善人の条件
善人の条件:悪を避け、悪を行わない。
前提:諸悪の知識を有する。善を行うには悪を避けるために善悪両方の知識、善と悪の境を知っていることが求められるから。善は悪をもって、悪は善をもってはかられます。善のために悪が必要ですから。善人は悪(の知識)を持っていなければなりません。すると悪を避けるという善人の条件に矛盾してしまいます。
結論:善悪は二項対立ではありえない。ゆえに善を口にするのなら無言・盲目の善人とならなければならない?
道徳は最終的には打ち捨てられるものではないかと…。
かといってはじめからそうすべきものではありません。むしろその途上においては死守すべきものでしょう。
(善や悪が普遍化してその必要がなくなったという意味で、)善(行)がすくなければ悪い世界というわけではなく、悪がすくなくなれば善い世界というわけでもありません。頻度の問題でもないですし…。
なんでご先祖さまを敬うの?
これは親を敬うことに似ています。
先祖を敬うことは義務ではありません。なので「なぜ先祖を敬うべきか?」「なぜ先祖を敬わなければならないのか?」とは問えません。
親や先祖がなければ自分は存在せず、このように問うことも、そもそも考えるということができなかったわけです。
親や先祖に否定的な思考・感情があったとしても、その思考・感情の内容ではなく機能が得られなかったわけですから、敬うほか仕方ない。
生まれてしまった以上は逃れられない宿命。
抵抗したところで手の内で躍っているようなもの。
ご先祖さまも敬ったもの
親の言うこと、先祖の教えには、いかに理不尽であろうと不法・不正であったとしても従わなければならないというわけではありません。
いかに先祖であってもその起源は国・土地・環境・時代・時・物理・世界にあるのですから、このようなものに反する行為は先祖の教えに背くこと以上に避けねばならないことでしょう。
また、自らも子や孫を持ち、後々には誰かの先祖となるのかもしれないのですら、その可能性において自分を律して戒めることも必要なのではないかとおもいます。
祖先には敬わざるをえないものですが、絶対服従すべきものというわけでもありません。
道徳・倫理・人倫
「礼」は社会と相手がいて初めて成り立つ意識・関係です。
外国でそばをすすって食べようと、それが礼に反すると規定する社会や相手がいなければ礼もなにもありません。
そもそも社会も相手もいないのなら言葉を覚えることも概念を得ることもないのですから、礼もなにもあったもんじゃありません。したがって礼とは関係です。失礼は関係の産物。
川でおぼれている人や火事現場に取り残された人を見たときなど、とっさに無意識のうちに自らの命をも省みず行動するのが道徳。
誰かがいじめられていたり危険に近づこうとしているときなど、危険が自らの身にふりかかる、たとえば新たないじめの対象となったり身代わりとなることなどが考えられるような場面でも止めたりやめさせるなど、そうした方がよいだろうと感じて思考した結果、選択して行動するのが倫理。
国のために戦地に赴いたり誇りのために立ち上がるなどの、ある特定の民族や集団、自己のために選択して行動するのが人倫。
徳倫の優先順位
道徳と倫理が衝突したときは道徳を、倫理と人倫とが衝突したときは倫理を選びます。
つまり、よりよいと思われるもの、より善に近い方、高次のものを選びます。
ここでいう高次というのはより無意味・無意識・反応に近い方のこと。
反応や無意味に近いということはただあるという生成の実相に近くより根拠が強いから。
ここにおいて無意味は忌避されるものから好ましい・悦ばしいものへと転化します。
意味は弱いですが無意味は強い。
区別できない徳倫
道徳は人工的でもその根拠は反応にあったほうがより望ましいのでしょう。
でも…国のための戦争においても、自国を守ること、自国文明・文化を発展させることがよりよい社会の形成につながると信じて考えているひとにとっては人倫ではなく倫理となります。
また、お国のためとは言ってはいても、それは方便であって本音は他にあることもあります…。
このように、ひとにより、思想により、思考により、信条により、道徳・倫理・人倫のどれにもなりえますから厳格な区別はなく、区別もできません。
善の領域
自分を善くする=世界を善くする-ために→他人を善くする→社会を善くする→自分を善くする=…
道徳違反の罪と罰
人と動物の違いは知能の有無であり、言語の獲得の有無であり、さらに概念や想像力の差です。
このような言語の発現により規定された善や人間性の発露・命題となった道徳の尊重は、人間(性)の尊重です。
人間・人工の道徳をないがしろにすることは人間性の否定であり、そのために罰せられます。
しかしだからといって罰せられることが人間性を否定した証とはなりません。
つまり…人間性の否定→罰とはなりますが、罰→人間性の否定とはならない一方通行の論理です。
なので過失などによる罰は人間性の否定とはなりません。
罰には冤罪や国家権力の横暴や濫用などがあり、道徳は時代などにより変化・変質するもので、かたくなに固持し続けなければならないものではありません。
お釈迦さんをはじめ、何人かの思想家・宗教家は戒律の変更を認めています。
戒律・道徳の正当性は歴史・時間が襞のように幾重にも折り重なって凝縮して強度を得ます。
人格になる世界。世界となる人格。
人はあるということから逃れられません。
私は統覚によって私を認知して私となり、統覚によって私は私から逃れられなくなります。
私は私を背負ってあらねばならないのです。
それが実相ではなく幻想だとしても。
統覚、つまり自我により私にしばりつけられています。
それでも自由ではありますが…。
世界が人を生み、人が善悪をつくったのですが、その人がつくった善悪に世界はなり、人のつくった善悪に世界は従います。
人も善悪も世界ですから。
善悪が人工物だったとしても人の領分だったとしても、それでも世界の性質になってしまいます。
世界を善くも悪しくもするのは何か(イデア)ではなく善悪をつくった人。
世界の問題ではなく人の問題。
世界からすればどうでもいいこと。
善悪の(適用)範囲は人知の及ぶ範囲。
人のないところに善悪はありません。
解釈者・開拓者、善悪の創造主・適用者・執行者がいないから
道徳・善悪の根拠は世界の実相ではなく、人知に求められることになります。
正義も神の領分にはなく、人の領分にあります。
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