技術の進んだ現代において、他では手の施しようがないと受け入れを拒絶された人々が、私1人を訪ねて年に千人ほど訪ねてきているらしい。
事務方から年次報告であがってきたものであるから、正確な数はわからないが、その内300人ほどを治療している。
今はこうして、みずからが手の施しようもない患者となって久しく、仕事以外のことを考えたことがなかった者が、このようなくだらないことを考えている。
「あなたならできる」と、病身の、それもおそらくあなたの身内よりも死に近い私に、なおも仕事をさせようと、みずからの、あるいは身内の命のためだけを想って、悪意のない配慮なき良心をもって、わざわざ秘密にしてあるし、されてもあるので、相当の労力を要したであろうことが容易に推測できる私の病室を探しあてて懇願しに来るのだから、どうやら私はそこそこ優秀な医師なのだろう。
私自身そのように思ったことはない。
現に年300例の内30例ほどは失敗している。9割バッターといえば聞こえはいいが、当事者からすれば10割。それでも手の施しようがないと受け入れを断られてきた人々なので納得はしているように見える。
それを失敗とは呼べなくとも、私はそう呼ぶ。人の優秀さなどたいした差ではないのだ。
ただし、人がお金を得る職業の内、最も有意味なのは医師であるとはおこがましくも思う。
可能性をもつ命を守るのであるから。
我々が直接社会を動かして存続させているのではないにしても、それを行う者、そのひとの可能性を守り、可能性を切り拓く可能性を守っているのだから。
中には意図せず可能性を潰す者の可能性を救ってしまうこともあるが、それを差し引いても過分のプラスであろうし、そう思いたい。
医師の次には救助隊だろう。
何にしても命を救う職業は崇高であると思う。
しかし職業に貴賤はないのだ。職業には貴賤を設けられるほどの差はないのだから、崇高などと高尚な言葉を使ったところで意義はない。
人間社会で見れば有意味なことも、そのさらに上の視点から見れば無意味である。
なぜ我々はこんなにも懸命に無意味を生産し続けてきたのだろうか?
それも大量に。
産業革命を経てその生産能力は飛躍的に向上した。現在も指数倍に増えている。
それを抑制するものはない。むしろ権利と利益とがそれを後押しする。
0に0を加えても0のまま。0に何を掛けても0でしかない。
0を書き連ねたところで桁が増えるわけでもないのに、変わることのない0を更新し続けている。
更新することを進化や進歩と言葉を置き換えたところで、一部の者に言い訳を提供することにしか役に立っていない。
この不条理・無意味に目を覆うことを人は大人になると呼ぶ。そしてこの愚行を愚行としないために無意味に意味を貼り付ける。意味を見出すのではなく意味を創造する。 その意味を提供する者を指導者としてきた。裸の王様、そして裸の民衆は服を着ることを覚えた。
0と∞の力 加減法(+-)では0は影響を受けないけれど、乗除法(×÷)なら0の影響しかなくなる。また∞では∞の影響しかない。
自分の中である確定的な世界像が出来上がってしまうと、それ以降はいくら知識を増やしても、いくら本を読んでも,結局はその世界像の中から抜け出せない。
一歩も前に進めなくなる。
そうじゃない。
数十歩、数百歩、数千歩進んでも堂々巡りの逡巡になっている。
進んでも進んでも進まない進化のない進歩。
透明な螺旋階段を上から見ていてはわからないけれど、横から見れば深みや高さが増して深化はしてる。
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