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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

芸術


 芸術とはタウマゼイン・存在驚愕だ、と高尚なことを言ってもいいのですが、もうすでに広げすぎた風呂敷、破れてしまう寸前ですので、やめておきますが、美しいもすばらしいも感動から、心を動かされることから生じます。錯視図形は初めて見るものに少なからず驚嘆を与えます。ただし、その見方がわからなければ驚嘆は起きません。これは芸術全般にいえることですが、芸術の真価はその見方がわからなければわからないのです。そしてこの見方は好みとなって表れます。

 

 芸術の理解はその対象に変化を感じることができるかどうかにかかっていると思います。芸術、中でも絵画は、ある一瞬を切り抜いたもので、変化を感じないことの方が普通であるようなものが多いのですが、その対象の知覚者が、その一瞬の前後、その背景に変化を感じられるかどうかということであって、その点がその対象以上に重要になっていると思います。

 

 しかし、私たちには、芸術にはじめて対面したときの感動を奪う、慣れという機能が備わっています。美や感動、驚嘆が薄れるのは変化が感じられなくなっていくからではないでしょうか。変化の不知覚が慣れと呼ばれるものです。芸術はその対象が持ち合わせている変化の多様さではなく、それにも増して、変化の持続、永続性が重要です。多様さは不必要であると言いたいのではありません。人によってはその多様さに永続性を見出す人もいるからです。

 

 一見、抽象画は感覚的で情動的な絵であると断定されやすいのですが、その根底には現実を直視したリアリティーが込められています。ピカソやブラックなどを代表とするキュビスムの手法は、次元を超えて時間をも含ませて描こうとした方法・思考です。エルンストやマグリット、ダリなどを代表とするシュルレアリスムの手法は、無意識の領域で普段はアクセスできない超現実にアクセスし、それを描こうとした自動書記という考えを経た方法・思考です。もちろん、すべてが感覚的ではないのでも、あまりにも数学的であるのでもなく、そのような側面がある場合も、ない場合もあるということです。

 

 変化の永続性と芸術との関係は、絵画だけに限らず、他の芸術すべてにもあてはまるのではないでしょうか。なかでも音楽は明確で、視覚的な形がないため、一番に想起されることです。

 

 古代ギリシアの哲学者で数学者、そしてまた教祖でもあったピュタゴラスは、アルケーは数であるとしました。ピュタゴラスは音律が整数比であることを発見し、音楽と数学の関係を浮き彫りにしました。

 

 日本の短歌や俳句、中国の漢詩やインドの経文、欧米のポエムや神話など、一般に詩と総称されるものの多くは定型詩で表されており、文字数と音が理路整然と並べられて、調和を生み出しています。

 

 ただし調和だけが芸術であると言いたいのではありません。非調和、つまり混沌に、いわば調和していないという調和を見出すこともあるからです。不協和音は不快な音という意味ではありませんが、不協和音と協和音のように、その人により、その場所により、その時により、なにを不協和音とし、なにを協和音とするかは、かわってくると思うのですが、同じように調和しているかどうかも変動であるために不明瞭なことであり続けるのではないでしょうか。

 

 価値は希少性に比例する側面がありますが、その根底には、それが失われた永続性が永続・持続するからではないでしょうか。つまり、数が少ないということ以上に、失われたままであるという状況が価値を高めるということです。つまり、希少価値の根底には喪失という永続性が隠れているのではないでしょうか。

 

 近年のゲーム会社は、当初、新機種のゲーム機を売上予測台数よりも低く販売し希少性を故意に作り出します。しかし今日、消費者は後に追加発売されるであろう事を重々承知しています。それにも関わらず希少価値が昂じます。先に希少価値の根底には喪失の永続性があると言いましたが、この場合にはあてはまらないようにみえます。しかしこれは永続性がそのときにおいて、そのときに特化して感じられているからではないでしょうか。

 

 価値は相場によって刻々と変化します。したがって芸術をも含めて、あらゆるものの価値は、それのみでは考えられません。社会や政治・経済など、総合勘案された過程を経て、そのときの価値が決まります。

 

 絵画をはじめとした芸術は未完成のままにあります。そのもの自体が変化しなくとも、その周りが変化していくため、評価、価値、状況が変わり劣化も生じるため、静止という完成に至らず、常に流れの中に置かれます。そして、この流れはやむことがないので完成することはありません。しかしその一方で、時々、刻々と完成を繰り返しているともいえます。ある世界においては全てが、現在が始まりでもあり終わりでもあるからです。

 

 あらゆるものを変動というものを基礎にして考えると、芸術における美や感動、驚嘆は、その対象が個人に極端に変化を感じさせるために起こる現象であると考えられます。躍動的な絵、遠近感のある版画、吸い込まれるような写真、生きているような彫刻、動きのある建築といったように、芸術作品を評価するときには変化が知覚されています。変化の知覚における変化の賞賛は、その変化を通じて世界の変化を賞賛しているようにみえます。

 

 ガダマーや渡邊二郎らが言うように、芸術は世界の「真実・真理・真相」に触れることであるというのは、変動そのものに触れること、それを知覚すること、再確認すること、ということではないでしょうか。そしてまた、その作品があること、目の前にしていること・対面していることなど、作品を介して、忘我の境地に至り作品と一体となって、普段忘れられている現在・あるということに触れることではないでしょうか。

 

 作品によって感動させる対象が違う、あるいは人によって感動する作品が異なるのは、作品の持つ複雑さ、あるいはその人の持つ固有の複雑さが異なるからではないでしょうか。つまり感動には共感が必要だということです。ただしこの共感は心情的なものというより、互いの複雑さという意味です。超弦理論のひもを極大して曲解したものを想像すると、作品も私もひもでできていて、互いの振動数が近いかどうか、共振のしやすさが感動の差異なのではないかと妄想してしまいます。

 

 芸術は批評されるものではありません。なぜなら、複雑さはそれほど先鋭化された普遍なものではなく、多様なものであるからです。ある複雑さにとってはたいしたことがなくても、他の複雑さにとっては影響があるということがあります。ある程度普遍的にみえるものもありますが、それも絶対ではありません。

 

 近代芸術においてモンドリアンをはじめとする構成主義が地位を固めましたが、普遍に美しく万人を共感させる構成、単体、あるいは対象同士の配置・配色・配線といったものがあるとは思えません。これが絵画であれば、その美意識は個人の目に依存し過ぎていますし、音楽であれば耳に依存しすぎているように思われます。

 

 たとえば、ある配置という視覚的な構成では、可視であること、つまり目が見えるということが前提となっていますが、目が見えない人にとっては、美以前の問題となってしまいます。確かにシンクロニシティやバタフライエフェクトなど、隔絶したコロニー間や遠隔地域間であるにも関わらず、影響を及ぼし合うということはありますが、それは直接的ではなく間接的です。つまり構成そのものから美を感得するのではなく、構成そのものの美が及ぼした影響から、美を、あるいは美ではないものかもしれませんが、なにかしらの影響を享受するということです。

 

 千住博は、美は「強さ」だといいます。他の著書では「伝統的に日本人は、「強さ」より「弱さ」の中に、美を見いだしてきたように思える。「弱いから美しい」という価値観だ。」と言っていますが、この弱さは強さを根底に持つもので、強さと比較した相対的な弱さではなく、強さの中でも生存している絶対的な強度を持った弱さ、強さと対比されることでいっそうきわだつ弱い強さをもったなにかであると解しています。

 

 いずれにしろ私は、美は強さだという考えを知って以降、芸術や美について考えるときには、それを中心に考えなければ仕方がないという偏向・習慣が身についてしまい、その考えに居ついてしまいましたので、美は強さだということを前提として話を進めます。

 

 美や芸術には多少なりとも強さが不可欠だと思います。弱いもの、つまり印象の薄いものや感動を与えないものは、美や芸術の対象とはされません。しかしだからといって、あるものが力を有しているわけではありません。美や芸術の対象があるとして、それに相対している我々も対象です。言わば私たちは美や芸術とは常に対対象の関係にあるということです。そしてこの対象というのは少なからず、必ず力を持っています。ここでいう力というのは曖昧な使われ方をしていますが、濃度・複雑さ・存在ということと同じです。美や芸術の表れに不可欠なのがこの力、存在です。存在のあるところに美はあります。あるべきところにない、またはないからこそ美しいといった美もありますが、不在は存在を根底に持つ「~がない」ということなので存在しています。これは非在ということとは別です。また存在と不在とは対ではありません。存在は事実・現実のことです。そこから考えると、不在は虚偽・非現実のことです。しかし虚偽も非現実も現前すれば事実・現実です。そもそも虚偽や非現実などないのです。

 

 私たちが美と対対象の関係にあるということは、いわば、美は化学反応であるということです。対象自体が美をもつのではなく、対象とその対象に対峙している私たち対象とがあわさって美を構成・生み出すのです。美は美そのものといったイデア的ものをもっているのではなく、対象と対対象との関係により生じるものです。このとき、対象と対対象という隔たりがなくなり、一つの対象、あるいは対象を越えた超対象といったものになり、それが美となります。したがって美は独我的な面も融和的な面も併せ持ちます。

 

 美を構成するのは歴史、風土、文化、価値、構造、趣味嗜好、対象、対対象、場所、雰囲気、機会など、目に見えるものから見えないもの、聞こえるものから聞こえないものまで、ありとあらゆるものの総合によって成り立つものです。言い換えれば存在によってなりたつのが美です。したがって、総合芸術という言葉は、芸術という語を強調する語でしかありません。総合芸術でない芸術があるでしょうか。

 

 また、良いと悪いとは感情ではなく、慣習・反応であるように、芸術も慣習・反応なのではないでしょうか。

 

 本来存在しないものはありません。なぜなら存在とは事実・現実のことだからです。これはつまり芸術の対象とならないものはないということです。普段のなにげない生活にも美は見出せます。美は周りに満ち溢れています。見出せないということは、私たち対対象が気づいていないだけです。芸術でないものがあるでしょうか。むしろ芸術しかないのではないでしょうか。

 

 大病を患い余命幾ばくもない状態や、今まさに死なんとする人が、ただ生きているということ、その事実にえもいわれぬ美しさを感じるのはこのことではないでしょうか。

 

 悲しみはなにかが増すことではなく、なにかが失われることで生じます。痛みがひどくて悲しくなることがありますが、これは痛みによって健康・身体の自由が失われるからではないでしょうか。また殺人や窃盗など人為的になにかが失われると怒りと悲しみを感じ、災害や疾病などの自然現象によってなにかが失われるとやり場のない憤りや悲しみを感じます。悲しみは意外と怒りに近いのかもしれません。芸術にはこのような負の局面を事実として肯定し美へと昇華させる強さがあります。

 

 ただし、なんでもかんでも美しいものだと認め、美の安売りをしてしまっては、美や芸術という語がある意味がありませんし、凡庸・怠惰になってしまいます。

 

 対象がもつ美、つまり力は対対象を如何にどれほど驚かせるか、一体となれるか、類似しているかにかかっているのではないでしょうか。

 

 原始の人類において、制作は狩や採集の道具、居住区の確保のために行われていました。ここに遊びや利便性が加わり、後に表現の方法となり芸術へと昇華しました。

 芸術にはなにかしらの制作が伴います。その根底には生存方法、生存への意志、生きることがあります。つまり芸術の根底にも生きるということが据えられています。