あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

汚知りあいになりたい。

醜←→美

両極端

 きれい・きたない。聖・俗。よい・わるい。…

 

 美しいと汚いの概念はどちらが先に生まれたのでしょうか。

 

 美しいの反意語は汚いではなく。

 汚いの反意語は美しいではありません。

 

 「美しくない=汚い」でも「汚くない=美しい」でもないことから、美しいと汚いの間にはどちらでもない中間・地平があるので、美しいも汚いもそれぞれ(ある程度)極端な状態を表しているのではないかとおもいます。

 

 美とは何か。

 それにもまして醜いとは何か。

 

汚学からの美学

なぜそう思うの?

 美しいものに触れたときの脳の反応を脳科学的に調べられていたり、黄金律や白銀比などの数学的なものと美についての研究もされています。

 美についてはおおくの研究がなされています。

 

泥水の中サッカーを楽しむ少年たち 一方で、汚いについてどうでしょうか?

 美の比べたら汚の研究は微々たるものではないでしょうか?

 汚物を嫌う傾向をもつから研究対象とされづらいのでしょうが…、でも、なぜ嫌うのか?

 なぜ汚いとおもうのか?

 なにをもって汚いとするのか?

 

どう思う?

 原住民には「きたない」という感覚がうすいのではないかとおもいます。

 なぜなら「手を洗う」といった行為は、手でものを食べるため、手に砂などがついているとそれが口に入って食べるのに不便だという程度のことで、手を洗うという習慣がないようにみえること(水が貴重ということもあるのでしょうが)、あるいは、文明人と言われる人々が汚いと感じること、たとえばある島では、移住者はその島の住人の男全員が酒にツバを入れたものを飲まなければならないという儀式があったり、(むかしの日本でも、米を発酵させて酒をつくるために、ひと(後に若い女性によるものが主流となりましたが)が噛んで吐きだしたものがありましたので、現代人からするとアレですが、「ひと」としてはそれほど抵抗感がないものなのかもしれませんが…)ウシなどのフンを家の壁材とする地域がありますが、フンを素手で塗りつけた後、別段手を洗うなど気にしていないようにみえることなどから、汚いという概念がうすいというかないようにみえます。

 

灰色の泥に染まった足

 ただし、人糞を素手でつかんでいるような映像や文献がないことはありませんが、それほどおおくはないので、汚いという概念がまったくないということはないとはおもうのですが…。

 

 汚いは所属する社会の慣習にのみよっているものなのでしょうか?

 「思う」ことと「感じる」ことにどれほどの差があるのでしょうね?

 

汚(お)られますか?

 神話においても、音楽[music]、美術館[((art)museum]の語源となった美術の神ミューズ[ムーサ]や、美の女神ヴィーナス[アフロディーテ]など、美を司る神はいても、また、見た目が汚かったり行いが汚い神はいても、「汚」や「醜」を司る神はいなかったとおもいます。屋外のトタン壁の前に置かれた顔の白い不気味な女の子の人形

 

 日本においてはせいぜいネガティブな神というと貧乏神ぐらいではないでしょうか。

 

 「汚」が擬人化されて登場することもありますが、それは神ではなく怪物・妖怪としてです。

 

均整は醜美の基準というわけでもなさそう。

 調和・ハルモニア(のとれたシンメトリー・対称性)に美しさ感じるからといって、それが美のすべてではありません。

 たとえば沖縄の首里城を筆頭とするグスクなどの文化はアシンメトリー・非対称性で、むしろ極度にシンメトリーを排斥していますが、それでも美しいものです。

 どうやら崩れた・崩した・非調和の調和というものもあるようです。

 

道徳起源の別系統?

 善悪の起源はルサンチマンの系図以外にも、きれい・汚いという美的感覚から発したものもあるのではないでしょうか?

 つまり、物質的にしろ精神的(卑怯・卑劣な行為といったもの)にしろ、汚いという感覚が、ある種の美的感覚のよしあしという比較から→よい・わるいという感覚が生じ善悪となったという系統です。

 

 汚の追求によって美についての新たな視座がひらけるのではないかと食指がウニウニ動いてしまいます。

 

 美を感じるのは<私>か…それとも「私」なのか…。

 

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