あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

神話

 事実と真実と史実とは字形が似ていますが、それぞれの語の間には乗り越えがたい差異があります。

 事実は実際におこった出来事をあらわし、疑い得ない科学的な確実性を示す語です。

 真実は偽りがなく本当であることをあらわし、私見が正当であることを示す語です。真実は偽ではなく真であるということを強調した語ですから、複数の解釈や見解があるということを前提とし、その中から合理的で根拠がみいだされるとみずからを得心させるもの、ある事実に付与された解釈や見解のうち真であると思われるものを抽出したということを表明する語です。真実は確実性を表す語ではなく、正当性を表す語です。真実は事実に近いことが多いのですが、話者の主観が介入していますので、話者の見解による事実性の言明にとどまります。これは数字のゼロと零、つまり確率0%と確率ほぼ0%のような違いに似ているようにみえますがそうではありません。

 確実であるというのは、確かさの検証が可能なもので、科学の範疇です。対して正当であるというのは、真偽よりもその妥当性が問われる心情的なもので、認識の範疇です。真偽を判定する基準が異なります。

 史実は編著者の真実や創作が文字で残された記録です。映像は書物に記載されているものよりは事実に近いのですが、それでもカメラの性能やアングルなどの制限を受けますので、事実自体にはなりません。

 

 国民全員がその国の神話を知らないのではないも同然ですから、ある程度の国民が神話を知っていなければなりませんが、それでも神話は国民が知っているかどうかより、国に神話があるかどうかということの方が肝心です。

 神話を普段から意識して生活している人はいません。また神話は、非科学的で合理性がなく古人の創作物にすぎないと軽視されます。しかし神話は国、ひいてはその国の国民にとっては重要なものです。神話の内容がいかに胡散臭くとも、それは記述の正確性の問題であって正当性の問題ではありません。歴史事実の検証は再現性がなく科学分野の事柄ではないので不可能です。しかし歴史の正当性の保守は可能なことです。それは確実性よりもより信意や心情に依拠するものだからです。

 

 中国における天や西欧の王権神授説など、国の正当性を保証するものとして神を戴きます。そしてまた神話をもちます。神話をもたない部族ありません。国が神話をもっていなかったとしても国が国教と定める宗教には神がいて神話があります。さらにその神話では世界と人類の創造が語られています。それ以上起源を遡ることができないので神を信仰し、その神話を受容するのであれば、必然的に権力をふるわず姿を現さない神が絶対的な権威となります。これは神も権威も戴かない国はないということです。

 ユダヤ人は神を戴き神話をもっていますが国がありません。しかし強固に結びついた集団です。信仰には国土を凌駕する力があります。

 政治の根にあるのは宗教です。宗教が政治利用されているのではなく、政治が宗教に動かされているのです。

 社会主義国は神を否定しました。しかし社会主義の多くは失敗し今日では神との和解が図られています。

 

 国の視点でみたとき、神話は信仰のためというより正当性のために重要です。その国がどのような歴史をもち、どのような建国の経緯を辿り、そこに住む人はどこから来て、その世界がどのようにつくられたのか。忘却の彼方に創世の過去から今に至るまでを明かし、その国が太古よりそこにあった正当性を証するのが神話です。神話を否定することは古代から現代までその地を占有してきた一貫性を断ち切ることです。神の不在、つまりは神話の不在は正当性の不在です。神話なくして国は存続しません。

 国民個人の土地や財産の所有権は国の保障があってのものです。国の保障なく所有権を主張したところでその正当性を保障するものはありません。個人のみに依拠する正当性は個人のみに適用されるものであって、公には認められない不当なものです。その個人の正当性が蹂躙されたところで、蹂躙されたと思っているのはその個人だけです。

 

 国が倒れればその国で所有している土地は保障されません。その国を倒した国にとって先住者の土地を保障する義理はないのですから。いくら自分たちが何代も前からそこを占有していたのだと訴えたところで、それの根拠としてなにを示すことができるでしょうか。その土地で発掘された名の刻まれた刀剣が見つかったとしても、それはそこに人がいたという証でしかなく、その人とのつながりは示されてはいません。

 神話が世界の起源からはじめられるのはそれ以上遡れないようにするためです。神話が世界の起源より記述されていなかったら、さらに古い時代には自分たちがそこを占有していて奪われたのだと主張し、その国の正当性を崩しにかかるでしょう。

 神話の検証は歴史の空白を埋めることがありますので有意義です。しかしそれによって神話を改変してはなりません。国を興そうとする者は正当性をえるために既存の世界の起源を語る神話とみずからとを一つにつなぎます。

 

 神話の改変であっても、すでに神話が確固とした地位を占めた社会においては、ソポクレス、アイスキュロス、エウリピデスの古代ギリシア三大悲劇詩人などにもみられるように、神話の変容ではなく神話物語であることが当然のことと認知されるため、国を脅かすものではなく、むしろ知識の共有を促し強化するはたらきをもちます。つまり神話の確立されている社会においては、神話の変容は国力の強化に貢献することがあるということです。当時の詩劇は神話を貶めるものではなく、神話を讃えるものであり、道徳心や感動を呼び起こし、人びとの連帯感を強めるものでした。

 

 領土問題は物理的な土地の問題なのではなく、歴史を否定され正当性を奪われることが問題です。二国間で領土についての対立がおきるとき歴史認識の問題も浮上します。二国間で歴史認識が対立していることもありますが、領土や資源を獲得するために正当性を崩す方便として使われることもあります。歴史は神話ほどないがしろにはされていませんが、実害のない観念的な問題ではありません。

 

 神話は神の話ですので神の登場しない神話はありません。同様に、神話がなければ神を神とする根拠が無いので神話をもたな神もいません。

 その国が大変革を起こす兆しは神話に現れます。ユダヤ教とキリスト教とイスラム教とは同じ神を戴く宗教です。旧約聖書のなかでも天地創造からモーセまで、『創世記』から『申命記』までは共通する正典です。これら三教の分岐点は旧約聖書の後の話であり、その違いが現代にも引き継がれ国の形にも影響しています。

 現代においても興亡する新興宗教は既存の神話の天地創造を利用します。世界と人類の創造のところまでを拝借し、そこから改変してみずからの教えに権威の威光をかけて正当化します。

 神話は天地創造の一からはつくられないのです。それらしい天地開闢を語る物語には、それを信仰する者が現れ、後に神話となりえるのではないでしょうか。今日においてそれは科学です。科学は数と現象への信仰がなければ成り立たない神話です。

 世界の姿を説き明かし自然の摂理を語る役割が宗教から科学へと移行しつつあります。それに伴って権威も宗教から科学へと移行してきています。しかしそれでも世界の起源や終焉などについては実証不可能で再現性のないものなので形而上学にとどまります。

 神話の強さは確実性より正当性に依拠していることです。確実性によって担保されているものは覆ることがありますが、正当性によって担保されているものは覆りません。たとえ科学的に世界の起源が解きあかされたとしても、神話の世界の起源を塗り替えることはできません。むしろ科学の世界の起源が神話の世界の起源に塗り替えられることがあります。世界の始まりが神の一撃と形容されるように。

 神話の変容が争いの火種の予兆だからといって、変化を力で押さえ込んでしまっては、その力が争いの火種となります。神話の変容を防ぐためには神話を正史として確立し伝承することです。神話は国の安定を示す隠れた目安です。

 

 資本主義は有神論から発し、共産主義は無神論から発します。社会主義が失敗した要因の一つは神話が不在で正当性がなかったからではないでしょうか。ソ連の社会主義体制下では宗教は厳しい弾圧を受けました。しかし信仰が滅びることはありませんでした。これは世界と人類の創造神話が抜け落ちている国は存続できないことを示しているのではないでしょうか。また多様に存在するいずれの神話も天地が分かたれる世界の起源にまで言及しているので神話を統一することはできず、地球規模の統一国家、いわば地球国家のようなものは実現しないでしょう。

 

 神のいない神話はなく、神話のない神はいません。神話をもたない民族はなく、起源を語らない神話はありません。神話は神の証であり信仰の要です。世界の起源から現在までを貫く一糸です。個人の信仰は自由です。

 神話は国の正当性の証です。したがって神話が変わるとき国も変わります。神話の多様性は統一国家が不可能であることを暗示します。