あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

「きゃ~」という黄色い声についての一考察

疑問を抱いたいきさつ

 ワイドショーの芸能コーナーにおいて、ジャニーズ関連のニュースが報じられたとき、映画の舞台挨拶かなにかで会場中から、会場を埋め尽くす「きゃ~」という黄色い声援が飛び交っている映像が「きゃ~」というスーパーインポーズ、「きゃ~」という文字を重ねたテロップとともに流れました。

 

 と、そのときです…「きゃ~」…って、なにっ?

 「きゃ~」の意味はなんだろう?

 と、フッ、と疑問が降ってきたのでした。

 

 そしてそのあとにこんな仮説がムクムクと湧き上がってきました。

 ほんとうに「きゃ~」と言っているのだろうか?

 ほんとうは「いや~」と言っているのではなかろうか?

 と。

 

 どうにでもあなたの好きにして~の「いや~」

 やめてっ!と拒絶するのではなくむしろやめないでもっときて~の「いや~」

 といったように、「イヤよイヤよも好きのうち」的な意味での「いや~」があるわけですが、「きゃ~」は「いや~」に由来するものなのではないかとおもったのです。

 

「あ」「お」んの息

 まず、「きゃ~」と「いや~」。

 正確には「いや~」は発するときにははじめの「い」はあまり発音されないのでほぼ「(ぃ)や~」「や~」なわけですけれども、「きゃ~」と「いや~」あるいは「や~」とでは、後者、つまり「いや~」「や~」の方が「きゃ~」よりも言いやすく発しやすく大音量を出しやすい。

 どちらも「ア」の音ではありますが、はじめにカ行、「き」があるのとないのとでは、「き」から発するとなると歯列が障害となると言いましょうか息の通り道が狭まってつまったような感じがします。

 

 対して「や~」なら「わ~」と同程度に発しやすいく、「k」よりも「y」、「y」よりも「w」の方が後に続く「a~」が発しやすいのです。

 それに「いや~」なら「イヤよイヤよも好きのうち」の「イヤ」なのだろうなと意味も通るわけです。

 こうなるとますます謎めいてくるのは…「キャ」ってなんなん?

 

 わたしは「いや」と言うことはあっても「きゃ」と言うことはありません。

 意味もわかりませんし。

 まあただの掛け声や声援にそもそも意味などないのかもしれませんが。

 

 なかにはちゃんと(ちゃんと?)「きゃ」と言うつもりで端から「きゃ~」と言っている方もあるやもしれませんが、それはあたかも手塚治虫氏によって沈黙や静寂が「シーン」と表されるようになり(実際ヒトには静寂時に「シーン」と聞こえているようですが)、のちにそれが普及した経緯のように、マンガやテレビなどで黄色い声援が「きゃ~」という文字で書き表されるようになり、はじめは「いや~」と言っていたものが「きゃ~」へと転じ、今となっては「きゃ~」が主流となったのではないでしょうか?

 

男の「お」女の「あ」?

 スポーツ中継などをみていると、得点シーンやファインプレーなどのとき、ほれぼれするような鮮やかなプレーや、なにか納得させられるような華麗なプレーが繰り広げられたとき、驚嘆や感嘆の意を表すかのように男性は「おぉ~」「うおぉ~」と低い声をあげ、女性は「わぁ~」「きゃ~」と高い声を発します。

 つまり「きゃ~」は女性特有のもので、男は「o~」、女は「a~」なのではないかとおもったのです。ほんのいっとき…。

 

 というのも…

 

 哺乳類、類人猿のなかでもとくに大型のゴリラやオランウータンが威嚇・牽制するときは「ウホッウホッウホッ」や「オッオッオッオッオッオッオーッ」など、ヒトの男性のように「お」の音を発するのに対し、ゴリラなどに比べれば小型のサルやチンパンジーが警告・警戒音を発するときは「ぎゃ~っぎゃ~っぎゃ~っぎゃ~っ」「キャッキャッキャッキャッ」「キィ~」など、ヒトの女性のように「あ」や「k」の音を発します。

 となると、男の「お」と女の「あ」と思われていたものは単に体格差によるものなのかもしれません。

 

 と、おもいきや…

 

 性差や体格差でもなく、単に興奮すると喉に力が入って声帯が狭まり高音となり黄色い声になる…のか?

 

 以上、どうでもいいことをそれっぽく語ってみました~。

斜視

「あなたがどこにいても見つけられるように、あなたが産まれるずっと前から用意していたのよ。」

 

 遺伝という理由や病気が原因といったように、理由や原因はあっても、意味はない。

 意味がないのだからどんな意味をつけてもいい。

 そうしてつけられた意味は正しくするのであり、絶対的に正しいし、正しくなるものであって間違いではない。

 意味づけられたというただそれだけで、それだけが根拠であっても、たとえ途中で意味が変わっても、意味を変えても、そんな脆く繊細で不確定なものであっても意味を持たせられたその時々、意味づけられたその時々で、常に正しい。

 その意味の正解は意味づけた本人に依拠し、それだけで根拠となり正しいのだから。

 

 そんなことを斜視のひとを見て思い巡らせていました。

 

 モナ・リザや仏像、また多くのアイドルは斜視をもっているようなのです。

 「もっていると」と表現したのは、以前どこかで見かけたサイトに「人気アイドルのほとんどが斜視である」というようなことが書かれていて、そのとき「そんなに多いのならむしろ斜視は人気アイドルの(必須)条件。持って生まれた才能、ギフトなのではないか」とおもったものですから。

 

 モナ・リザや仏像、歌舞伎の見得などが斜視であるのは、八方睨みのように、どこから見ても目線が合うようにするためだとかでないとか…。

 もしそうだとすると、アイドルの斜視が武器となるのは、ファンが「あっ!こっち見てる。わぁーっ視線あったぁ~」と勘違いしてくれて、単純接触効果のような効果が働いて親近感が湧いて多くのファンを獲得できるからなのではないか…な?

 なんて仮説も立ててみたものでした。

難眠は果断に不断に睡魔を乞う

なんじな不眠症

 床について30分や1時間ほど経っても眠れないことがあるからといって不眠症だとはいってほしくないなぁ。

 

 30分や1時間ほどで眠れるのなら割と早い方で「ラッキー」。

 朝?お昼?起床したとき「昨日(あるいは今日)はいい日だった」とおもえるからね。

 

 ふとんにはいって1時間ほどで眠れたら割とラッキーな方。

 布団にはいってひどいときは3時間や5時間まんじりともせずなんてこともあります。

 

 さすがに毎日そんな状態がつづくということはなく、すぐに、そうね~3分ほどかな?それで眠れる日もあります。

 1年を通して入眠までの時間を平均するとだいたい1時間ぐらい?といったかんじです。

 

なんじ不眠の刑に処す

 不眠症のつらさは不眠症ではないひとにはなかなか伝わらないから理解されづらい。

 

 「なんで?寝ればいいじゃん」なんて平気で言われたりしてね。

 「だからぁ~眠れねーんだよ!」ってなる。

 

 不眠症ではないひとに不眠症のつらさを疑似体験してもらう方法を考えてみました。

 

 それはふとんに入って目をつぶってもらい、そのまま小一時間Stay up。

 つまりそのままじっとしたまま起きていてもらう。

 フトンにはいり目を閉じたまま「目を覚ましていなさい」、と。

 

 ふだん寝つきのよいひとにはなかなかできないことで、眠らずにいることが自分ではどうにもできず、目をつぶってじっとして起きているというそんな些細なことにおもわれることがとても苦痛に感じられることでしょう。

 どうだっ!思い知ったか。

 

なんじにやってくる?

 この「眠ってしまう」ということのちょうど反対のことが不眠症のひとたちの「眠れない」ということ。

 眠れるかどうかは自分の意思とは関係なく、神の気まぐれのごとき不確定要素であり、自分のことでありながら自分本位にならない・なってくれない他力現象。

 

 あまりに眠れず、そんな日がつづくと気が滅入り、弱ってきて、「これは前世の禍根か今世の業か?あずかり知らぬところで犯した罪に対するなにかの罰か?はたまた「眠れず・眠らせず」の刑か?」なんて考えが展開されてゆきます。

 

 神仏は信じていないけれど5時間も眠れないでいると神仏にさえ見放され、暗い部屋にひとりだから誰からも見放されたのだと強い孤独感を覚え、眠れるのなら悪魔だって構わない、誰かわたしをこの状況から救って、と助けを求めているのにやってこないのが当の睡魔。

 

 「時間よ止まれ!おまえはあまりに美しい」

……

………

…………

 メフィストフェレス!出てこいやぁ~っ!

ゲーテ『ファウスト』の一場面、メフィストフェレスがファウストに囁く石像