庭で遊んだ話

書を持って庭へ出よう

 以前、宇野常寛さんの『遅いインターネット』を聞きました。強く印章に残るところはなかったのですが、タイトルにある「遅いインターネット」という単語とコンセプトはあれからずっと静かに根を張っていたような気がします。そしてそれは、いわば「遅い民主主義」、つまり、これまで民主主義はその遅さが非難の的の一つとなっていましたが、まさにその遅さが潜勢的な可能性の資本たりえるという元来の、根っから草の根の民主主義の認識の補強となりました。

 

 先週『庭の話』を聞きました。導入部の政治の話を聞いていたときは「なんかこれじゃない」感を前作同様いだきましたが、その後すぐにこの感覚は解消されました。

フィールドワーク - 書を持って街へ出よう

庭に入る前に

 「庭」という単語が出て庭の話が始まるのは比較的後の方だったと思います。その敷地へと踏み入る前の話で印章に残っていたり、それをきっかけとして思い浮かんだことがあります。

 まず思ったのは、「放置は画一化をもたらす」ということから公正と合理も、教育やSNSも無批判無検証に放置しておくと画一化するだろうということ。そしておよそ目的のあるものは画一化して自由を縛る動向へと傾きやすいのだろうということを思いました。

 

 また近年では、物語に求められていた正統性や価値観がゲーム(の達成)へとシフトしたことや、デイヴィッド・グッドハートのSomewhereとAnywhereの構図が昨今の予測や理解に反した政治的判断へと至ったのだという分析は興味深いところでした。

 Anywhereの喫緊の生活を第一としているSomewhereへの無理解が、主にAnywhereにとっての予想外、Anywhereには理屈に合わないBrexitやトランプ再選というSomewhereには不思議でもなんでもない結果を招いたのだというようなところが導入部の政治の話と結びついています。

 

 なかでも”情報量”の”量”の捉え方には頷くところがありました。

 ネット社会となり情報量が格段に増えたように見えますが、現代の承認欲求ネット社会では出来事の表層や概要ばかりが拡散されるばかりで新たな情報も知見もなく広められています。

 すると情報化社会とは言われますが、同質の情報が増えているだけで情報自体は増えておらず情報の多様性は増していません。つまり情報に溢れているという私たちの感覚に反して実は情報量は増えていないのです。そればかりか同質で重複しているだけで無意味で無価値で無内容な電気と物理容量を食うだけのゴミ情報が大量生産・大量消費されることで希少で独創的な情報、情報となる情報、情報量を増やす情報が見逃され埋もれさせてしまっています。その意味で現代社会では情報量は減っているとさえ言えるでしょう。

前庭に入庭

 庭とは私的なものが公的に開かれている場、であるから家ではなく庭。

 無為は何もしないことというより偶然性の余地のための整備で、庭というものも完全に人工的なものではないし、全くの自然環境というのでもない、気候や天候に左右されて植物等の生育に予測不能なところがあり、そのために人が程々に手を入れる、というところが無為の可能性と庭とに共通するところです。

 

 公正や合理すら排除して画一化を撹乱し、自由な余白を担保する空間。そのような場に無為であろうと身をおけば、人間外の事物と触れ、接続することとなり、もって自由や人間味を取り戻す契機や装置となる庭。

 

 近代以降、そして現代では顕著に見られる文書やアーカイブによる身体のコード化。観念や記号ではない事物そのものにふれてコード・属性を一度剥ぎ取ってみるために庭へ出てみましょう、ときに動物になってみましょう。庭とはひとが事物と(たまたま偶然に)あう場。人間外の事物を取り入れ、触れることで偶然性をとりいれ・取り込み、もって人間性を取り戻すという企て。

 

 物質化した人間性、人間の主体性の回復を試みて庭へと出て、物質化に抗うのではなく張り付いた属性を脱ぎ去ってむしろいっそ物質化を進めて事物そのものに触れ、感得してそこから回復を試みる。手段となる物質化。手段としての動物化。

 庭は人工と自然、人と事物、聖と俗との接続点・臨界点。

 

 なぜアガンベンが『開かれ』で「人間と動物」について語ったのか、またなぜアガンベンの思考の中心には常に資本主義があり資本主義を巡って考えられているのか、その一端に届いたような気がしました。

後庭に入庭

 この章は前章のただの言い換えです。

 ひとが社会と取り結んで硬直した人間性、事物に触れられなくなった人に社会との切断をもたらしてひとの動物化・物質化をすすめ、そこで事物と結び直し、事物を味わえるようにします。

 

 さまざまな属性を付加され目的が血肉化した人間(の主体性)を、再び事物・開かれた可能性と触れ合えるように、遊びの場へ、庭へと入れるように、人間を動物化したり、物象化を徹底したり、貨幣のように交換されるそのもの自体は無価値な媒質としたり、と、道具となることで人間を手段へと還すことが、資本主義が隆盛を極めて商品社会が行き過ぎ、「人間の疎外」への警鐘が鳴らされるようになって以降、その超克法としてさまざまなひとが説いてきたことです。

 

 宗教や道徳においては一貫して、終始、人間の主体性の回復が唱えられ、哲学では人間の物化を介して属性を一度脱ぎ去って後、自然や世界、社会や共同体、または自己や他者との関係を結び直すことを提唱されてきました。

 前者は目的となることを目指し、後者は手段となることを目指しました。前者は終末論的で一神教的であるので、それとは逆ベクトルのような後者は、前者からすれば冒涜的で瀆神的に感じられるでしょう。

作庭のすゝめ

 現代情報社会では人々はソーシャルメディアというプラットフォームの上で評価や承認や記号を得ようと空虚な行為に勤しんでいます。この不健全な場から脱するために人間間の承認や相互評価よりも魅力的なものの創出が求められています。

 

 そこで孤独に事物と向き合う目的を持たない一人遊びの”制作”がすゝめられています。ここでは制作による没頭・忘我で観念の消費から観念の浪費へと転じるということで『暇と退屈の倫理学』が召喚されているのだと思います。

 

 庭という処方箋がどれほど有益有用かはわかりませんが、そのような中間地帯に身を置くことで社会でその身にこびりついた諸々の属性を脱ぎ去り失われた主体性を回復するために一度事物そのものという実相・野生に触れて再考・再認識し新たな関係を結び直して主体性を構築し直すという庭へのアプローチ。

 

 事物そのものに触れるためコード・属性を剥ぎ取り媒質となり再生・再生産・再構築・再構成の場となるのが庭であるという理解で正しいとすると、現代哲学や社会学が扱う問題系への理解が進むよい指南書でもあるのではないかと思いました。

 私にはまだ人ん家の庭ですが、この庭を通過することで動物化や物象化、または脱構築といったコンセプトの見通しが広がったような気がします。

 流し聞きの一聴でもこれだけの発想をもたらしてくれたのでいい本なのだと思います。もう一度聴いてちゃんと活字で読んだ方がよさそうだと思いました。

場と速度

 私の理解(と言ってもどちらも一度しか聞いていないのですが)では『遅いインターネット』と『庭の話』は共通して「虚構と触れ合っていないで事物そのものと触れ合って考えましょう」と言っているのだと思います。

 どこが違うかと言えば、それはコンセプト。事物へのアプローチの仕方やレジリエンスの発現方法が場によるのか速度によるのかの違いです。

 『遅いインターネット』では速度、『庭の話』では場所・空間または距離による人間性の回復や社会の再構成への提言書。凡庸な言い方をすれば身の処し方を著したものでもあります。

時間レジリエンス

 場を単位系で捉えて距離と言い換えると、情報社会に遅さを持ち込み、評価・承認社会から距離を取ってコレクティフな弱い自立、弱く自立することで主体性や独自性を取り戻すことができるのではないでしょうか。

 

 遅さも距離(をとること)も時間を持ち込むことです。なんの時間かと言えば、それは制作の時間。なんのための時間かと言えば、それはレジリエンス。これは時間を取り戻すお話なのかもしれません。

 宇野さんの次回作が時間に関するもので『遅いインターネット』や『庭の話』が伏線や止揚となるような話だったらその知性に震えて卒倒してしまいそうです。

 

 ひとは速さを感得する感覚よりも空間認知や空間記憶といった空間を感得する感覚の方が強そうですし、動きよりも形の方がイメージしやすいからなのかどうかはわかりませんが、『遅いインターネット』の前に『庭の話』を読んだ方が理解が進むのではないか、と、ただの直感でしかありませんが、そんな気がします。