あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

図解!マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』② ~「意味の場」について~

新実在論における「意味の場」

 マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』の265ページの用語集に新実在論における「意味の場」の定義があります。

※ページ数は電子書籍のものを基としております。したがって、紙媒体や他のリーダーアプリのものとは異なるかもしれません。

 

「意味」の意味

 「意味の場」の特徴をみてゆく前に、「意味」についてみておきましょう。p.86参照

 

※本書ではsinnが意味でbedeutenが意義と訳されていますが、どちらかといえばその反対で、sinnに意義、bedeutenに意味と充てられることが多く、このことは訳者もことわっているところです。ここでは本書にならって意味をsinnとし、sinnfelderを意味の場として統一します。

 

 要は「2+2=4」と「3+1=4」のどちらも同じ4という対象を「2+2」や「3+1」という複数の表し方、与えられ方、現象の仕方があるよということです。

 そして「2+2」や「3+1」というのが4という対象の「意味」にあたります。

 

 同様に、「ニューヨークのヘラクレスと呼ばれていた俳優」と「第三九代カリフォルニア州知事」といった意味をもつ対象が「アーノルド・シュワルツェネッガー」だということです。

 

 ちなみに、引用にある「同一性命題」というのは「2+2=3+1」のようなものです。

 

生々しい意味と無味乾燥な対象

 「意味」についてはだいたいわかったものとして、本項では私が原語から感じる「意味の場」と「対象領域」のニュアンスの違いについて語らせてください。

 

 意味の場はSinnfelder、対象領域はGegenstandsbereichでfeld(英:field)にもbereich(英:erea)にもどちらにも領域や分野という語意があります。

※「意味」という語を一般的な用法、つまり「ある単語の内容」といった語意で用いるとややこしいので、これ以降、「対象の現象の仕方」という趣意を表すときに「意味」という語を用い、そうではない、一般的な用法、「ある単語の内容」という趣意を表すときには「語意」を用いることとします。

 

 feldは田畑、野原、戦場、競技場などの語意ももち、bereichは範囲、区域、地区などの語意ももっています。

 

 田畑や戦場という語からは(bereichに比べて)なにか生命力や活気、生々しさを感じないでしょうか?

 対して範囲や区域という語からは(feldに比べて)まったく息吹が感じられず、無機質で無味乾燥な、単に事実を表しているだけのものという印象を受けないでしょうか?

 

 先ほどある1つの同じ対象gegenstandでも意味sinnは多様な与えられ方をするということをみてきました。

 するとsinnからはfeld同様、生々しさを、そしてgegenstandからはbereich同様、無味乾燥な印象をもたないでしょうか?

 

 私には、SinnfelderとGegenstandsbereich、sinnとgegenstandばかりでなく、feldとbereichも互いにニュアンスの違いをもち、似たニュアンスをもったそれぞれの語が結びつくことで、その特徴を強調しているようにも見受けられるのです。

 

 ちなみに、他の資料等ではSinnfelderは「意味の場」ではなく、「フレーゲの用語の定訳語」[p.259]である「意義領野」が使われていることがあります。「意味の場」よりも「意義領野」の方が馴染みがあったりわかりやすいということであれば、語を置き換えてみてください。

 

存在の絶えることない多さ

 「意味」が多様な現象の仕方だとすると、「意味の場」とはなんでしょうか。

 

 「意味の場」とは「およそ何かが現われてくる場」のことだと定義されています。

 私的解釈ですが、端的に言って「なにかがある」ということが「意味の場」で、その「現われ方」が「意味」なのではないかとおもいます。

 

 誤解されやすいですがよりイメージしやすいと思われる言い方をすると、「なにかがあるという感覚」が「意味の場」で、その感覚の「現われ方」が「意味」といった感じです。

 

 ドイツ語sinnには意味や意義の他に知覚や感覚という語意があります。

 そしてまたsinnは英語のsense、フランス語のsensにあたり、およそ西洋のsinnにあたる語には、やはり知覚や感覚という語意があります。

 対して日本語の意味や意義という語には知覚や感覚という語意はありません。

 このことからsinnには日本語ネイティブにはわからない語感があり、また日本語ネイティブではsinnは知覚や感覚と訳した方が趣意は間違っていてもイメージしやすくなることもあるのではないかとおもいます。

 

 そこで提案です。

 もし「意味」という語に慣れなかったりイメージしにくいということであれば、はじめのうちは「感覚」という語をあててみてはいかがでしょうか?

 

 本旨に入る前に、もうひとつ、もう一語だけみておきましょう。

 それは「存在」です。p.66参照

 存在するとは意味の場の性質p.250参照

 

 本書では『なぜ世界は存在しないのか』についてあの手この手のメレオロギーの手マレーヴィチの手を駆使して切々滾々と内容の重複多めで説いていますが、そのとき避けては通れないのが「存在」だからです。

 世界が存在しないことを説くにはぜひとも存在するとはどのようなことかを説く必要があるのです。

 

 存在とは「意味の場の性質」だとか「意味それ自体」だとか言われても、まだその論旨、輪郭がはっきりしないと感じるかもしれませんね。

 ですが今のところは、用語の確認をしたというぐらいの認識で、ここで立ち止まらずに進んでみましょう。

 

 ということで、一応、これで一通り主要な用語の確認が終わりました。

 前回の内容も含めてここに「対象領域」「意味」「意味の場」「存在」の主要な4つの材料が揃いましたので、これより図解に入っていきます。

 

「意味の場」の多様性

 新実在論における存在とは「意味の場に何かが現象している」ことで、「意味の場」とは「およそ何かが現われてくる場」のことでした。p.87参照

 

 すると、対象がある意味の場に現象する・しているというのは、つまりは存在する・しているということで、1つの対象が2つの存在、2つの存在の仕方――2つどころか3つでも4つでも、複数の存在、多数の存在の仕方――をすることもありえるのだと言っています。

 

形而上学と構築主義と新実在論のヴェズーヴィオ山

 このことを形而上学と構築主義と新実在論、それぞれの主張、それぞれの存在論を比較・説明している16ページに書かれているヴェズーヴィオ山を例にとったものを図にしましたので、そちらをみながら確認していきましょう。

 1 ヴェズーヴィオ山

 2 ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)

 3 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)

 4 ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)

ヴェズーヴィオ山という対象がわたしとあなたとアストリートさんというそれぞれの意味の場が重なり合うところに内包されている図

 形而上学では1の対象・もの自体としての「ヴェズーヴィオ山」だけが存在していると考えます。

 

 構築主義では1以外の、2~4のそれぞれの観察者から観察された対象の「ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)」「ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)」「ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)」のそれぞれのヴェズーヴィオ山が、つまり3つのヴェズーヴィオ山が存在すると考えます。

 

 そして、新実在論では少なくとも1~4の4つのヴェズーヴィオ山が存在すると考えます。

 

 ここで「少なくとも」とわざわざ但し書きされているのは、とても狭い限定的な範囲に絞って、なおかつヴェズーヴィオ山の存在にだけ注目しているのだということを承知しておいてもうらためです。

 

 というのは、このような制限を設けないとあまりにも煩雑広大になってしまうからです。

 たとえばヴェズーヴィオ山を見ているのは「わたし」と「あなた」と「アストリートさん」だけではないでしょうし、「火山」や「イタリア」や「地球の地表」といった「意味の場」にも現象すると考えると、ヴェズーヴィオ山の存在(の仕方)は4つどころか、それこそ数限りなく存在することもありえるからです。

 

 このことは構築主義についても言えるのですが、構築主義は新実在論ほどその存在(の仕方)は多くはなりません。

 現在であれば(宇宙人や知的生命体の類を含めなければ、そもそもそれら観察者を人とするのかという問題がありますが…)最大で80億弱の存在(の仕方)となるでしょう。

 つまり「世界中の人がヴェズーヴィオ山を観察した場合」という有り得ない状況ではありますが。

 

どれもほんとうに存在する

 この例において、新実在論ではヴェズーヴィオ山という1つの対象が少なくとも4つの対象として存在すると想定されているのですが、これは「ヴェズーヴィオ山」という対象が例えば「イタリア」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山、「アストリートさんの視点」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山、「あなたの視点」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山、「わたしの視点」という意味の場に現象したヴェズーヴィオ山の4つのヴェズーヴィオ山が、それぞれ存在するということです。

 

イタリアという意味の場に現象するヴェズーヴィオ山 アストリートさんの視野という意味の場に現象するヴェズーヴィオ山あなたの視野という意味の場に現象するヴェズーヴィオ山 わたしの視野という意味の場に現象するヴェズーヴィオ山

 上の図ではそれぞれの意味の場に現象したそれぞれ異なる与えられ方をしたヴェズーヴィオ山を表しています。なのでヴェズーヴィオ山という対象を表す印を変えてみました。

 

 これを先のシュワルツェネッガーの例で言うと、たとえば「ニューヨークのヘラクレスは、後に第三九代カリフォルニア州知事になった」[p.86]を聞き間違えて「ニューヨーク州知事だったアーノルド・シュワルツェネッガー」を思い浮かべたひとがいたとして、そこには少なくとも「カリフォルニア州知事シュワルツェネッガーという人物」も「ニューヨーク州知事シュワルツェネッガーという人物」も存在するばかりか「ニューヨーク州知事シュワルツェネッガーという想像」までも存在します。p.236参照

 つまり、単なる思い違いも、事実ではなくとも、嘘でも、シュワルツェネッガーと他の俳優とを人違いしていても、それらはすべて存在するのです。

 

 意味の場に現象したからにはすべてが存在します。

 そして、立ち現われてきたものは意味の場の性質を変えます。

 それは、意味の場が異なれば存在の仕方も異なり、それぞれ異なる存在であるということです。

 

似て非なる「意味の場」と「対象領域」

 ここでヴェズーヴィオ山の存在をめぐる想定の範囲を少し広げて考えてみましょう。

 ただし、この拡張は本書にはみられないものです。

 では、図です。イタリアのナポリからはわたしとあなたが、ソレントからはアストリートさんがヴェズーヴィオ山をみているとうい模式図

 ここでは例えば、「イタリア」という意味の場のなかの「ナポリ」という意味の場のうちに「わたしの身体」という意味の場、あるいは対象が現象しています。

 すなわち「わたし(の身体)がイタリアのナポリに存在する」ことがみてとれます。

 

 また同じ「ナポリ」という意味の場のなかにありながら「わたしの身体」と「あなたの身体」とは互いに独立した・区別された関係にあったりもします。

 

 これらのことから、「意味の場」は重なり合ったり排除し合ったり包摂していたり、また、場合によっては「対象」となったり、「対象領域」とちょうど同じ(領域・範囲)であったり――例え「対象領域」とまったく同じ領域であったとしても、それで「対象領域」になるということはありません。「意味の場」は「意味の場」であって「対象領域」ではないのですから――することもあって、「対象領域」と同じような性質・特徴があることがわかります。

 

「意味の場」と「対象領域」の差異

 「意味の場」と「対象領域」とは、いずれも領域であるということもあり、混同してしまいがちですが、それでもやはり別のものです。


 「意味の場」としての「わたしの視点」というのは首肯されるものと思われますが、「わたしの視点」を「対象領域」として(設定して)もいいのかは、おそらくまったくの間違いということにはならないと思うのですが、あまり好ましいものでもないような気がしなくもなくない――とはいえ本書に「居間」や「銀河」、「役所訪問という対象領域」や「わたしの左手という対象領域」という記述がみられるので、対象領域というものはそこまで厳重で強情でなくてもよさそうです――…。

 なぜそのように感じるかというと、「対象領域」には「意味の場」ほどの、謂わば柔軟性がないからです。

 

 いずれにしろ、ここでは「わたしの視点」は「対象領域」として成立するものとして話をすすめると、「わたしの視点」とはわたしの見ている風景、わたしの視野のなかにある対象のことですが、これらの対象は存在していますし、ゆえにというのか「わたしの視点」という「意味の場」に現象して(アストリートさんでもあなたでもなく、わたしの見ている通りに)存在しています。

 

 するとこのとき「わたしの視点」という「対象領域」と「私の視点」という「意味の場」の領域とは等しいものとなります。

 等しいものとなるのですが、それでも同じものではありません。

 

 同じにみえても決定的に違うところは、「意味の場」は何かを・ある対象を現象する・させる場ですが、「対象領域」は何かを現象させる場ではないということです。p.116参照

 ここが「対象領域」がブルックリンのどこかの家にある七つの部屋、部屋の中に何が置かれていようと単なる部屋にすぎないと例えられ、対して「意味の場」は部屋の中に置かれているものによって性質が変わる磁場のようだと例えられる所以です。

 

対象一つで一変する存在

わたしの視野という対象領域を内包しつつも一角獣という対象を含む分すこしだけ大きいわたしの視野という意味の場の描かれた図

 これだけではまだわかりづらいとおもいますので、このように考えてみましょう。

 状況は先の例と同じで、わたしがヴェズーヴィオ山を見ているとします。

 

 そのときわたしはヴェズーヴィオ山に一角獣が闊歩している姿を思い浮かべます。

 すると一角獣は実際には、わたしの視野には現われておらず見えてはいないのですが、想像上のわたしの視野には確かに存在しています。

 

 つまり、わたしの視野という「対象領域」には一角獣という対象は含まれませんが、わたしの視野という「意味の場」には一角獣という対象が含まれており、「対象領域」よりも「意味の場」の方が、謂わば広いということになります。

 

 「対象領域は、そこに立ち現われてくるのが何なのかを問わない傾向にあります。」というのは、「対象領域」は「意味の場」に比べて、いわば無機質なもので、より数学的・学術的で厳格な規則に則り、より機械的で厳密な共通する特徴ごとに仕分けられた領域だということです。

 

 一角獣という対象を1つ包含するだけでも「わたしの視野」という対象領域は崩壊します。一角獣が見えている視野ってなんじゃそりゃ?となるでしょ。

 

 これが「わたしの視野」という「意味の場」であれば一角獣が観えて存在しているんだからいいじゃないかとなります。

 

 そしてまた一角獣というたった1つの対象を包摂するだけでも、一角獣を含まない「意味の場」とはその特徴・性質が一変し、また一角獣なしではその「意味の場」の意味を理解することができなくなってしまいます。p.84、p.85、p.87参照

 「捨象され」るというのは、そこに対象が立ち現われてくる謂わばホットな場であるのが意味の場であるのに対し、その対象がここに属すかどうかということしか問わない謂わばクールな場であるのが対象領域だからです。

 

 これではじめのSinnfelderとGegenstandsbereichとつながったでしょ?

 

ホットな意味の場とクールな対象領域

 繰り返しになりますが…

 「わたしの視野」という「対象領域」に一角獣がいるのはおかしいでしょう。

 現に一角獣が存在していて見えているのであれば何の問題もありませんが、わたしの視野という「対象領域」の中に一角獣が含まれているというのはそういうことです。

 つまり一角獣は身体をもった私達が触れることのできる生物として存在しているということになってしまいます。

 

 反対に、わたしが一角獣を想像して観ているというのに「わたしの視野」という「意味の場」に一角獣が現象していないとすると、いったいわたしは何を観ているというのでしょう?一角獣はどこに存在しているというのでしょうか。

 もしかしたら「あなたの視野」という「意味の場」に現象しているのかもしれませんが、それではわたしには一角獣は観えません。

 謂わば、わたしの(世界の)一角獣――わたしが観ているという存在の仕方をしている一角獣――は存在しないことになってしまいます。

 

対象が意味の場に与える決定打

 このことを「数字・数学」で考えてみましょう。

偶数と奇数が自然数に、そして自然数が整数に包摂されている図

 「自然数」という「対象領域」の中には「2」や「5」という対象がありますが、あるひとが「0」も自然数であると勘違いしているとします。

 すると自然数という「対象領域」にはもちろん「0」は含まれませんが、あるひとの自然数という「意味の場」においては「0」も含まれますし自然数として存在します――「論理的な偽であっても、現象していることに違いは」[p.84]ないのですから――。

 

 すると、「0」を含む自然数の「対象領域」というのは、自然数の定義に反しているため自然数の「対象領域」であるとは言えず、「対象領域」としては成立しません。せいぜいが「話の領域」の話となるでしょう。

 

 対して「0」を含む(あるひとの)自然数の「意味の場」というのは、自然数の定義に反してはいても、あるひとのなかではそのように想像され現象しているのですから、紛うことなく「意味の場」として成立しています。

 

 「0」を含むことで存在しうる自然数の「意味の場」の性質は異なります。

 また、「0」という要素が自然数の「意味の場」の性質を決定的に変えています。

 (対して「対象領域」では自然数に「0」を含むことはありません。それを絶対的に拒絶するので「対象領域」は変わりません。)

 

一角獣は存在する――対象と意味の場が存在

 そして今や、ここまでくれば「存在とは意味の場の性質にほかならない」ということや「意味の場に何かが現象しているということ」、「対象も意味の場の意味と結びついている」というのがどういうことなのかがわかるのではないでしょうか。p.91、p.116参照

 

 つまり、「意味の場の性質」とは、「わたしの視野」という意味の場に「一角獣」が含まれるかどうか、「自然数」という意味の場に「0」が含まれるかどうかということ。

 そのことが意味の場(の意味)を劇的に変え、また一角獣や自然数の0という(対象の)存在に関して決定的な影響を及ぼすのです。

 対象と意味の場とは切っても切れない蜜月関係なのです。

 

存在Q&A

 次に、これまでやや保留ぎみにしてきた感のある、新実在論における「存在」についてまとめておきましょう。

 とはいえ先に挙げたものの繰り返しです。

 ですが、「意味の場」についてわかった今なら、なにを言っているのか、また実はすでに端的にまとめられていたのだということがみてとれることでしょう。

 では、みてみましょう。

 

 

 Q1.なにが存在するのか?

 A1.すべてが存在します。ただし世界以外。

 

 Q2.どのように存在しているのか?

 A2.意味の場に現象することで存在しています。

 

 Q3.存在するとはどのようなことか?

 A3.意味の場の性質のことです。

 

 Q4.「存在」という言葉は何を意味しているのか?

 A4.意味それ自体のことです。

 

 

 Q1だけは次章で触れることを先取りして書いてしまいました。

 Q2 とQ3 は同じことなのでA2とA3を入れ替えても併記・統合してしまってもまったく問題ありません。なんならQ4、A4も。

 

 存在について意味の場は決定的な意味をもっていたのでした。

 

そして、なぜ世界は存在しないのか

 最後に「なぜ世界は存在しないのか」について簡単にみておきましょう。p.104、p.234参照

 なぜ世界は存在しないのか。

 要は、世界は現象しないから。あるいはあらゆる意味の場に現象してしまうからです。

 

 「あるいは」の前後で正反対のことを言っているようですし、「現象しないから」というのは「存在しないから存在しないのだ!」と同語反復になっていて何の説明にも、何の意味もないとおもわれるでしょうが、どういうことかというと、それは前回の「「対象領域」が囁く『なぜ世界は存在しないのか』」と概ね同じですが、ひとつの全体としての世界などない!それを求めても{世界のなかの[世界のなかの(世界のなかの…)]}と入れ子状態、無限後退に陥り、ついに現象しない「あるいは」あらゆる意味の場に現象してしまうということです。

 

 また、世界以外のあらゆるものが現象している、または現象しうるのだからすべては存在するのだと主張しています。p.20、p.24参照

 

 

 Q5.なにが存在するのか?

 A5 .世界以外のすべては存在します。

 

 Q6.どこに存在するのか?

 A6.どこでもないところで生じ存在しています。

 

p.34、p.91参照

 

 ということで、最後のビッククエスチョンおよびビックアンサーは以下のとおりです。

 

 

 Q7.なぜ世界は存在しない・しえないのか?

 A7.世界は現象しない・しえないからです。

2023年12月31日修正

図解!マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』① ~「対象領域」について~

新実在論における「対象領域」

 マルクス・ガブリエル著『なぜ世界は存在しないのか』の273ページの用語集に新実在論における「対象領域」の定義があります。

※ページ数は電子書籍のものを基としております。したがって、紙媒体や他のリーダーアプリのものとは異なるかもしれません。

多重多層な対象領域

 「対象領域」とは特定の種類の諸対象を包摂する領域である。…と言われてもなかなかイメージしづらいとおもいますので、さっそく図解していきましょう。

 

 はじめに、37ページで説明されていることを図にしてみます。

政治の対象領域と自然数の対象領域が並び立っている図
 いまのところ「対象領域」というのはなにかしらの領域・範囲なのだというぐらいにイメージしてみてください。といってもすぐにイメージが固まってくることと思いますが。

 ではいきます。

 

 上の図は見たままです。ほぼ見たままのことを「対象領域」という語を使って言うとこんな感じになります。

 

 つまり…

 

 「政治」という対象領域と「自然数」という対象領域は互いに独立していますが、「政治」という対象領域の中に「市町村自治体」という対象領域が包摂されていたり、「自然数」という対象領域の内には「偶数」という対象領域が内包されていたりして多重多層的であったりもします。

 

 そしてまた、「政治」という対象領域と「自然数」という対象領域とは互いに独立しています。

 

 いかがですが?「対象領域」という語が使われているだけで見たままの説明でしょ?

 

 一つ注意を加えるとしたら、「自然数」はもちろんのこと、「政治」においても「有権者数」や「得票数」など、どちらにおいても「数」が扱われますから、「自然数」と「政治」という対象領域は一部で重なるところがある。…とは言えません。

 

 対象領域はそんな曖昧なものではないからです。端的に言って「自然数」の対象とする数字と「政治」の対象とする数字は別のものだからです。

 

 もし「自然数」と「政治」という対象領域に重なるところがあるとすれば、それは「意味の場」においてか、あるいは「話の領域」においての話となります。

 

 「意味の場」については次回、「話の領域」についてはのちに触れます。

 

 

 次に「対象」という言葉を加えて、もう少し説明を続けてみます。

 

 すると…

 

 「自然数」という対象領域の内には「2」や「8」という対象を含んだ「偶数」という対象領域が包摂されています。

 

 また、「自然数」という対象領域の内の「偶数」という対象領域は、「偶数」という対象領域として、「偶数」という対象領域のままであり続けることもありますが、「偶数」という対象となることもあります。

 

 「対象」という語が加わってややわかりづらくなったかもしれませんが、それでもまあ「対象」は要素や個体ぐらいにおもっていただければ、だいたいは理解できるのではないでしょうか。

対象と対象領域

 本書では「対象領域」と「意味の場」の違いや、「対象」と「意味の場」の結びつきについては記されています。が、「対象」と「対象領域」の関係について次のように言われているところはありません。

 それゆえこの章で申しますことは多分に過分で誤りであるかもしれません。

 こう但し書きしたところでわたしの思うところを綴ります。

 

 話をすすめる前に先ほどの図を少し書き換えます。

 「政治」の図についてはこの先での説明の便宜上、「自然数」の図については、49ページに「自然数という対象領域は、偶数という対象領域を包摂しています」とあるのでそのような図にしましたが、偶数のうちには-2や-4など負の数も含まれますので、「偶数」が「自然数」にすっぽり包摂されているのは不正確かつ不適切なので、より正確な図にします。それがこちらです。市町村自治体が政治という対象領域に包摂され、偶数と奇数が自然数に、そして自然数が整数という対象領域に包摂されている図。

 「2」や「8」という対象は「偶数」という「2で割り切れる整数」という規定・定義をもつ対象領域に属し、たんなる「2」や「8」という数字にすぎない対象に「2で割り切れる整数」という特徴を持つことをも教示してくれています。

 

 また、「偶数」という対象領域は「2」や「8」という対象の共通して持つ性質、つまりたとえば「2の倍数」という特徴を教えてくれて、「4」や「16」という対象も「偶数」という対象領域に属すのだという新たな知見をもたらしてくれます。

 

 ただこの例では「2で割り切れる整数」と「2の倍数」とでは違いがあまりにもわかりづらいので、「政治」の例で言い換えてみます。

 すると…

 

 「法律」や「公務員」という対象は「市町村自治体」という「地方の支配・統治の仕組み」という規定・定義をもつ対象領域に属し、たんなる「法律」や「公務員」という単語にすぎない対象に「地方の支配・統治の仕組み」という特徴をもつことをも教示してくれています。

 

 また、「市町村自治体」という対象領域は「法律」や「公務員」という対象の共通して持つ性質、つまりたとえば「法治国家」という特徴を教えてくれて、「予算」や「退屈」という対象も「市町村自治体」という対象領域に属すのだという新たな知見をもたらしてくれます。

 

 といった感じになるでしょうか。

 

 「地方の支配・統治の仕組み」や「法治国家」といった記述は本書にはなく、適切な言葉・規則が見つからなかったので、なんとなくそれらしくみえる言葉をあててみたというにすぎない不適切かつ不正確な表現ではありますし、わかりやすい例ではなかったとはおもいますが、先の対象領域は対象となることもあり、また反対に、対象は対象領域となることもあるということとあわせて考えますと、対象と対象領域の関係は相互補完的であり、相互依存的でもあるともいえるのではないでしょうか。

多彩な特徴をもつ対象領域

 次に、対象領域の多様さについてみていきましょう。

天文学と素粒子物理学と確率論というそれぞれの対象領域の一部が重なり合い、占星術は天文学とだけ重なり合うところのある図。

 この図は本書には記述のないもので、その認識に不正確な点があるかもしれませんが、想像しやすいのではないかと思うので、この図をもとに説明をすすめさせてください。

 

 「天文学」と「素粒子物理学」と「確率論」といった対象領域には重なるところがあります。例えば「宇宙はビックバンを起こして広がり、それとともに素粒子もひろがっていきましたが、その素粒子は確率的な振る舞いをする」というように各対象領域、各分野で共通するところがあるでしょう?

 

 また「占星術」は「天文学」という対象領域と共通するところはあっても「素粒子物理学」とは排他的な関係にあったりもします。

 例えば「占星術も天文学も天体の観察から発展し、その歴史には共有するところがありますが、どれだけ目を凝らして夜空を眺めてみても、瞬く星々は見えども素粒子は見えません」といった――だいぶ無理のある苦しいたとえですが――感じで相容れないところがありますよね?

 

 このように、対象領域は重なり合ったり包摂していたりきっちり区別されていたりと多様なのですが、かといってなんでもありということではありません。

 

 対象領域には、重なり合うには重なり合うなりの、排除し合うには排除し合うなりの適切で明確な規定があります。p.37参照

生真面目な対象領域

 次に、対象領域の曖昧のなさについてみていきましょう。p.52参照

 これは存在論的還元について説明されているところですが、対象領域の特徴や曖昧さのなさについても言明されているところだと思うので引用しました。

 

 ここでは「対象領域とは実質のある学問的な認識が前提となっている客観的で強固なもので、本来、適切かつ明確で確立したものである」と言っています。

(やや誇張していますし、それよりなにより引用にある文を逆説的に解釈して対象領域の性質を抽出するというちょっとアクロバティックなことをしています。その成否、合否、芸術点はおまかせします。)

 

 対象領域の生真面目さは数学をはじめとした学問で考えるとわかりやすいとおもいます。

 

 たとえば、「偶数」という対象領域には「2」や「-4」は含まれますが「5」や「0.3」は含まれません。なぜなら「偶数」には「2で割り切れる整数」という明確で揺るがせない規則があるからです。この規則を変えてしまったり「0.3」を包摂してしまうことは明らかな間違いであり、それはもはや「偶数」でも、「偶数」という対象領域でもありません。

 

 同様に、「音楽」という対象領域には「和音」や「カノン」は含まれますが「2」や「-4」は含まれません。なぜなら「音楽」は音に関する学問分野であって数に関するものではないからです。もしも音楽が音を発することのない、また無音ということでもない数について研究する学問分野であるということになってしまったら、それはもはや「音楽」ではありません。

 

 ある楽曲の数学的解釈というものはあるかもしれませんが、だからといって「音楽」が「数学」という学問領域、「数学」の対象となることはありません。

 

 対象領域は論理的で厳格な仕分け人といったところです。人ではないですが。

 対象領域は学問領野だけを指すわけではないですが、概ねそのようなものだとイメージしていただければわかりやすいということがなんとなくわかっていただけたでしょうか?

 本章は、本書37ページのこの引用だけで事足りたかもしれませんね。

 さすがにこれは図にしなくてもいいですよね?

「話の領域」の物語

 対象領域には曖昧なところがありません。

 曖昧なところがあるようにみえるのは、それは「対象領域」ではなく「話の領域」であるからです。

 

 話の領域の「話」は原文ではGeschichteとなっているのではないかと思われるのですが、だとするとGeschichteには「話」以外にも「物語」や「出来事」、「歴史」といった意味もあり、「話の領域」よりも「物語の領域」の方がイメージしやすい方もいらっしゃるのではないでしょうか。

政治の対象領域と自然数の対象領域が並び立っている図
 この図ははじめに提示したものと同じもので、そのときにも言ったようなことを繰り返させていただきます。

 

 互いに他を排除する関係にあった「政治」と「自然数」という対象領域は、どちらも「数を扱う」ということが共通するのだから対象領域の一部が重なると見なしたり、はたまた対象領域というものの認識違いから「人間の思考の産物」という対象領域が「政治」と「自然数」というそれぞれの対象領域の一部と共通するところがあると見てしまうこともあるかもしれません。

 

 しかしながらこういった類のものは対象領域についての言説ではなく「話の領域」のおはなしです。

 

 と、こんなようなことを申しました。

 そして、今や、対象領域の生真面目さについてわかった(ものとします)今であれば、「政治」と「自然数」という対象領域に重なるところがあるという見解は明らかな誤りで不自然であるということがわかるのではないでしょうか。 p.37参照

 「話の領域」というものが少々やっかいなのは、新たな科学的発明や画期的な証明法の発見などによって、これまでの認識や定説が覆ることもあり、それにともなって対象領域が本来あるべき姿へと変質したり、重なり合ったり、排除し合ったり、というようりも実は話の領域であったのだと判明することもあるというところ。

 

 さらには、「話の領域」は「対象領域」の認識としては間違いを犯しているのですが、だからといって存在しない・存在しえないというわけではないというところ。

 

 というのは、話の領域は、「話の領域」という「意味の場」においては存在する・存在しうるものだからです。

 ねっ!少々やっかいでしょ?

宇宙が世界のすべてではない

 対象領域が本領を本域で発揮するのが、まさしく本章でみていきます「なぜ宇宙は世界ではないのか」というところだとおもいます。

 

 こちらの図も本書に記述のないものをもとに作成していますので、例のごとく内容に不正確な点があるかもしれません。その点ご承知おきくださいましてご覧ください。

学問が思考に、思考が…に、…が素粒子に、素粒子が世界という対象領域に包摂された図。

 例えば、従来、形而上学や構築主義では次のように、「天文学」や「素粒子物理学」、「確率論」や「占星術」などの対象領域は「学問」という対象領域の中にあり、その「学問」という対象領域は「思考」という対象領域の内にあり、…という対象領域の内にあり、…という対象領域は「素粒子」という対象領域に包摂されていて、そして最後には、すべての対象領域の対象領域である「世界(=宇宙)」というすべてを内包する1つの対象領域があるのだと分析されてきました。

 

 そうして「世界は存在する」のだとか、だから「世界はある1つの構成要素・素粒子からなる」と考えられたりして、世界の存在の有無であったり、その存在の仕方が断定されてきました。

 

 一見これは正しいように見えます。

 また、これまで「世界」は一般にこのようなものであると、このようなあり方をしていると考えられてきました。

 

 しかし、これは間違いです。少なくとも新実在論においては大間違いです。

 この誤りは対象領域というものの認識違いや対象領域の捉え違いによるものです。

 

 38ページで展開されている説明をもとに、新実在論の主張する世界像を図にしてみます。

宇宙が物理学に、物理学が世界?という対象領域に包摂された図。

 これまで素粒子によって世界が構成されていると考えられてきた世界像というのは、「物理学」という対象領域のなかにある「宇宙」という対象領域に属する世界観なのであって、新実在論による、または、正しい対象領域の認識による世界観では、「宇宙」は「世界」ではないばかりか「物理学」に内包する、謂わば、従来考えられてきたよりもはるかに(対象領域の)幅・範囲の狭いものです。p.38、p.40、p.41参照

 形而上学や構築主義の主張する世界像においては、「物理学」は「宇宙」に内包するものでしたが、新実在論の世界像においてはその内包関係が逆転し、「宇宙」が「物理学」に包摂されています。

 

 この図で「世界?」と「?」がついているのは、新実在論では「世界は存在しない」からです。

 ただし、形而上学や構築主義の主張する誤った世界像でさえ、新実在論では存在します。

 対象領域の捉え方としては間違いなのですが――または「誤った世界象」という対象領域であればありなのかもしれませんが――、たとえば「従来の世界観」という対象領域…というより「従来の世界観」という「意味の場」においては現象して存在しうるのです。

「対象領域」が囁く『なぜ世界は存在しないのか』

 「世界」の座にあった「宇宙」を正しく「物理学」の対象領域に帰せられたところで、次に、「世界」のありえなさについてほんの少しだけ触れておきましょう。

 

 『なぜ世界は存在しないのか』ということについて語るには、まず「存在」――どのように存在しているのか、「存在するとはどのようなことか、そして「存在」という言葉は何を意味してるのか」[p.66]といったことに――ついて語らなければなりませんが、ここではその前哨戦というわけではありませんが、対象領域の囁く「世界」のありえなさについて耳を傾けてみましょう。

 

 その前にまずは「世界」の定義から。

 (ハイデガー曰く)「世界とは、すべての領域の領域」[本書各所]のことです。p.48参照

 その上で、p.77参照

 これは、世界が一つの原理、または一つの要素、つまり超対象からなると考える一元論の誤謬を指摘しているところです。

 

 ここで言われていることは、対象領域というのは確立された規則によって対象同士を結びつけて包摂する領域のことだというのに、その肝心の規則がないじゃないかということ。

 何の基準もないから区別のしようもないし、判断のしようもないじゃないかということ。

 ルール無用時間無制限一人一本勝負は単なる妄想で勝敗の決めようがないじゃないかということ……

 

 ではなぜ規則がないのかというと、それこそズバリ、世界が一つの原理、一つの要素でできているとしてしまっているから。つまり一元論だから。

 

 一元論は端から誤謬を抱え込んでいるものなのですよ~だっ!と、言っています。こんな言い方はしていませんが。

 

 また、こんな言い方もしていませんが、「ねぇねぇ、超対象ってどんな対象領域に含まれるの?(対象は必ず対象領域に含まれなければならないということはないのかもしれませんが)超対象を包摂する対象領域ってあるの?」といったことも言えるのではないかとおもいます。

 

 そしてさらに、このようにも言っています。p.21、p.22参照

 この引用での前半部分は、先の「すべての性質をもつ対象」に通じるところのある記述で、後半部分では、謂わば無限後退に触れています。p.168、p.170参照

 対象領域はもちろん世界ではなく、すべての対象領域を包摂する対象領域などないのです。そのようなものを求める旅は空しく、(超対象はないという趣意・意味で)意味がないのだということが明らかとなりました。

 

 要は、ひとつの全体としての世界というものはないのだから世界は存在しないのだよ。ということです。

 

 まあそんなこんなで以上のことから、「(すべてを包摂するひとつの)世界」という対象領域はない。ということが言えるのではないかとおもいます。

 

 とはいえやはり、「存在」について語るには「意味の場」については避けては通れないというのに避けて対象領域ひとつを武器にやってきてしまったので、強く主張・断言・断定できず、せいぜいがこのようにしか言えません。

 

 「そう囁くのよ私のガイストが」

 

 第Ⅰ章『これはそもそも何なのか、この世界とは?』の章末にまとめが記されています。p.63参照

2023年12月31日修正

『「表現の不自由」展』というインスタレーション

『「表現の不自由」展』という現象

 「表現の不自由」展は議論と脅迫を呼んだ慰安婦像をモチーフとした「平和の少女像」などを展示したことにより期間半ば(開催から3日目)にして中止となったので、企画展としては失敗、それも大失敗。

 しかしそのために『「表現の不自由」展』という”作品”は、この企画展中もっとも成功した(インスタレーション)作品、それも超大作となりました。

 そしてまた今なお成長し続けている…

 

不滅の 『「表現の不自由」展』

 たかが一企画展に人々が右往左往する様は滑稽に思われるひともあったでしょう。

 また反対に、政治的に、プロパガンダに”芸術”の名をカモフラージュに国辱を与えるものとして利用しているところ(加えてそこに税金が用いられている点が不適切である)など、到底見過ごせない国益に反する重大事と考えるひともあったでしょう。

 いずれにしろ『「表現の不自由」展』という”作品”には、いかなる解釈をも許容、または拒絶してしまうスケールの大きさがあります。

 その大きさは、場合によっては宇宙全体をも包摂してしまうほどに…。

 

 というのも一般的なマテリアルな作品であれば華氏451度で燃やしてしまえば(写真等で複製は残ったとしても作品それ自体は)消却できますが、『「表現の不自由」展』という”作品”は、一度現出してしまったからには不滅。

 

 「不滅」とはやや過言な感がいなめませんが、「人とは、表現する生き物」であるならば、あるいは「人間あるところに表現あり」「人類が存続する限り表現は止まない」「世界は表現に溢れている」…(…なんでもいいですが…)…ならば、形がなく”表現”というものがなくならない限りこの”作品”は存続するでしょう。

 

”作品”となった『表現の不自由」展』

 さらにいえば、一般的なインスタレーション作品とは異なり、この企画展に出向き『「表現の不自由」展』という”作品”に触れたことがなくとも新聞やテレビ等の既存の主要メディアだけでなく、SNS等のコンテンポラリー(当世風な)なメディアを利用して拡大・拡散し、”作品”に取り込み作品の一部としさらに拡大、「表現の不自由展」にはまったく関心のない人も、また一切この”作品”について知らない人でさえ、その人間関係や世の空気、風潮といったものなどを通して無知のままでも無意識・無自覚のままに”作品”に取り込まれます。

 

 するとこの”作品”は、”作品”に取り込まれた人が生きているあいだは生き続けます。そうして延々と、その盛り上がりには盛衰があろうとも縷縷として繋がり、拡がり、継承され、生き続けます。

 

 無関係であっても無関心であっても、その絶対的な求心力により作品の一部へと取り込まれてしまいます。この作品からは何人も逃れられないのです。その影響力は今はまだ生まれてもいないひとにも、またもうすでに故人となったひとにも及びます。

 

 この作品を焼却するには、資料や記録といった存在・痕跡を滅却し尽くし、万人に忘却をもたらさなければなりません。この作品を失くすには忘却の彼方に追いやるしかないのです。つまり不滅。つまりは不朽の名作。

 

 抗議するひとも傍観するひとも、またなんの関心もよせないひとでさえ、すべてのひとがこの作品に包摂され作品の一部とされました。

 その意味でこの企画展に出品された作品はダシに使われ蔑ろにされたといえなくもありません。そしてまたわたしたちすべてのひとが。

 

 この作品の登場前後で世界は一変しました。

 どんな解釈を与えようとも成立し、たとえいかなる解釈を与えなくとも成立してしまう。創作活動だけに限らず、平凡な、単なる日常生活でさえ作品の一部とされ、作品化されてしまう・してしまう壮大にして無礼な、下品にして崇高な作品。

 

遠大なる目 または entanglement

 『「表現の不自由」展』が”作品”として成立するのであれば、『「表現の不自由」展』だけに限らず、その他いかなる出来事・事柄・事象も作品化、作品として成立してしまい、世に”作品”でないものはなくなり、翻ってすべてが平凡・凡庸・日常・普通なものとなり(←陳腐なものへと成り下がるといってもいいかもしれない)、”作品”であるものはなくなります。

 すると、世に”作品”はなくなってしまうのだから『「表現の不自由」展』を”作品”であるということできないと思われるでしょう。

(「すべて芸術だーっ!」「アートでないものはないっ!!」としてしまっても別段まちがいでも悪いことでもないですけれどね)

 

 しかし『「表現の不自由」展』が日常の些事、他の企画展と違って”作品”として成立しうる点が、まさしくそのタイトルにあります。

 もし仮に、この企画展に「表現の不自由」という名が冠されていなかったら、『「表現の不自由」展』は”作品”たりえませんでした。

 また『「表現の不自由」展』ではなく『「表現の自由」展』であったら(展示物にもよりますが)物議を醸すことはなかったでしょう。

 つまり、この企画展の巧妙にして、この”作品”の肝は、まさに名前にあるのです。「表現の不自由」を問い、「表現の不自由」をめぐって議論・問題が沸き起こったのですから。

 

 正確(?)には、あるいは厳密(?)には、明確な作者がおらず、また後出しジャンケンのように論争が巻き起こった後に”作品”としていることからインスタレーション・作品とはいえないんですけれどもね。←『「表現の不自由」展』を”作品”として散々話しを進めてきておいてここへきて急遽宗旨変え、”作品”ではないと否定するところも❝もつれ❞ていると・こ・ろ。

 

歴史の遺棄証人

 美術史においてこれほど大きな出来事があったでしょうか。美術界だけでなく思想界にも、そしてまたあらゆる世界に衝撃を与えた大事件。

 これは看過できない一大事件…のはず…が、…それに気づいているひとは少なく、察知してはいてもそれほどの一大事だと認識しているひとはより少ない。

 これは静かなる激震。それも大激震。

 このことは後の世、歴史が証明することとなるでしょう…

 

…と、おおいに遠大に煽っておいてさいごに、わたしはこんなことをほんきで信じてもいないし、仮にたとえそんなことになったとしても「大したことない、些末なことだなぁ」とおもうことだということ。