現代に降誕したパノプティコン
ジェレミー・ベンサムが考案し、そのおよそ150年後にミシェル・フーコーが『監獄の誕生-監視と処罰』にて取り上げた全方位監視システム「Panopticon(パノプティコン)」。
ベンサム自身パノプティコン建設に私財を投じてその実現を目指し、また世界各地で全方位監視型施設がいくつか建てられはしたものの、それはパノプティコンの完成形ではなく、あくまでパノプティコン型施設にとどまるものでした。
しかし、パノプティコンが発案されてからおよそ200年後の現代、気づかないうちにそれは完成しており、すでに一部の人たちの生活のなかに入り込んでいたのでした。
パノプティコン概要
パノプティコンは少数の監督者が多数の監視対象を監視できるように監視塔が中央に配された円形の建物で、いつ監視されているのか監視対象には知られることなく監視できるように監督者の姿がブラインド等により隠されるようになっている「最大多数の最大幸福」を標榜したベンサムらしいといえばらしい非常に功利的かつ効率的な施設です。
パノプティコンの要諦は円形構造物であるということではなく、少数の監督者が多数の監視対象を監視対象にいつ見られているのか気づかれることなく監視できるというところにあり、「パノプティコンは構造物である」ということには固執する必要はないと考えます。そのうえで現代の私たちの生活環境を見回してみますと「これはパノプティコンなのではないか?」と思われるシステムがすでに稼働・運用されていることに気づくのです。
監視社会のパノプティコン
現代ではレジからお金を抜き取る店員の監視のため、商店街や商業施設内の通路で起きる犯罪抑止のため、タクシーや運送業など運転者の安全を守るためなど、犯罪抑止や安全を守るために至るところに監視カメラが設置されています。
ただしかし、先日テレビを見ていて驚いたのが、居眠り運転や運転中のスマホ操作防止(、そしてこれについてはテレビでは触れられていませんでしたがおそらくは勤怠管理)などのために管理者が運転者に気づかれることなく望むときにはいつでも監視できる常時車内を映し出す(またそれと同時に録画もされていて一定期間(その企業では過去1か月間でした)保存する)カメラシステムが設置されていたことです。
商店街やコンビニ、タクシーや自家用車の車載カメラと同じようなもののように見えて違うところ、そしてその驚かされたところはどこにあるのかというと…商店街や、また押し広げて考えればスーパーやコンビニエンスストアは公共の場のことです。しかし車内というのはどうでしょう?とても私的な空間なのではないかとおもうのです。
就業中に私的空間は許容されないのか
きっとこんなひとを見かけたことがあるのではないかとおもうのですが、熱唱するひと、ルームミラーを使って化粧するひと、耳かきするひと、助手席で足を投げ出しているひと、これは見えないけれど放屁するひとなんかもいて、車内は部屋の一部・一室ととらえているひとは少なくなくとっても私的な空間なのではないかとおもうのです。
欧米人が不思議におもう日本人の特徴として、きれいに維持管理された高級車に乗っているのに自宅は小ぶりでお世辞にもきれいとはいえないというひとがいるということをあげる欧米の方がおりましたが、ひとによっては家よりも車を上位の一室として扱っているひともいて、そのひとにとっては車内というのはより私的空間という意識が強いものでしょう。(車は外を走るもので不特定多数の人目にさらされるからというただの見栄っ張りというひともいる、というかそのようなひとの方が多いのでしょうけれどもね)
他者の地獄目
また最近ではニュース番組でもたびたび取り上げられるタクシー車内での客の乱暴行為や危険運転や事件事故の決定的瞬間を映し出した車載カメラと異なる点は、常時撮影・リアルタイム監視ということです。
一般的に車載カメラは車の前方や後方を映すもので車内を撮るものではありません。
加えて、撮影した、または撮影されている映像を見ることができるのは他者ではありません。
また録画映像は事件事故の起きる(衝撃の起きた)前後1分ほどを含めた間のことであったり、あるいは運転者が記録しておこうと意図して録画ボタンを押したときです。
ほんの少しの差であるようにみえてまったく違う、似ているようで似ていない、似て非なる監視カメラシステム。
サルトルは他者のまなざしを地獄だと言います。(より正確には…対自存在【私】のまなざしは他者をも即自存在【モノ】としてしまうが、他者は他の即自存在とは異なりこちらを見つめ返し私を即自存在へと陥れ私をある種所有できるモノへと変えてしまう特殊な存在で、私と他者のまなざし、互いに互いを即自存在とするまなざしの応酬、互いに互いを所有しようとするまなざしの拮抗、このような他者との在り方をして他者のまなざしを地獄と、また『出口なし』において「地獄とは他人のことだ」と言わしめたのでした…と、こんな感じだったとおもいますが、ここではそんな細かいことは置いといて雰囲気、語感のノリだけ借用いたしまして…)「地獄耳」という言葉がありますが、こちらは「地獄目」、あるいは監視カメラシステムには映像だけでなく音声も録ることができるものもありますから「地獄耳目」とでも呼びたくなるような代物です。
「監視」へのまなざし
「監視しているぞ!」と警告するだけで実際には監視していなくても不正等を抑止できるというホーソン効果というものがあることですから「監視しているぞ!」と言うだけで実際には平時は監視まではしないでもいいのに…。
現在取り入れられている車内を映すカメラシステムにおいては運転者が一方的に他者のまなざしに、他者の灼熱視線にさらされます。このような一方的な他者のまなざしに抵抗する案を一つ提案したいとおもいます。それは…運転者の側も任意のときにカメラ映像を確認しているひとやデスクワークをしているひと、会社役員や経営陣を見られるように(監視できるように)社内等にカメラを設置しカメラシステムを稼働させることです。そうでもしないとなんというかフェアでない感じがするのです。といっても好き好んで自らの姿を監視させたいとおもうようなひとはいないでしょうからアンフェア状態がながく続いていくのでしょうけれどもね。
とはいえとはいえ、超えてはならない一線があるとおもうのです。このラインを越えてしまうと、それは監視(カメラ)ではなく盗撮(カメラ)と違わないものとなるでしょう。いや、すでにそうなってしまっているものもあるでしょう。
わたしはこの現代版パノプティコンの完成とそれが普及しつつあることを知りとても気持ち悪くなりました。
そう遠くない将来、監視カメラ(システム)と盗撮カメラ(システム)の境界線や監視カメラ(システム)と人権の問題が今以上に高騰・尖鋭化することでしょう。
監視・管理社会はどこまですすむのか。またそれがいきすぎたときにはふたたび一線のこちら側、境界内に引き戻せるよう「監視」への監視、「管理」への管理ということについてもうすこしセンシティブでいなければならないのではないかとおもいました。
こういったことは個人の力ではなんにもなりません。ですから個々人の集合、社会において注視していく必要があります。