国家とは暴力の一形態、一法人格。これを転倒させて言うと、暴力(の一種)は国家の形をしているとなります。
幻想世界
自然状態と世界平和、どちらも現象したことも実現することもない想像の産物。前者からは遠ざかるように、後者には近づくようにと思考されます。
パスカルの「力なき正義は無力、正義なき力は圧政」、リムルの「力なき理想は戯言、理想なき力は空虚」、またはアダム・スミスの『道徳感情論』は政治や社会の実際と共に道徳や理念が暴力の暴走やその虚しさ・殺伐さを埋めるものであると説きます。
暴力を抑え込む、果てはある種の平和を志向するのであれば道徳や理念を全面に押し出しても実践的ではなくそれで変えられると考えるのは楽観的にすぎるので、暴力による暴力の平定、暴力に基づいた平和を考えなければ現実味がありません。あらゆる分野のあらゆる場面で言われる人口に膾炙していますがバランスの問題、バランスが大事だということです。
現実的にして非現実的な策
力の格差は独占欲を刺激してより暴力行使の実行に向かわせます。これは少数間の争いでも同様です。
暴力を抑止するには多数の力の均衡が有効です。というのも一正面作戦を展開しているときに背後を他社に襲われる可能性があれば躊躇するからです。そのためには強力な武器よりもより協力を得ることが肝心で、それがより強力な武器として働くことでしょう。
諸葛孔明の進言した天下三分の計やカントの構想した国連など、古くから様々な偉人が平和とはいわないまでもその次善策、力の緊張と均衡に資する現実的な不戦・停戦状態に持ち込む平和的妥協策として説いてきました。
三角形は強度のある安定した図形ですが、三すくみはバランス維持が要でそれが難しく、恒久的な状態には恒久的にはならない不安定な関係です。
現実的な解決策であることはわかってはいても三体問題は解くのには異常に難しく、多体問題ともなると不可解であるので、最も現実的な解でありながら解けない解でもあるばかりに非現実的なものになってしまっています。
現象している現実
どうしようもなく追い込まれない限り勝てない戦はしないものです。レジスタンス運動や占領や支配への抵抗運動はその最たるものです。
常任理事国のもつ拒否権や出資額や国力に裏打ちされた実質的な発言力や1票の格差などの弊害により決まらない、決められない、実行力がない、抑止力が足りない、というのが現実世界の国際機関の姿です。多国が関わるということは多暴力の衝突も同じことで、決めて実行力や影響力を持つためには大国主導とならざるを得ず、それは仕様のないところもあります。しかしそれでは大国の暴力装置の域を出ません。
国連は世界的広報機関でありオンブズマンにして大衆啓蒙・扇動機関ですが、これをお金によらない機関にして情報を総覧できるようになれば変わるのでしょうけれども、それこそ現実味のない話です。
「暴力は何も解決しない」は誰の言
「暴力は何も解決しない」と言われますが、法は国家の暴力より成り、その法によって裁定され、違法/合法、正しい/間違っているという一種の答えを下すという一面をもちます。するとたとえそれが擬制であったとしても一定の解決をみています。暴力が一応の解決を裁可しています。
それを解決といえるかは別として、極端なことを言ってしまえば、法の裁可、暴力の下す解決に反対する者がいたとして、暴力はその者を処刑してしまえばそれで済むことで、それもひとつの終わり、(暴力にとっての)解決をみます。
さて、そうなると暴力に帰属しない、暴力に包摂されない、いわば純粋な非暴力といったものはあるのでしょうか。おそらくそれはないでしょう。というのも暴力も力の一種であり世界は力に満ち力でできているので力でないものはないからです。
非暴力の実践が有効なものとなるためには、暴力の加工によって暴力そのものがすでに制御可能でコントロール可能なものになっていなくてはならないからだ。暴力の加工は、非暴力の実践に先だつ。
『国家とは何か』p.100
するとこの暴力世界の中で「暴力は何も解決しない」と言ったのは誰なのでしょう。非暴力はヒンドゥー教や仏教などで説かれ、不殺生からも導かれる教えであり理念であり「暴力は暴力を呼ぶ」だとか「暴力・怒り・因縁の連鎖」といったようなことは言ってはいても「解決しない」とはいっていないとおもいます。
仮にどこかでそのように説いていたとしても、そうであるのなら何が問題を解決するのかが説かれ、その教えが広まっていると思うのです。問題から、煩悩から離れるということは説かれているのでそれをもって解決としているとも、そもそも問題などないのだと一般的にいえばズレた斜め上の答えでいなしているともいえるのかもしれませんが。わたしの疑念は民衆の力を恐れる体制側がそう喧伝して声を上げ立ち上がるのを防ぐ策略の一環なのではないかと囁きます。
主権者の耐えられない軽さ
主権者、統治する者を傷つけるということはその国を傷つけることに等しく、国民主権では国民が傷つけられることは国内においては反逆罪、国外においては国際問題となります。国民主権では個人の問題は国の問題です。主権の意味は本来はそれほどまでに重いのですが形骸化しています。君主においては取替可能性により、国民においては複数性により個人もつ権利・権能が軽んじられます。
個人が暴力へのアクセス権を掌握し、強大な権力を発揮することがあります。近代の例ではフーバーやキッシンジャーなどが挙げられるでしょう。機運など諸条件、諸事態が揃い、なおかつその個人が情報の力を理解し利用するのであれば、個人であっても歴史さえ変えられます。しかしタイミングなどがあわなければ焼身自殺しようと著名人だろうと政治も世論も動かせず、ニュースとして消費されてしまうだけです。機運、情勢、世相、タイミング、国、時代などなどがすべて揃わなければ個人が強大な力を持つことは容易ではありません。
権利の神曲
ベートーヴェンは「自由・平等・博愛」の市民の権利と共和制の守護者たるナポレオンを讃える交響曲第3番『英雄』を書きましたが、ナポレオンとしては秩序回復のため政権基盤安定のためという事情があったにせよ、ベートーヴェンからすればナポレオンが皇帝となることで「俗物」となり神的暴力が神話的暴力になってしまったと絶望し憤慨し献辞を書いた表紙を破り捨てたと言われています。もちろん当時、神的や神話的という語は使われていませんが、そういうことでしょう。
不足の神的暴力
影響力の中でも特に近年の日本において台頭しているとおもわれるのが”不足の力”です。
需要と希少性が価値を高めるのですが、人手不足はまさにその通りで、能力や年齢などに関係なく賃金等の報酬が高くなります。能力に関係なくといってもそもそも人間にさほど差はありませんが評価が勝手に上がります。これまでと同じ仕事をしていても収入は上がり、なんなら労働時間は短くなっていても、それでは今まではなんだったのかという思いを置き去りにしてでも上がります。
少数意見、少数者ですら蔑ろにできないという喫緊の危機感が発言力や価値を高め猛威をふるいます。過剰であれば代替可能であるので無視されていた声が不足下では相対的に力をもつのです。
数は力です。多数決も戦も兵器・兵站も数が物を言います。多数決においては5%のひとの意見や活動で変わり得るといいますが、大抵は少数は非力なのですが、少子高齢化社会においては、社会や国家を維持できないほどの不足により若年層が少数であっても、いや少数であるからこそ、ゆくゆくは社会を主導する若者が優遇され発言力をもちます。これは従来とは異なる意味での数の暴力です。
少数と不足の僅差の大差
いずれ「足りな」くなるけれど今はまだ「少ない」のだと認識されていた、またはそう信じたかった少し前、たとえば格差是正や少子化対策、人手不足対策として一部企業で賃金を上げたとして、その増額分は商品価格に転嫁されたり借入額が増えたりするため求人や就労数が増えたところで売上や純利益が落ち込む中、周りは賃金据え置きで商品価格を変えないどころかむしろ顧客や元請けからの圧力に抗しきれずさらに下げようとしているとなると業界全体から国中にまで広がり、そうした商習慣や世の空気から景気が停滞するという負のスパイラルを起こし出口が見えなくなりそこから抜け出すことも有効な手立ても見いだせなくなっていました。
「少ない」ときにはそれでも人はわずかに残っていたわけで、コストも商品にではなく労働者に転嫁して賃金を抑えられていたのですが、「足りない」となるとこれまでは仕事や利益のパイの取り合いですんでいたものが労働力という人のパイの取り合いも加わり、自社だけが賃上げすると競合他社との商戦に敗れて市場から弾かれてしまうとの懸念をも吹き飛ばす、そもそも商品を生産できなくなるという目前の危機によりそんなことは言ってはいられない、と、ファーストペンギンを要すことなく一転して一斉に賃上げしたり福利厚生を高めようと急進します。
同一労働同一賃金に関する規約や原則は1919年のヴェルサイユ条約、国際労働機関(ILO)による1944年のフィラデルフィア宣言やそれ以降の憲章、1948年の国際連合による世界人権宣言など、労働に関する国際的な規約や運動が明文化もされるようになってからはや1世紀以上経ち、確かに肉体労働現場の安全環境はよくなり労働環境は昔に比べれば改善したように見えてもいじめと同じで見えづらくなっただけだという面もあり、半世紀前より広がる市場所得格差や相対的貧困率は労働環境や条件が改善しているのか疑わせるところです。その時代を生きているひとは前の時代のことはわからず比較することは難しいですが、自殺者の増加と若年化はその時代の労働環境や将来に悲嘆するほどひどいものであることは教示しています。
日本においては主に人手不足、人口減少、超少子高齢化という数年単位では解消できない既に手遅れな決定的で衝撃的な事由により現在やっと社会問題への対応に前進がみられはじめました。コロナショックの後なのでコロナが前進を促した主因のようにみえますが、それは一因や一契機ではあっても主因ではありません。長時間労働、医療崩壊、物流危機はコロナ以前にはすでに壊滅確定状況であったのですから。すべてコロナのせいにしたかったのでしょう。そうでなかったことは自民党の選挙大敗やこれからの凋落により示されることでしょう。
生産労働人口の減少は労働者の希少性、価値を高め、その地位を高め、影響力を高めました。AIなどの技術がさらにすすんで機械化がすすむと労働者の価値は下がります。そして影響力も下がります。
日本の低賃金圧
機械化が進まないのは設備投資等よりも人間の労働力の方が安価であるためその効用が低かったためです。この低さは不況や技術の未発達ばかりでなく、つくられたものという側面も持ちます。サービス残業や持ち帰り残業などで不当に時間も賃金も搾取され、ますます機械より安価な労働機械にされ、使い勝手のいい労働機械になっているからです。
日本の低賃金や労働流動性の低さを日本人の勤勉や協調性、謙虚さ同調(圧力)に求める向きがありますが、わたしはものぐさと予測不可能性によるものだとおもいます。どうせ変わらないのだから声を上げず、転職するのも職探しも面接も履歴書を書くのも面倒で、人間関係を含めて労働環境や条件がよくなるかはわからない、いやおそらくどこもさして変わらないだろうし仕事にも人にも慣れている現状維持を続けます。
企業の側も新たに仕事をつくったり探したり交渉したところでそうそうみつからないことだし、元請けやお客の機嫌を損ねて仕事を失わないように現状維持を続けます。
要因はさまざまあれど四方から賃金低下圧がかかり経済力も出生率も低下し国力さえも損ないました。一説には年間所得500万円が合計特殊出生率2.07、つまり人口を維持できるかどうかに関わりがあるといわれています。
不足の神的暴力の到来は不測の事態ではありませんでした。合計特殊出生率が2を割り込んだ1975年、つまり今からすれば半世紀も前から予告されていたようなものでした。
権利を満たしなさい
国家が暴力を基に成立しているのなら体制や仕組みを変えるのも暴力だけなのかもしれません。それは直接的なものではなく世論や風潮といった異なる力による暴力なのかもしれません。
「生存だけを価値として認める社会(アガンベン)」生政治、生への固執、生存のためだけに生きる、剥き出しの生・ゾーエー。
生死の権利は普段無自覚で力を発揮・行使しない、ただそこにあるものです。ただ生きていることと、生きることしか考えない・生きることに固執するというのは別物です。
ハラスメントやLGBTQ+、性加害、格差、高齢化企業、黒字倒産、精神疾患患者や自殺者の増加、(マイクロプラスチックが主因かもしれない)障害児の増加など、生権力さえ掌握できず生政治さえ行えなくなった国家への不信任と無力とが広まるなか、国家主導ではないこれらの問題の改善の兆しが見えてきました。これは人や社会の倫理観や意識の向上によるところもありますが、不足からくるものだと思われます。
権利の実現度が足りない、資源が足りない、人が足りない、ワクチンが足りない、コメが足りない、カネが、予算が、財源が足りない。
不足の力、不足が力をもつというよりも、力を希求するところには不足があります。満ち足りていれば求めず気付きもしません。その発想がありません。
例外的に見えてしまうのはカネです。大金持ちでもさらにカネを求める人や組織がありますが、これはカネを求めているのではなく数字を増やすことを目指しているのです。足りないのはカネではなく数です。あるいは将来に備えて蓄えたり他者に従いたくない従わせたいということもあるでしょう。これは不安を払拭できず安心感が足りない、他者と比べて足りない、我を通すには足りない、支配するにはまだ及ばないと、感情や感覚、心が満たされないのです。
不足の力とは弱点の裏返しです。付け入られれば崩れ、叩かれれば転覆し、補えば鉄壁となる蟻穴です。
足りているときにはことさら騒がれないのが権利です。権利を求める声が高まると神のしるし、神の正義・神的暴力が背景に現れます。しかしそこに神が現れ姿を見せることはありません。神的暴力は激化するほどに遠のき神話となって形を成して語られ、後に文化を増産します。
権利は実現されるほどに意識されません。意識されるのは不平等が進んだ目安。権利は力を増すほど減退し力を発揮しません。権力が表立たないほど権利は実現されている状態。
AI時代を生き抜く人間の仕事
機械は人間の労働を代替するもので、そればかりか機械であるため人間よりも速く正確に大量に疲れることなく間違うことなく休みなく仕事をこなします。機械は単調作業に秀でていて機械化の進展は人間の仕事が奪われると懸念され破壊運動も起きました。実際、仕事は奪われてきました。
AI技術の向上によって誰にでもできるような単純で簡単な作業や肉体労働はなくなっていくだろうと思われていました。しかし現在みられる現象は、複雑で膨大な知識を要し厄介な手順や手続きのある頭脳労働の機械への代替が進んでいます。
人間の労働力、つまり賃金の高い労働ほど安価な機械へと置き換えられやすいということもありますが、これまではそれほどの技術がありませんでした。
またそれに加え、実際に機械を稼働してみたところ、簡単な作業もその簡単さは人間にとってのものであって機械にとっては難しく、反対に人間にとっては難しい仕事は機械にとっては容易であったのです。
人間にとっては簡単で機械にとっては難しい仕事の多くは身体や感覚に関わるものです。機械にとっては簡単で人間にとっては難しい仕事の多くは情報やそれを基にした予測に関わるものです。
人間の労働力も円も安いためか他の先進国より遅れてはいますが、世界的には銀行業務の機械化と効率化が急速に進み多くの行員は失職しました。この他にも取引やレジといった比較的単調なものから、今や企画立案や創作活動といったクリエイティブな分野にまで広がっています。まだ車が地を走っているというのに。車が空を飛ぶそのずっと前にひとが車を運転しなくなります。
ちなみにわたしの考えるAI機械時代における人間の就ける最強職種はリラクゼーション系で職業としてはマッサージです。ひとに身体がある限り求められる職業なのではないかとおもいます。ただし腕が良くなければなりませんが。
機械やAIで事足りるのであればいかに人手不足であっても働き手不足ではないので人の意見など聞きはしません。レアアースや貴金属は不足しているから価値が高いのです。レアアースなどその使用用途が見出されなかったころはただの石ころ同様でした。
日本の生産労働力人口は少ないのではなく足りません。不足は力をもちます。不足もまた力です。力でないものはありません。
権利の非行使
権利とは資格や能力のことでした。その能力や資格をもっていながらしない・行使しないというのは(ネガティブな態度ではあっても)意志の発露です。
たとえば殺傷する正当性も妥当な理由も機会も能力もあったとして、それでもそれをしない、権利を非行使するというのは意志の発露という意味では至上の権利なのかもしれません。
それは許しや愛であるかもしれませんが自然の摂理や理への反抗ではないでしょうか。条件次第では殺傷は自然な営み、必要悪、必然、当然、疑いないものであるかもしれないのにも関わらずそれをしないのですから。とはいっても相手はこちらの意思とは裏腹に、それを知ってか知らずか、みずからの生存のために抵抗し襲いかかってくるかもしれません。このように、非行使はときに自らの命をも危険にさらす命がけの行使となります。
意志や人格の尊重として、また死(者)の権利として、不名誉や汚辱をそそぐ自害を称賛するべきでしょうか。生死の権利があったとして、生きることは死の権利と、死ぬことは生の権利と対立します。ここに権利の非行使まで加わると生の権利を非行使して死ぬべきなのか、死の権利を非行使して生きるべきなのかややこしいことになります。
生きる権利の非行使は死ぬことでしょうか。
拍動や呼吸は無意識・自発的だから能力ではありますが、このような自発的な能力は権利ではなく、このような能力をどうするか、生殺与奪が権利です。
死なない、自死しないというのも能力の非行使であって権利の非行使ではありません。
生きる能力、生きる権利があってもなくてもそれとは関係なく、また苦しい生活を強いられて「明日も生きよう、生きていこう」とみずからを鼓舞して生きるひとはいることでしょうが、生きているものはことさら生きようとは意志しません。
生まれることは絶対他者依存、他動、他律で不可避ですが、死ぬことには自律で行使される可能性があります。
ひととして生まれたことはひとつの資格であり意思の発露で、自己の表現はその能力です。他律で生まれた不可避な過去をもち、自律で死に得る可能性をもちつつ現在を生きています。
他律による生の権利はなすがまま・あるがままであるため神的であり尊重され、自律の入り込む余地のある死の権利は生の権利に比べれば意のまま・わがままであるため神話的であり忌避されます。神話は自分の物語ではなく書き換えることもできません。
神は常に顕現するのではなく時折現れて禍福をもたらす。目に見えぬ災害や幸福として。しかもその権能を現したときには致命的。
本来は法ではなく権利を守る・遵守することを義務といいます。権利の行使の有無よりも権利意思を秘めているかどうかの方が重要で、死なないこと、殺さないこと、そうして他者(権利)を尊重することが最大の義務ではないでしょうか。
〈われわれ〉の同一性が構成される仕方こそが、誰が〈異者〉であり、どのような差異が〈われわれ〉と〈異者〉を隔てているかを決定するのだ。(中略)バリバールはまた、「すべてのアイデンティティは視線である」とも定義する。それは他者を見る方法であり、とりわけ自分が見ている他者のまなざしをつうじて自己自身を見る方法である。
『国家とは何か』p.259
権利が描き出す人間性があり、それに導かれる意思や人格というものもあり、またそれを通じて自己を見つめるということもあるでしょう。
そこへいくと生死を他人に決められる、生命を危険にさらす自律も他律も蹂躙する核や戦争などは生死の権利どころか権利自体を毀損し、義務ともなんの関わりもない、というのは「守るため」「殺さなければならない」「犠牲を減らすため」「勝たなければならない」といったあらゆる正当性・必然性・必要性・信憑性・目的ともなんの関わりのないものとする、文字通りあらゆるものを破壊する行為です。
能力の行使と権利の行使とを混同してはなりません。能力の行使が権利の行使として口実として使用されやすいのは、逆説的にそれは混同されやすく妥当だと見なされやすいために指導者に利用されやすいからです。
許容の傲慢
普遍の権利や倫理、行動規範、なかでも生命の安全と尊重を神に求めたのですが、神同士が衝突し教団内部でも対立が生じてむしろ争いや死を呼び込んでしまいました。他神を理解して他教の教理を受け入れようとの試みもいくつかはありましたが、恒常的なものとはなりませんでした。
「受け入れる」も寛容も許しも上からの物言いでここにはすでに自分は正しく正当で相手は違っていて不当・不適切だという傲慢な心理・無意識がはたらいています。歩み寄っているようでいて無意識に見下しています。
時に神にも似た慈悲深さを見せ、時に天罰の如き残虐さを見せます。これは目線が相手よりも高く、いざとなったら支配し意のままにできるとの打算や優越感のもと、相手に対して神の視点・神の視線をもってしまうからなのでしょう。
逼迫した問題の前では発言力が増し意見や主張がそれまでとは比較にならないほど通りやすくなります。この暴力は価値をもち目的となります。
国が民衆を保護するのは結果的なものであって実際は徴収のためでした。徴収するという目的のために囲い込むという手段がとられました。この現象に対しひとは意思・人意・人為をはたらかせて保護させるという目的のために納税という手段をとっているのだと目的と手段とを転倒させました。とはいえ依然として国家からしたら徴税が目的で民衆からしたら保護が目的であることに変わりありません。
ちなみに納税を義務としているのは日本や韓国、中国やロシアぐらいでその他多くの国では納税は権利とされています。
近代以前の農民にとっては保護されている意識は低く搾取されている意識の方が圧倒的に高かったことでしょう。それでも領地や荘園の内にあるので野盗や他領に蹂躙されず今よりひどいことにはなっていないだろうということもあり、仕方なしの現状の受け入れ、諦観をもっていたことでしょう。このころにはまだ権利や義務という概念はなく、規則運用も曖昧で農民は従うより仕様がありませんでした。近代になり農民や民衆が力をつけていき権利や義務も発明され、おそらくこのころに憲法や法律を起草し明文化するときに決定的な転倒が起きたのだとおもわれます。
転倒は一つのつまずきにしてメルクマール。転倒・逆転は立場を変えて考えるアウフヘーベンの前提です。
いつか普遍の常識になるか
9条は暴力に対抗する世界的な権利となり得るのかもしれませんが、現在はあまりにも実効性がありません。それこそ行政権の侵犯を許した状態になっています。現在の9条は世界共通の理念・権利とはなっておらず、そのために現実味も実効性も実力もなく、ただいたずらに国防や国力を貶めているだけです。
もっと大きく兵器全般とするか生存から権利を構築していくか、いや反対にスモールステップでもっと小さな傷害や罵声から、とにかくなんでもいいので共通普遍権利をみつけ、それがあることを示し既成事実から地歩を固めていった方がいいのかもしれません。
わたしたちは歴史や制度を超えた何かを求めないようにしようということだった。(中略)連帯は、あらゆる人間存在のうちにある自己の確信、人間の本質を承認することではない。むしろ連帯とは(中略)わたしたちとはかなり違った人々を〈われわれ〉の範囲の中に包含されるものと考えていく能力のことである。(中略)人間存在そのものに道徳的な義務を負うというスローガンを受け止める正しい仕方は、このスローガンを〈われわれ〉という感覚をできるだけ拡張していくことを思い起こさせてくれる一つの方途とみなすことである。(中略)わたしには、人間性そのものとの同一化は不可能であるように思われる。
『偶然性・アイロニー・連帯:リベラル・ユートピアの可能性』[第九章 連帯]リチャード・ローティ
歴史や制度と同様に普遍も求めず、せいぜいがスローガンに留め、普遍を有益に利用するとするのならば〈われわれ〉の輪を広げ共感を拡張していくことです。
普遍の確立、常態化、常識化はカントやニーチェ、ローティによっても否定されるのですが、何十年ものあいだ毎日、神の御業を目前にしながらも不平不満をこぼし、奇跡的に生き延びてこられたというのにその教えに背いて鋳物の子牛を礼拝してしまうのですから、普遍を求めないことはそれを求めることと同様に困難で同程度に抗い難き誘惑なのだとおもいます。
まだ〈われわれ〉ではない人々の被る残酷さや痛みにも思いを致し〈われわれ〉を拡張するには、底辺事例を知り、それを自分や自分の家族、つまり〈われわれ〉への残酷さ、〈われわれ〉の痛みとして感受し共感能力を発揮することでしょう。そうして最低(限)を見定め〈われわれ〉を拡張して底上げし、連帯の新たな歴史や制度としていく運動・対話を続けていくのです。
それはたとえ人間が宇宙へと進出し、重力から解放され、第六感が開き、誤解なく瞬時に伝わる共感能力を得てもなお続けられることでしょう。
強情力
影響力も力です。ですから他を圧倒しよう、他領域を占領しようとする傾向があります。
影響力も暴力です。見えづらかったり直接は見えないものですが市場にも政治にも感情にも作用する暴力の中でも強力なものです。
対話の不足は逆方向への影響力として発揮されます。それは問題の先送り、無視、認識不足であるので問題を熟成させて深刻化させます。対話の不足は問題への肥料となり大きく育てます。肥料のやり過ぎともなると肥料焼けを起こして枯死させます。
自殺やいじめ、労働環境に宗教の問題など、進展させたのは暴力であることを否定できません。残念ながら暴力は有効です。「日本死ね」の声は国を動かしました。 モラルが上がったのもあるでしょうが情報が広がりやすくなったことが大きな要因です。
エコや労働環境、人権など、たとえその声が貧者のものであっても無知者のものであっても、そもそも匿名性の高いSNS上では個人の属性もアノニマスなので人格にではなく言葉が力を持ち、その無名の誰かの声が株価や不買などに影響し抑止力となります。
情報も共感も姿の見えない強大な力です。それは善でも悪でもありません。豊穣の神や愛の神がいる一方で戦の神や破壊の神もおわしますから。その振る舞いは神の戯れのようです。



