反復こそすべて

反復の強迫

 なぜ強迫されるのかではなく、なぜ反復するのかを問わなければなりません。なぜなら強迫は単に反復に付随するものだと考えられるからです。

 投影、模倣、複製、同一化、回帰、…は、類似性、同一性、対称性、再現性、時間性、可能性、…といった反復の異体や異名であると考えられるので、ありとあらゆるもの・こと、すべて反復です。こんなことはなんとでもいえて、ただの言いよう、詭弁、もちろん反証不可能なので科学でもなんでもありません。

 

 サーカディアンリズムや睡眠周期、心理や行動、人間活動のあらゆるものが反復されるのは単純な命令を繰り返しているからです。

 複雑なプログラムはリソースを食います。なおかつ状況が固定されます。そのために応用が効かず使い回しも取り回しも利きません。

 単純なプログラムであれば幅広い状況に用いることができて組み合わせも容易で、複数重層化させても複雑な命令をシンプルな構成で再現できます。

 ただその反面、支障をきたしたときにプログラムのどの部分が全体に及ぶような問題を引き起こしているのかがわかりづらく隠れやすいという短所があります。

 

 反復は後に生じるものではなく、むしろ反復が先で、反復があらゆるものを構成してきました。アミノ酸合成しかり細胞分裂しかり。反復こそが本質であり本源です。俗っぽく言えばエコなサイクル、エコなシステムです。したがって、なぜ反復”強迫”するかではなく、なぜ反復するのか、そしてその答えは反復こそが本旨であるから、ということになります。主客転倒もこのサイクルの一面を示しているといえます。

 

 神経症などの「反復強迫」を克服するには反復の阻止や否定や抵抗、というのは不可能なので、反復することの解釈を(書き)かえるより仕方ありません。反復の再解釈、反復のリブートとでもいいましょうか。

 この他に、意味を剥奪してただ受け入れる、意味の彼岸、無意味へと追いやる、または自らがそこへと赴くという手もあるでしょう。ただしこれは言葉・意味の外へ出ることであり忘我の境地に近いものですので生涯にわたる修行を求められるような困難なものとなります。「反復やめますか?それとも人間やめますか?」というほどの。