あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

"法の精神"を蝕む長時間労働

 現在、長時間労働といってまず思い浮かぶ産業は配送業でしょう(←例の印象的な映像とかね)。

 

 そしてこれは以前、聞きかじってはいたのですが高速(道路)催眠現象(ハイウェイ・ヒプノーシス)。

 

 長時間労働による睡眠不足で判断力の低下。

 加えて高速道路催眠現象。

 睡魔のワンツーパンチ。

 これで「居眠り運転するな」なんて無茶でしょう。

 むしろ何十年も居眠り事故を起こさず就労していることが奇跡的なことで、そのひとはきっと一重足りない二重苦にさらされている奇跡の人たち。

 

 それほど困難で不可能におもわれることを課しながらわき見事故より居眠り事故を起こした場合の方が罰則が厳しいって…それじゃあ仮に居眠り事故であっても事故を起こしたひとは「わき見運転によるものだ」って言い張ることでしょうよぉ。

 これじゃあ信頼のおけない統計データが集まるよぉ。

 もうすでに偽わき見事故がわき見事故の中に多くの居眠り事故が紛れ込んでるんじゃあないのかい?それでいいのかい?

集中力の限界!起床後13時間で作業効率が落ち、15時間で酒気帯び運転!?

 

働かせてはならない使用者≒働いてはならない労働者

労働基準法第32条に…

  1. 使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。
  2. 使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない。

とあります。

 

 法定労働時間(原則1日8時間、週40時間以内)が定められていたり、事業所が複数でも法的には雇用者は割増賃金を払わなければならないと定められています。

 これってつまり「8時間以上は働かせないようにしましょうね~」とか「8時間以上働かせないことが望ましいですよね?」と希望や理想を語っているのではなく、(原則)法的には8時間以上働かせてはならないと禁じています。(労働基準法第36条、通称:三六(サブロク)協定により幅を設けていますが)

 

 「長時間労働」で注目されるのはもっぱら企業においての労働だけであって、家事労働のように無賃労働等の所謂「見えない労働」については蚊帳の外、論外。

 長時間労働、そしてまたこの見えない労働にも従事しているひとは長時間労働どころか"超"長時間労働におよぶ、あるいはもうすでにそのような状態に陥っているひともあるでしょう。

 

 たしかに家事代行サービスや洗濯機や冷凍食品などの発達・普及により一昔前に比べれば断然、家事労働等に費やされる時間は短縮されました。

 

 短縮ということであれば会社での労働時間もそうで、日本人の働き過ぎが問題視されて祝日が設けられていくらか休日が増えました。週休二日制も取り入れられて定着もしました…と、直接的な労働時間の短縮もされてきました。

 

 ただ、それでほんとうに労働時間や企業・労働に拘束されている時間が短縮したか?…というとあやしいところがあります。

 というのは短縮されたはずの労働時間が残業として、またはもっと悪いことにサービス残業へと付け替えられただけということや、これには多分にコンピュータやIT技術の発展と普及ということが寄与(というのかこの場合には弊害という意味合いの方が強くなってしまうのかもしれませんが)しているのですが、仕事の家庭やプライベートへの持ち込み・持ち込まされが増え、結局のところ「昔と比べて労働時間・拘束時間って短くなっ…た?」的な状況がそこここでみられるからです。

 

 このような惨状現状も散見されることから「8時間以上働かせてはならない」ということは、ひいては労働者に原則8時間以上働いてはならない…と注意を促しているようにも響いてきます。

 

逆転現象の弊害

 近現代人はなぜ働くのかといえば生活のため。生活のためには稼がなければなりません。

(※近現代人と限定しているのは、ひとが、人類が生きてゆくためにはお金・貨幣が不可欠ということではないからです)

 しかしその生活のために健康を害し生活がままならないというのでは本末転倒。笑止。

 本末転倒であるのに横行しているので笑止も止むわ。

日本の自殺 - Wikipedia

 

働けど働けど…

 バブル期前では「働けば働いただけ稼げる」というのがある程度妥当するところでしたが、バブル崩壊後以降、現在にも至るなが~い経済の低迷期(←国内の経済規模は拡大したかもしれませんが、人口(構成)や超高齢化社会、都市化や格差など個人レベルの実情・経済感覚として)ではそれが妥当しないことのほうが大勢。

 

 そうじゃない?

 今「働けば働いただけ稼げる」と言われて信じられるひとが、特に好景気を知らない若者のうちにこの言葉を信じられるひとが果たしてどれほどいることでしょう。

 

 (世界)人口の増加と労働集約でモノに溢れ需要不足でモノの価値が低く、薄い利益をめぐる競合他社との競争、そればかりか新たに参入してくる異業種他社(たとえばスーパー化するドラッグストアやリフォームを請け負う家電量販店などなど)もあって競争が激しくなるばかりでモノの価値がさらに下がってコスト削減が求められて人件費は圧縮され企業存命延命が図られるといったような世相で「働けば働いただけ稼げる」は死語となりつつあります。

 

 およそつくればつくっただけ売れるといったようなモノ不足社会であれば妥当する思想であり、権利商売なんてものも珍しくなくなってきた世の中でその実感をもてという方が無茶な話です。

 

すり替わった目的

 おそらくは貨幣経済のはじまった最初期から、働くことは「生活のため」ではなく「お金のため」となっていたことでしょう。目的をすり替えられた。あるいは優先順位を逆転させられたのです。

 「生活のために働いてお金を稼ぐ」が「働いてお金を稼ぐことが生活を成り立たせる」(←「お金を稼ぐために生活・生きている」とまでは言いません。そんな生活を送ることを強いられている方もいらっしゃるようですけれども…)というように。

 言葉の上では微妙な差なので気づきにくいかもしれませんし、今ある生活の中では大した差にはおもわれない精神状態にまで追い込まれているのかもしれませんが、この差は大差。

 

 だから(←「だから」という接続詞が妥当するかあやしい意見が続きますが…)、なぜ生活がままならない(場合によっては「生活のために命を奪われる」ことにもなる)かというと、それは"働き足りない"からなのではなくて、単にお金が足りないだけ、対価が見合っていないからなのではないでしょうか。

 

 8時間以上働かせては・働いてはならないというのに8時間拘束し、それでいて8時間労働で得られる収入では(正規・非正規問わず)ふつうの暮らしもままならないというのは給与体系か、あるいは貨幣運用の仕組みがおかしい。

 

 労働時間の短縮や規制・禁止が必要だし、給与・給付の増額を検討してもいいでしょう。

 

"法の精神"は「国の存続と繁栄」

法は規制する

 「規制緩和=善」といったような風潮・認識がつよいのではないかと感じるのですが、規制は過当競争の抑制や(国家間に限らず同国内の企業間においても謂わば)"底辺への競争"(たとえば、甘い蜜は好まれるから上層で多く消費されて下層にはわずかしか滴り落ちてこないのに対して、苦い蜜は選好対象ではないから上層ではほとんど消費されることなくしわ寄せだけが、しわ寄せのシワシワのクチャクチャだけが下層に垂れ流されます。トリクルダウンで下流に放流されるのは澱ばかり。厄介ごとは下層に押し付けられて底辺に向かう競争の発生)の抑止、固有文化の保護など、貨幣制度を基盤とした経済・財政ばかりを重宝していては見落としてしまう、そしてまたおもっているよりも重要な事柄を守るという機能を有しています。


 たしかに規制を利用した不法行為が横行しているのも事実です。

 ですがやはり"規制"の中には死守した方がよいものもあるわけで、すべての規制緩和がよいことであるという認識をもっている、あるいは抱かせているのであれば、それは改める必要があるでしょう。

 

 地域のお祭りも形骸化していき、ただ花火を見る日、もう花火さえ見ることもなく夜店をめぐるだけの日、なんとなればなににも参拝することすらなく出会いを求める(←これも"縁"だから悪いことだとは思いませんけどね)だけの日にまで貶められているのではないでしょうか。

 

 電気が普及し照明機器が一般的となり、夜らしい夜は夜間から追いやられて昼夜問わず商売・活動・働くことが可能となり24時間営業のお店も珍しくなくなりました。

 同業他社との差別化、隙間、独占市場などをねらって盆暮れ正月祝祭日でさえ出勤・"平日"という企業もいまでは珍しくありません。

 

 昔は年の瀬・年越しが迫ると…「お正月になるとどこもお店が閉まっちゃうから買い込んでおかないと」や「お正月ぐらいは"お母さん"も休めるように(←実際は建前でお正月も、特に本家ともなると忙しくてかなわないのですけれどもね)」とおせち料理やお雑煮をつくって2・3日後には家族から「今日もおせちかぁ…正直あきたなぁ…正月だけに」「なにバカなこといってんのよ。それ去年も一昨年も言ってたじゃない。お正月はお店が閉まってるんだからしょうがないでしょう」…といった毎年お決まりのやりとりが各家庭でみられたものでした。それがよいのかわるいのかはわかりませんし、良し悪しの問題ではないとはおもいますが、昨今"非日常"を求めるなかそれを駆逐していくというのは何とも奇妙な感じがします。あるいは非日常が求められるのは非日常が駆逐され減少したために起きた現象・ムーブメント・揺り返しなのかもしれませんね。

 

…んっ?

 言いたいことはこういうことではなくって、祝祭日をも平日へと変えてしまうことは数ある文化破壊方法のうちの一つではないでしょうか。

 また、このような状況が進行することをたいしたことではないとみなして放置し、進むがままにしておくことは実は危ういことなのではないでしょうか。

 

 なんにせよ労働者の休日が少なすぎる。

 法に定められた祝日(休日)が蔑ろにされています。

 遵法意志薄弱。

 そのくせ社内規則を守りましょうとはどの口が言っているのか。

 

 賃金や休日を奪って消費者が育つか?

 これじゃあ経営者のなかには好きだというひとも多いヘンリー・フォードの考えとも合わないでしょう?

 

事実誤認

 経営者が、そしてまたおそらくは為政者も完全に見落としている、いやほんとうは理屈の上では理解しているのでしょうが言うほどの影響力はないと見誤っているのでしょう、順法意志の低さ、違法状態の放置・順化が国力を削ぐということを。

(経営者は国の存亡よりも会社の存亡をこそ優先して考え行動するというひとの方が多いでしょうから多少は致し方ないというところもありますが、一国を凌ぐほどの経済力を有し、ほんの一社で一国をも二国をも三国をも…全世界をも左右し右往左往させるグローバル・エフェクターなまでに肥大化した昨今においてはその多少の域を遥かに逸脱していますから、そうもいっていられないでしょう。グローバル・スタンダードを生み出すのは、そしてまた生み出してきたのは私企業なのですから。)

 

 たとえば、休めない、有給休暇をとれるような雰囲気でないという風潮は国益を損ないます。

 言い過ぎのように聞こえるかもしれませんが余暇なくして出生率を上げられるでしょうか。

 また自由に使える時間だけが増えてもお金がないのでは家にこもるか稼ぐためによそで働く時間にあてることでしょう。

 

法との共存

 休まないことは決して美徳ではありません。

 それは職場にしか居場所が見いだせず、仕事しかすることがない・思いつかないといった多様性を欠いた状態であり、またそれが会社や国に貢献するものであるかのようでいて、その実、損なうものです。

 

 というのも、不適正価格の横行を許しサービス残業を容認し給与体系の底辺への競争を促し、「それも仕方ない」「大人の世界・事情」と不要な諦観を常識におしあげ必然でない不条理に肯定の地位を譲り渡してしまうのですから。

 そうして自ら招いた苦境に不満を漏らしながらお酒をあおって翌日も出勤する毎日。

 

 長時間労働は国を疲弊させるとは認識されづらい隠れた大問題です。

 国の強靭化を図るのなら、まずは手始めに「愛国の有志よ、有給を消化せよ。」です。

 権利・権限・権能がありながらそれを行使しないという職権・権力乱用もあるのですから。

 

 残業しなければ生活が苦しくなってしまうような給与体系の企業、長時間労働を課す雇用主、国力を低下させてきたのはあなたたちです。

 そしてまたそれに抵抗してこなかったわたしたちです。


権利意識の差異

 日本は資源に乏しく、原料や食料(およびそれに付随する水をも)の多くを輸入にたよっています。

 そればかりか権利や制度など国の根幹にも関わる目には見えない理念や思想でさえ、そのほとんどを輸入にたよってきた輸入大国です。

 

 自ら勝ち取ったものではないからなのか、日本人の権利に対して抱く感情は…"恩恵"、与えられるもの、輸入し享受するもの、貰い物、希望的…といったもので権利(者)意識が薄いのではないかとおもいます。

 対して自ら勝ち取ってきた国々の権利意識は"行使"や"不可侵"といったもので…侵させない、自ら守るもの(自衛)、国や為政者に守らせるもの(監視)、勝ち取り守らせるもの、獲得物、つくるもの、生まれながらに有するもの、抑制する、主体的、管理者…といった意識が強いように感じます。

 

法は束ねる

 法を共有することで習慣や意識を共有し、文化や共同体意識、価値観を形成するということもあります。

 ガチガチに生活を拘束するというのでは自由が抑制されてそれはそれで問題ですが、あまりにも法が蔑ろにされていたり形骸化してただの理念・お飾りになってしまっているのも問題で、またそれは"共有結合"が弱まっているあらわれ・指標となっているのではないでしょうか。

 

忍法・人法・神宝

 人、人間社会が存続するように法は定められます。

 法の"生きる"ところに人間はおり、法(の精神)が歪められたところでは人は生きづらいものです。(←民主制下の法のことで独裁制下の法のことではありません)

 

 民主制であれ独裁制であれ、いずれにせよ"法の精神"は通底しています。

 では"法の精神"とはなにか。

 それは「国の存続と繁栄」。

 民主制と独裁制で異なるのは国民本位か独裁者本位かというだけのこと。

 独裁者本位といっても「独裁者が自らの利益のみを求めた自分本位の政治を行う」ということを必ずしも意味しません。独裁者であっても民を慮った政治を行うひとも(稀に)いるのですから。

 ですから"本位"というのは自分勝手ということではあるのですが、その"勝手"の意味するところは身勝手や自分本位、自己利益優先ということではなく、政治の決定権を握っているということです。

 決定権自体に悪徳も善性もないでしょう?

 

 法の精神は憲法にあり、その憲法の精神は人類・国民の幸福を謳っています。

 

 ただし、たとえ憲法序文などに「人類の繁栄」といったようなことを謳っていたとしても、それは対外的かつ形式的なもので風呂敷を広げすぎているものにすぎず、実際のところ「国(民)の存続と繁栄」のためのものです。

(本来的には"人"が先にあるところでしょうが、その性質上、つまり社会契約、社会運営、またそれを実現・実行するための土壌・環境整備といったところから"国民≒人"よりも"国"が優先されています。)

 

※言うまでもないことですが、ここにいう"法の精神"とはモンテスキューのそれではありません。なのでダブルコーテーション(" ")で囲っています。

 

生まれたものは拡大を目論む

 生まれ出たものは生存を維持しようと拡大(または増殖)を目論むものではないでしょうか。

 しかもこの特質は生物に限らず無生物であっても生まれながらに有する本能なのかもしれません。

 

法(ダルマ)の業(カルマ):法の生存意志

法 (法学) - Wikipedia

 (法と法律との違いに関わらず)生物ではなくモノでさえない法であっても誕生すると生きようとする。

 自ら(法)を傷つけようとするものに抵抗するでしょう?

 その原資・原動力は、その法によって利益を受ける受益者・既得権益者にありますが、それでもそれはあたかも法自身が生きているかのようではありませんか。

 法は誕生すると意志をもつのかもしれません。

 産まれ出たものは意識的にか無意識的にか、生きようとする意志を宿すのかもしれません。

 

 人間は遺伝子の乗り物・ヴィークル・DNA・ミームを存続させる入れ物に過ぎないといった考えや、小麦粉に操られた傀儡(かいらい・くぐつ)に過ぎないのかもしれないとも言われますが、自ら産み出した法に支配された法の入れ物でもあるのかもしれません。

 すると人間とは…単なる"入れ物"に過ぎない…のか?

 

感染する意識

 そんな風に考えていたら、意思が通じるだとか言葉が通じるだとか、およそ伝わるということ、伝播、伝染とはある生まれ出たものの生存意志なのかもしれないとのインスピレーションが降ってきましたよ。

 

 そしてさらには宗教や思想、あるいはそんな大仰なものでなくってももっとも身近で日常にあるコミュニケーションやおしゃべりなんてものもなんといっていいかわからないけれど、いわば(生まれ出た)"思考ウイルス"なるものが(生存維持を図って)伝播・感染していくような、そんなイメージが湧いてきました。

 

 宗教というのは人を介して伝わる思考ウイルスの最たるものかもねなんてね。

 

 このイメージの彷彿には最近読んだ『攻殻機動隊 PERFECT BOOK 1995→2017』にあった「並列化」や「ゴーストハッキング」、「情報の海・第三世界から生まれた…」といった言葉・思考の影響・干渉がありそう。これも思考ウイルス感染の一例…か?すると"発想"のなかには発症によるもの、病状の一つで、発想と発症・発病とは同義語なのかも…と、とめどないのでこのあたりでやめておきますね。

 

恨みつらみの呪詛

 なんとなく章立ててはみたもののとりとめもまとまりもなく内容の重複が多く意図が読みづらく大変に読みにくかったこととおもいますが、ここまで読んでくださってありがとうございます。

 もしここに列するいずれかの言葉・思考があなたのインスピレーションの源泉・感染源となれましたら望外の喜びに存じます。

(とは言いつついくらかは興味深い視点をちりばめ提供できたのではないかとおもっています。)

 

 ここのところ更新が滞っておりますが、なにせ労働(?)時間が長いものでサーカディアンリズムもサーカセミディアンリズムもウルトラディアンリズムももうガタガタで慢性的な睡眠不足。(←ウルトラディアンリズムなんてものもあるなんてはじめて知ったわぁ)

時間生物学 - Wikipedia


 おそらくはそのためにこれまで経験したことのないほど頭がずーっと働かない感じ。考え続けられない、何日要しても考えがまとまらない、ぼんやりしっぱなし。

(ただのボケのはじまりなだけかもしれないけれど…)

 だからまとまりのない文章は忙しさのせいってことにさせて。

 

 仕事憎し。

 忙しさ憎し。

 

 今回はそんな忙しさへの恨みの感情を原資として書かれているので負の感情がだだ漏れ溢れ出ているでしょぉ。

 

 ただこの状態に留め置かれたためにわかったことがあるの。それは習慣に思考を明け渡すということがあるということ、習慣による思考停止というものがあるということ。

 

 『哲子の部屋』でも習慣と考えないということ・考えることの節約・思考停止について触れられていたとおもうのですが、なにかそのことにも通じるようなもの、しかもそれを意識・認識できてしまうような強いやつを体感したようです。

レキシのレキピ ~夏の終わりに歴史の声を聴く~

ただのコミックバンドかとおもたらちがたよ。

 

 音楽CDを借りにいったらキャンペーン中で、10枚で1,000円だっていうものだから、無理にでも10枚は借りてやろうと、ぐるぐる、ぐ~るぐる店内を見回し探し回ったのですが、あと1枚がみつからない。

 なんでもいいのだけれど、ほんとになんでもいいわけではない。

 そんな相反する感情。

 

 そんなおり、邦楽のある方角の、ある棚のあるところで右に折れ、棚の一番上をみやると、表紙をこちらに向けたレコメンドCDの1つに力強い筆文字で「レキシ」…と。

(後でわかったことですが、これは「キシ」ではなくレキシ(池田貴史)5枚目のCD「Vキシ」でした。)

Vキシ

Vキシ

  • アーティスト: レキシ
  • 出版社/メーカー: Colourful Records
  • 発売日: 2016/06/22
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

レキシのレシピ

 無駄に高い音楽性。

 不必要に優れた歌唱力。

 この曲や歌にこの(歌)詞はもったいない。不釣り合いだ。

…となりそうなところですがさにあらず。

 

 詩だけを見ればコミカル。

 曲だけを聴けばメロディアス。

 2つが合わさってCool。

 2つのマーブルMarvelous。

 

 コミカル+メロディアス=レキシ≒ダサカッコいいね!

 

 シリアスな場面で口ずさめば超ダサく。

 詩の意味を深く考えず聴けば超カッコいい。

 それはまるで外国の方が自らの肌に刻む漢字タトゥーのよう。そんな音楽性。

 

 フザけたような詩にこれほど力を注ぎこんで、真剣にまじめにふざけて惜しみなく丁寧に作りこみ、執拗にクオリティを高めるこの変質・変態ぶり。

 真顔で情感豊かに歌うほどにおかしみは増し、レキシの声を真顔で聞いている、レキシの歌をいきって口ずさんでいる己の姿を客観的に思い浮かべるとき、これほどマヌケな姿があるでしょうか。

 

 曲から作るのか詩から作るのか、はたまた同時進行で作っていくのか、その作詞・作曲手法はわかりませんが、ある意味既存のものの組み合わせで新しいものを創出・創作する。これはまさにイノベーション!これぞ"正しい"イノベーションの形…だとおもう。

潜在的に「既存」?なデジタル著作物 - あめみか

ヨーゼフ・シュンペーター - Wikipedia

 

 こんなレキシの高い音楽性の風にあてられて、翌日、5枚目以前の1~4のCDを仮初し借り占めようと、ふたたびTSUTAYAへGO!

 1枚目の「レキシ」はレンタル中で借りられなかたぁ~から2~4を借りて帰りました。

 

 以下に2~5枚目のCDに収められているいくつかの楽曲についておもったことをそこはかとなく書きつくります。

 

つれづれなるままに

 『ドゥ・ザ・キャッスル feat. 北のパイセン問屋』の「あの日の月が見ていたよ」や『アケチノキモチ feat. 阿部SORRY 大臣ちゃん』の「あぁ時は今 逢いにゆくよ だけどあなたまだ夢の中」「悲しみさえ置いて行けるなら」なんてどこかで聞いたような"感動"(を催させることを)狙ったかのようなセリフ。

 これらのセリフをおかしな歌詞に入れ込むことで、このフレーズを陳腐化させようと企てているのではないか?これまでのシリアスぶってスカしてヒットした楽曲たちに「なにかっこつけてんだ?」と揶揄しているかのよう。

 

 レキシの詩の特徴は、読み込むと他の読み方、コメディの裏でまじめなラブソングを歌っているようにも読み取れなくもないことはないわなところ。

 変な詩なのにトータルでかっこよくなっているからすごいホームラン!

 

 レキシで歴史は学べないけれど、これまでとは違った音楽の楽しさを知ることができる。なんかそんな風に感じました。

 

 ちなみに、音楽で歴史を学ぼうとおもうのなら(特に人名)、『戦国鍋TV ミュージック・トゥナイト なんとなく歴史が学べるCD』の方がグルーブ感はレキシには劣るけれどやや役には立つかなぁ~とおもう。

 ただレンタルされてなかったけどね。

 

SHIKIBUのいい「し」 

 わたしは「し」(というか「シッ」)の音があまりすきではありません。

 ですが…なにこれっ!

 

 『SHIKIBU feat. 阿波の踊り子』の「しきしきぶんぶん しきぶんぶ~ん むらさ~き~」の「し」といい、この直前の「乱れそめにし」の「し」といい、いい「し」だわ。

 

 「しきしきぶんぶん しきぶんぶ~ん」なんて何度か聞いていると、あれっ?これってほんとうは「Shake It!Shake It!Boom!Boom!Shake It!Boom!Boooom!」って言っているんじゃあないのかと、海外版タモリ倶楽部「空耳アワー」状態になることがあります。

(タモリ倶楽部のメインパートは「空耳アワーだ!」という人が意外?にも多いのですが、わたしは空耳アワーあまり好きではなく、普段はスキップ(録画して2倍速で見るから)してしまって、空耳アワーを見るときといえばアワードのときぐらいなんですけれどね)

 

 『SHIKIBU』には他にもいい「し」があって、それは「乱れそめにし」の「し」。

 これもうほぼ「スィ」。

 

 「し」については『きらきら武士 feat. Deyonnά』の「あなたは武士 きらきら武士」の「武士」や『武士ワンダーランド feat. カブキちゃん』の「武士ワンダーランド」の「武士」も「ぶ~スィ」。

 しかも「あなたが好き 無視? 武士」の「武士」の「し」は「スィ」なのに「無視」の「し」は「スィ」ではないという芸の細かさ!

 

 どうもレキシは「し」を言い遊ぶことがおおいらしい。

 そしてそれがよスィ!

 

 ついでにいうと『アケチノキモチ』の「アケチノ ホントノ キモチヲ」の「ヲ」はもうほぼ「フォー」。

 そしてこれもまたよフィ!

 

おしりかじりおかしかりけり

 『寺子屋FUNK feat. シャカッチ』のさいごの「まなべ まなべ まなべ こどもたち」は「まなべ まなべ まなこどもたち」だし、『salt & stone』のさいごの「寝ても覚めても内蔵助 大石内蔵助 hey!」は「大石内蔵へ~い!」といった感じで言葉尻食ってかかるというのもすきみたいねかっこいいね。

 

 にしても「まなべ まなべ まなべ」の滑舌イイ~ねっ!

 にしても「寝ても覚めても平八郎・内蔵助」て…そらそうでしょーよ。それとも「寝ても覚めても自分が自分であるとなぜわかるの?」といった哲学的問いを含んだもなわけないですよね~い!

 

たぶんあれきっとそう…

 『旧石器ベイベ feat. 足軽先生』の「たぶん あれ 俺の たぶん あれ きっとそう」のあたりの特に「そう」というか「そーぉお」のところ、たぶんあれきっとそーおぉ玉置浩二ちょっと意識しているんじゃあな~いの?そんな予感が、そんな『恋の予感』がするの。

 

70'sブラック

 『君がいない幕府 feat. お台所さま』のブラックミュージック感。

 『大奥~ラビリンス~ feat. シャカッチ』や『武士ワンダーランド feat. カブキちゃん』はアース(Earth,Wind & Fire)かBee Geesか感が漂っているよね。

 これらの楽曲だけでなく70's感の強いもの多いよね。

 そもそもアフロだからそうか。

 

心にうつりゆくよしなしごと

 はじめ『キャッチミー岡っ引きさん feat. もち政宗』原坊(原由子)かとおもた。

 にしても「今度こそ私を離さないでね」て、一回逃げられてんじゃんだめじゃんおもしろいじゃん。

 

 『かくれキリシタンゴ ~Believe~ feat. MC母上』のさまざまな「oh, yes」の言い方の小憎ったらしさといったらないよね~不謹慎にもかっこいいよねー。

 

わたしには「一休さん」はレキシの方が水曜日のカンパネラより一級さん。

 

エピソード0

 レキシのファーストアルバム借りてきました。セカンドシングルの『KATOKU』もね。

KATOKU

KATOKU

  • アーティスト: レキシ
  • 出版社/メーカー: Colourful Records
  • 発売日: 2017/04/26
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

 5枚借りれば1,000円だというのに「そんなこと知ったこっちゃない」とこの2枚だけ割高で借りてきましたよ。えぇ。

 

 もしファーストアルバムをその他のアルバムと出会う前に聴いていたら…。

 これはあまりすきじゃない。

 というか歴史的な出来事を"ちゃんと"盛り込もうとしすぎてる感がまだあって、なおかつ音の厚みがセカンドアルバム以降と比べると薄い。

 ファーストアルバムとセカンドアルバムとの間になにがあったのだろう?とおもうほどのこの振り切り感はどこからきたのでしょう?この史実を追うより(悪)ノリにのった音作りは。

 

 歌詞を見たくなるから借りるより買った方がいいかもしれない。

 あるいはこちらのサイトを参照するといいよ。

 

 はじめに聴いたときは『SHIKIBU』が一番印象に残って一番すきだったのだけれど、なんども聴いているとどれもよくなってきて(※ファーストアルバム除く)、今では一番決められないぐらいどれもすき。このアルバムはごきげんなダンスチューンだぜぃ。

 アフロのファンキーボーイサイコ(ー)!

議会制度は一院制がいいのか?二院制がいいのか?それとも…

 民主政治は衆愚政治となりやすく、独裁政治は恐怖政治となりやすい。

とはよく聞かれる意見でしょう。

 

 イメージとな異なり、民主政治は手放しで称揚されるほど優れた政体ではありません。為政者が有能で徳性を備えているのであれば判断・実行のはやい独裁政治は民主政治に勝ります。

 

 (疑似的なものはあるかもしれませんが、表立っては)これから日本が独裁政治へと移行するとは考えづらいものです。

 その日本でとられている議会制度は二院制。

 国民の声、少数派の意見を議会の俎上に載せ議論することは大切なことではありますが、衆議院の優越で結局は棄却されるだけでただの時間稼ぎか浪費にしかなっていないのではないかと思われる参議院の声や存在意義。

 

議会制度のパフォーマンス

 現代日本において参議院は必要であるだろうか?

 

 この問いに対して心情や感覚、感情、それこそイメージで答えては客観性を欠いた感情論にしかならないでしょう。

 

 というようなことをおもい、議会制度について考察されたものをちょっと探してみましたら『二院制度が民主主義の質と経済的パフォーマンスに与える効果に関する研究』(あるいはこの論説から『Adrian Vatter:Lijphart Expanded Three Dimensions of Democracy in Advanced OECD Countries.pdf』)というものにあいました。

 

 ここには

  • 1945年以降、OECD諸国中、二院制から一院制へと変更した国が5ヵ国あり、反対の一院制から二院制へと変更した国はないということ
  • 二院制か一院制か、大統領制か議院内閣制かなどの議会構造と、いわゆる民主主義の質、パフォーマンスとの間には有意な差がないこと
  • 一方で議会構造と経済的パフォーマンスとの間には有意な差がある可能性があるようだ(可能性の示唆に留めているのは仮説であり、経済的パフォーマンスは議会構造より政府と中央銀行との関係に依存するようだからです)
  • 議会構造と経済的パフォーマンスとの間の失業率のデータについては有意水準が低く帰無仮説は棄却(=対立仮設が採択)されますが、経済成長率やインフレ率は一院制の方が二院制よりも高いという有意な判断がされる(帰無仮説と有意水準

といった検証結果をあげた上で、「熟慮の第二院」「良識の府」という二院制構造に期待された効果を実証分析結果からは確認することができないばかりか、国家規模が大きい二院制ほど一人当たりGDP成長率が低いなど、むしろ経済的パフォーマンスに負の影響を与えている可能性が高いようだとの結論を示しています。

 

議場パフォーマー:GI‐I‐N

 この結論をうけて…

 形骸化した二院制では経済的パフォーマンスが悪いことは検証するまでもなく明らかなことで、そのような二院制は性能や能力という意味ではなく「わたしたちはちゃんと仕事をしていますよー」とアピールし耳目を集める演技という意味においての「パフォーマンスの府」と成り下がっているような第二院であるのなら、そんな第二院はなくともよい、いや、むしろない方がよい。

 現代日本の参議院がそうだとは言いませんが、そうではないとも言い切れない切なさよ…。

ということを改めて確認することができました。

 

的見解

 そんなとき、目にしたのが『AIに聞いてみた どうすんのよ!?ニッポン』

 

 番組タイトルに「AIに聞いてみた」とありますが、正確にはそれはAIではなく「ビッグデータ解析(による相関分析)に聞いてみた」というところなのでしょうけれど、それはそれとしてと…(なにしろゴロが悪いし長いからねぇ)

相関関係と因果関係 - Wikipedia

 

 それがAIであるにしろビッグデータ解析であるにしろ、いずれにしろ番組をみていて驚いたのは、多数の項目・データの(因果関係ではなく)相関関係が紐づけされてこうも目にも鮮やかに現在すでにもう表現できてしまうこと。

 相関関係ですからまったく関係なさそうな紐や単なる偶然による紐もあるのでしょうけれども、なんな風に視覚的に提示されてしまうと弱い根拠しかなくとも強い説得力をもって訴えかけてきます。

 

 俯瞰的で視覚的なこのデータ解析の結果をながめていますと、これまで気づけなかった関係や問題点、またその解決・解消策を考える契機となる一方で、その紐・関係に誤った意味づけをした上で、さらにそれを信じ込んでしまうこともあるのだろうなぁと、その有用さと危うさについておもうのでした。

 

人格不在のアイーン党

 現代のAIの日常生活への浸潤進捗具合や番組全体を通して見てみておもったのは、AI党の導入などから、AIのデータ解析やAIの"意見・判断"に(も)頼る議会制度が一般的、「ふつう」となる日もそう遠くはないでしょうということ。

 

 最終的にAIが主導するようになっているのかもしれませんが、その過渡期というのか、これからそのバリエーションとして第二院とAIによる議院(AI院←読むと「アイーン」になってシリアスさが損なわれてふざけているみたい…)とが入れ替えられた二院制、またはAI院を加えた三院制(はじめ参考程度に試験的にAIを政治に取り入れようと議院ではなく政党レベルで利用され、その後いよいよ有用であると明らかになっても「慎重な審議」などを強烈に主張して、その実、既得権を死守しようとの思惑から第二院存続路線から三院制となる国もでてくるかもね)なんてのも(ほんの一時)誕生するかもしれませんね。

 

何院制?

 参院選は必要か?

 最適な議会制度は?

 何院制がいいのか?

 

 結局のところ今はまだわかりませんが、思うに…

 文化・文明や技術の発達具合、または人口規模や経済規模といった規模によって最適な仕組みは異なるのではないかと思うのです。

 ただし、AI・機械技術が大いに進展した暁には、唯一それは発達や規模に左右されない最適解「である」のではなく「になる」のだとも思うところです。

(「である」と判断するところは人間の側にある恣意的なものですからね。)

 

 アナタはドのヨウにおモイマスカ?