚異の天才は驚かない?
『ベルリン天使の詩』で「全知であれば、「ああ」、「おお」と驚くことはない。」というセリフがあったかとおもいます。人は神より「驚嘆」の感情1つ分おおいのかもしれませんね。
特別なものを見ることは日常の中にある特別なもの、驚嘆すべきもの、驚きに気づくため?
特別なことは隠れているのでも隠されているのでもなく、わたしたちがただ気づかないだけ。主題として取りあげないだけ。
神には見えてしまっているから驚けない。
アフリカの少数民族は視力がとてもいいのでタネがみえてしまい、手品におどろかないように。
哲学が難解なのは天動説でいう周天円を持ち出してきたためで、地動説で考えれば単純(※単調ではなくね)(天動説も科学的ではないにしても独特の美しさをもっているとおもいます)。
すべては単純。
ただ単純が組み合わさって絡まりあって難しくなっている。根底にあることをみるのが一番難しい。
理解力があるというのは現象を前提とした意味を付与するのが早いということだとおもいます。この点において受容力と同義。
天然ちゃんは疑義をはさまず現象を現象のままに受けとり、知識や前後の脈絡とは関係なしに、別にしたままにできる。
意味に囲まれた社会において天然ちゃんは希有なのかもしれない。
また天然ちゃんは理解力のあるひとより意味から離れている分、真理・実相に近いのかもしれない。
知性だけが“ ”を知る?
人間に思考能力があるのは、ないということを知覚するためなのかもしれない。
他の生物はあることしか知覚できないから。
ないということはどういうことなのか?
どんな状態なのか?
何を意味していて何を伝えているのか?
そこでどのように生きるのか?
どのように生きられるのか?
どのように死ねるのか?
これを考えることが“ない“を知覚する人間の役割かもしれない。
知能を持ってしまったがために愚かしく、はかなく、美しく、醜く、けなげな人類を憐れみたまえ。
知は人の背負う原罪であり美であり崇高さ。
こちらもいかが?