あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

文明国とはなんだったのか。

それは文明国という詭弁だった。

 文明国とはなんだったのでしょうか?

文明国(ぶんめいこく)とは、かつて西欧文明の伝統やそれに準ずる国内体制をそなえた国家を指した用語であり、20世紀初頭までの国際法では国家として他国と対等の主体性を認められるためにはこうした基準に照らして「文明国」であることが求められ、その基準に達しない社会は国家ではなく無主地とみなされた。現代国際社会においては基本的にこうした考え方は否定されている。 文明国 - Wikipedia

 

言葉の正誤は意味に向けられるものではなく語用に向けられたもの。ただし…

 厳密な言葉の正誤判定というのは、その言葉がその文脈において意味を成すように意味の通る形で正しく使用されているかどうかということです。

 その言葉自体の意味の正誤を判別することは厳密な言葉の正誤判定ではないばかりか、それはできないのです。

 なぜなら言葉は観念の産物ですから、時代や基準、定義や主観などによってその正誤は刻々と変化してしまうからです。

 したがって、言葉の正誤を判定しようとするのであれば、それは意味に向けるものではなく、語用に向けられるものです。

 

 ただし、「こういったことを定義とする」といったように、事前に宣言した場合にはその限りではありません。そう宣言された土俵上・言論空間ではそれが定義なのですから…

と、堅苦しい前置きをしましたところで、このことは次回、鍵となることなのですが、今はそのままに、はなしを進めます。

 

文明国とは西洋化した国のこと

 「文明国」という考えが現代では基本的には否定されていることから、それは望ましい姿勢であったわけではなかったか、あるいは現代では望ましくないものとなっているということが少なくとも言えるわけです。

 

 しかしかつて、この望ましくない「文明国」の仲間入りをすべくやっきとなっていた時代がありました。それは国防・存続・繁栄、より具体的なものとしては不平等条約撤廃のためでした。

 明治政府が巨費を投じた割には目に見えるような成果をあげられなかった鹿鳴館外交。諸外国から日本は文明国なのだと認められるようにと必死でした。

 

 日本人がかつてこれほどまで必死になって追い求めたあの文明国とは一体なんだったのでしょう?

 

 先のWikipediaの引用にもありますように、それは端的に言って西洋化。文化も生活スタイルも政治も外交儀礼もすべて西洋に倣うことでした。

 これは文明国の定義ではありませんが、あのときは確かに「文明国とは西洋化した国」を指すものでした。

 

文明の広がりは力の広がり

 世界各国すべてこれに倣ってしまったら西洋文化一色、キリスト教による世界統一が実現されたことでしょう。キリスト教の教理からいってもそれが望ましい世界、理想的な世界の姿でもあるわけですし。

 この点、文明国という名の西洋化の敷衍に、聖地奪還ではありませんが、布教を目的とした十字軍遠征の影を重ねることができるかもしれません。

 

 このような横暴がなぜ可能だったのか?なぜ文明国となること、西洋化することが正しいことのようにおもわれていたのか?

 

 まさしくそれは横暴であったからです。つまり暴力。つまりは強さの問題だったのです。

 

文明国と装飾された位階の上層

 でなければ攘夷運動が沸騰することもなかったでしょう。明治政府も手放しで西洋化を歓迎したわけではありません。

 西洋化せずとも外国勢力を追い払う力があったのならば、よいところは取り入れていったでしょうが、全面的に西洋化することも、そうしようともしなかったでしょう。

 

 そればかりか日本が連合艦隊でさえ一国で斥けるほどの力を持ち、なおかつその力をもって外国へと侵出し支配併合し、着々とその版図を広げていったとしたら、そのとき日本の西洋化ではなく、西洋諸国の日本化への潮流が生まれていたはずです。

 

 その目的は技術を学んで国を興し、力を得て日本(強国)と肩を並べてルールをつくる側に就くために。いつか、それも国が滅びてしまう前に成し遂げるため、嘲笑されても耐え忍び、ときに誇りを捨ててもその国の文化をマネ、準じたことでしょう。あの頃の日本のように。

 

 要は武力。結局暴力。

 文明国とは力の位階序列を表したものだったのです。

 

力しだいな言葉の定義

 当時、日本を訪れたオールコックさんなどの外交官をはじめとする外国の方々は、日本人の識字率やモラルの高さに驚き、知識があればヨーロッパの産業に優に対抗できると記述しています。

欧米から見た日本

 ですから日本は(文明と聞いてイメージするものにおいて、)文明的な文明国でした。

 しかし文明国とは認められなかった。

 なぜならここで言われる文明の原資は、文明ということでも文明という言葉の意味にあるのでもなく、力にあったからです。

 

 もっと極端な例を考えますと、あのとき文明国と称していた国々に突如、強力な兵器を持ち次々と地球上の国々を滅ぼしていく宇宙からの来訪者が現れたとしたら、そのとき文明は誰の手にあり、どこが文明国と呼ばれたでしょうか?

 その宇宙人とは会話ができたとして、それでもその宇宙人は凶暴粗野でとても(定義ではなくイメージ上の)文明的とはいえなかったとしても、そのときもし文明国の名を冠するとしたら、それはその宇宙人の国を指したことでしょう。違いますか?

 つまり文明は先進・先端・高度・優劣といったものとは関係なく、力によるものなのです。

 

「文明国」タグの利便性

 文明国というレッテルが重宝されたのは、“自称文明国”にとって都合のよい大義名分のためです。

  • 1に文明国ではない、つまり国未満の無主地を文明国が支配統治することを正当化するため。
  • 2に文明国間で無主地を奪い合うときの衝突を避けるため。

 この2つが主要因だったのではないかとおもいます。

 

 文明国と非文明国とを色分けすることで、その地にひとが住んでいようとも、文明国のいう法のない放置された未開の土地と見なすことができ、先占の法理でもって我がものとすることができます。自国や自民族の教理や情理に触れることなく。つまり正義として。

先占 - Wikipedia

 

 また無主地先占とすることで、文明国間において土地は先取権争いであるということを明文化して明確なルールとして設定することができ、そうすることで文明国間での争いを防ぎ、先占判定が微妙なときなどは話合うという約束事としてはたらき、互いの利益を失することがないようにできます。

 

偏見というわけではありません

 このような見方は弱者の側に肩入れした偏見、恨み節というようなものではありません。

近代国際法は、崇高な正義と普遍性とを理念としているが、他方、非欧米諸国に対しては非常に過酷で、欧米の植民地政策を正当化する作用を持っていた。この国際法は適用するか否かについて「文明国」か否かを基準としているが、この「文明国」とは欧米の自己表象であって、いうなれば欧米文明にどの程度近いのかということが「文明国」の目安 万国公法 - Wikipedia

 とありますように、大勢を占める認識のようです。

 

 書き出す前にこちらを読んでおけばよかったのですが、ここまでわたしが書いてきたことはWikipediaの「万国公法」のところに書かれていることの一部分をなぞっているだけにすぎないばかりか、わたしに文才がないために、その劣化版を書き連ねているだけでした。

 

文明国と暴力

 現代では基本的には文明国というのはないのですが、文明国にかわる名称はいくつもあります。

 

 それを暴力と呼んでしまっては軋轢を生じますので、暴力の別名として先進国や経済大国という言葉が使われています。

 一般に発展途上国や後進国と呼ばれる他国は、これを原形のままに暴力国・力大国などと呼ぶことも、またそう断罪してしかるべきような歴史を辿ってきましたが、それはできません。それをすれば力でもってつぶされてしまうからです。

 このような状況を許していることがすでにひとつの暴力の現れではないでしょうか。

 

力の飽くなき探求

 先進国が先進的なのは力。発展途上国が先進国と比して劣るところは力であり、なんの発展途上にあるかといえば、それもまた(先進国に対抗しうる)力。

 先進国はさらなる力を求め、発展途上国もまた力を求める。

 

 力を基準として見れば中国はとっくに先進国であるのに、対外的には発展途上国を装う。それはおかしなことだと改めさせることができないのもまた力によるもの。

 

 力は必ずしも暴力を意味するわけではありませんが、どこもかしこも力を求めています。力の先にはなにがあるのか?暴力の先になにが待っているのか?それを問うこともなく。

 

 文明国と称することがあのころとかわらず連綿と国益に適いつづけるものであったのなら、元”文明国”は一度としてその称号を捨てることなく今もかわらず文明国を自称しつづけていたことでしょう。

 またもし今ふたたび文明国と称することが不利益を上回るなにかしらの利をもたらすものとなれば、各国こぞって文明国を目指し、それを自国に冠することでしょう。

 

 どの国も力を追い求めることを止めることはできないようです。人類は暴力なしでは存続できないようです。その追求を止めたところから滅していくから。

 第二次大戦の教訓として、力があっても戦争を回避することはできないことがわかったけれども、さりとて力の追求を止めれば弱体化しやはり滅するから。

 

力をめぐる所感。頭をめぐる書簡。

 さいごに、「文明国」(を主題とすること)からは離れまして、「文明国」について考えていたときに湧き表れたメモを2・3ご紹介しておわりとさせていただきます。

 

 ひとの意思だけでは多権分立を維持確立することは不可能なようです。

 意思と思惑とがそれを棄却してしまうので。

 意思と暴力とがそれを阻んでしまうので。

 

 情報を秘匿することが利益につながるしくみにひとは自戒することなく自滅することでしょう。

 お金による経済活動の活発化は物不足社会までのこと。市場飽和状態では金も物も動きが鈍る。

 

 請求しなければ開示されない。法廷では一体なにを争っているのでしょうか?罪の検証ではなく罰(量刑ばかり)を争っていないでしょうか?

 

 次回は「文明国」をめぐる話題を取りあげたいとおもいます。