あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

理屈よりもイメージが尊重され先行する指導

「指導」が通れば道理が引っ込む

繊細な要

 トレーニング効果は高くとも、その分、体への負担も大きく、とくに膝を故障しやすいうさぎ跳びは、現代では推奨されていないばかりか、教育現場においてはほぼ禁止の方向にあったとおもうのですが、未だに10代の若年者に課している指導者がおられるようです。

 

 膝の構造をみますと複数の靭帯が関与した非常にデリケートな部位であるということがわかります。

 肩甲骨周辺も多数の靭帯が関わり、なおかつ肩の骨は吊り下がったようなかたちでつながっていて、膝同様デリケートな部位です。

 しかしながら肩甲骨は膝のように体重を支えるということはないですし、仮に少し痛めたとしても膝を痛めたときほどには動きが制限されることがありません。歩けますから。

 

 そのような膝をやってしまうリスクが高く、トレーニング効果と比して割に合わないトレードオフを大人が子どもに迫っているようです。

 

 膝と肩甲骨。古武術や合気道ではとくに重視されるところ。そのような動きの要を摩滅しようというのか?

 

 都市部ではそのようなことはないのでしょうけれども、田舎の方では未だに帰宅部というようなものはなく、全学生が放課後、(半?)強制的にいずれかの部に所属し活動しなければならないようです。この慣習についてどのようにお感じになりますか?

 

 わたしは断固反対というわけではありませんが、あまりにも瑕疵の多い慣習であると以前からおもっておりました。

 

指導という横暴

 希望する部活動がなくともいずれかの部に属さなければならない。ですから選択できない。これはまだいいです。世の中理不尽なこともございますし、若い頃の多少の不自由にはよい面もあります。

 たとえば他の社会を知らないですから、厳しい指導にも比較対象がないのでどれほどの厳しさなのかを知ることなく、そうして知らず知らずのうちに厳しさに耐えられる胆力を養うことができるでしょう。

 そしてそのことが糧となり、後に困難と対峙したとき、前向きに立ち向かっていくことができます。

 

 ですが、選択肢を与えられずいやいや仕方なしに消去法で選択したような者に、練習中なにかあったとき「やる気あるのか!やる気がないんなら帰れ!」はないんじゃない?

 帰れと言われたから帰ったら「それは違う」とか「謝るのが筋」だとか、指導者の横暴ではないか。だったのではないかとおもいます。

 「やる気あるのか!」と叱責されたら素直に謝るというお決まりのパターンは指導者のひとりよがりではなくって?そんな型にはまった、型にはめたがる指導者のもとで子ども伸びる?

窓際で膝を抱えて左手の掌を左目にあてがい悲しげな少年

 

 子どもに限定しなくても、そのようなひとの下でひとが伸びるとはおもえないのです。大人相手でもおなじようなこと言う?言える?言わないでしょ?

 おとなには言わないのにこどもには言うということはこどもをこども扱いしてるでしょ?子ども扱いされているこどもの自尊心養える?

 

負担が大きいのなら減らしたらいいのに

 学校の先生はやることが多いのなら部活動は欧米のように外部に任せたらいいのに。

 それに運動部と文化部で顕著なのではないかとおもわれるのですが、活動時間が異なるのに出欠の記録に差がないこと。

 むかしから野球部はなが〜く練習しているでしょう?学校活動ではある程度機会を均すものじゃあないの?学習時間の確保にだってだいぶ開きができていませんか?

 

 指導も専門家ではないわけですし、ですから冒頭にあげたような時代錯誤なトレーニングや精神論が今も、指導方法のイメージとして定着し、その知識に基づかないイメージを先行させて指導されているのではないでしょうか?

 

 部活指導は手当が割安で割に合わない、ほぼ慈善行為だというようなことを聞いたことがあります。ならなおさら外部委託したら?不用意に潜在的な雇用機会を奪っていますし、関係者がちょっとずつ損をする慈善になっていないこともあります。

 長時間、なかには休日という休日のすべてでさえ部活動に身を捧げることを求めていながら「ご家庭での教育を…」の言葉にどれだけ説得力がありましょうや?

 ふだん「託児所以上にながくお子さんをおあずかりしますよ」と言っているようなもので、それでは親御さんもなんでもかでも学校に任せよう→なにかあったら学校の責任という意識をもちやすくなってもしかたのないところがありませんか?

 

それは指導か従属か。従属指導になっていないか。

 部活指導に熱心なのはよいことですが、なかには休日返上してまでひとに指示を出したがる“指導嗜好家”や自分がもっとも楽しんでいるような、子どもにみずからのイメージや嗜好、趣味につきあわせているようにしかみえない方もおられるようです。

 さらにはプロを育てたいの?とおもわせるような指導熱心な方もおられますが、だとしたらなおさらその分野に長けた指導者のもとで指導を受けさせた方がいいでしょうに。

 

 「教師の負担が大きい」と叫ぶ割に負担を減らそうという動きがみられません。指導者(教師)を指導する指導者(行政や組織)の指導力不足なのではないでしょうか?

 裁量権をもつ高齢重鎮の方々の「これは伝統」「指導とはこういうものだ」「むかしの教師はもっと骨があった」というような、なんの根拠もないただの独善的なイメージの固着、記憶の固執がはげしいのではないかとおもいます。あるいはその地位への我執がつよすぎてなかなかひっこまないのでしょうね。黒板にCOACHINGと書き込みその前で両手をポケットに入れ生徒に向き合う先生

 

 大人(重鎮)が大人(教師)に、そしてその大人(教師)がこどもにつきあうこと、従うことが常識だというように、従属することが正しいことであるかのように指導していませんか?上から降りてくるのは従属指導になっていませんか?

 

スポーツ特化モデル校

 各県に1校でもスポーツを専門とした公立学校設置して、プロを目指す子はその学校に入学するようにしたらいいのに。

 

 麻薬や賭博などに手を出さないように、また、将来故障や進路変更などでプロをあきらめても生活するための道が断たれないように、一般教養なんかは教えるとして、それでも他の学校と比べてスポーツに特化したカリキュラム組んでさ。明徳義塾や青森山田のように。通学が難しそうなら宿舎に住むようにして、卒業後プロになれなくてもスポーツインストラクターなどの就職先を斡旋するとか。

 

 スポーツ特待枠ってなにかと問題になりつつも絶えることなく存続してきました。とくに少子化で入学生を集めることが困難となってきた昨今においては、費用がかかる割に効果も期待できなくなってきていることでしょう。

崩れかかるスポーツエリート校ビジネスモデル WEDGE Infinity(ウェッジ)

 そうであるなら、影でこそこそやらずに勉学の成績に関係なくスポーツの成績を入学基準としますという公立の学校があってもいいのではないかとおもいます。

 東京オリンピック開催も迫ってきていることですし。←あと4年では期間が短すぎるか。

 すでにあるのかもしれませんけれども。

 

凝り固まった指導のイマージュへのオマージュ

 学校の宿題という仕組みもよくわからないのです。

 たとえばすでにその漢字を覚えてしまった者にも一律に書き写してくることを課す。これになんの意味があるの?みんながおなじことをすることが平等なの?一律にしなければ教師の負担が大きいというだけの、生徒本位ではなく教師本位のものになってない?このような宿題の目的は覚えることでしょう?なぜ覚え方まで強要するの?

黒板にアルファベットを書いていきzの最後のところを書きながら笑顔でこちらを向く少女

 

 各自考え各自異なる解答となるような、いくつかの諸外国で行われているレポート形式の課題ということであれば、宿題という仕組みにもうなずけるのですけれども…なんで?

 ここにも長年、省みることなく醸成して無批判のうちに継承されてきたイメージの固執が見え隠れして見えるのはわたしだけでしょうか?

 

 これっておかしいとおもっているのわたしだけ?変だというのが変なわたしなの?