笑える人。笑えない人。笑う人。
フランク・ミュラーが特許庁に対し「フランク三浦」の商標登録取り消しを求めた裁判において、フランク・ミュラー側の訴えを退ける判決が下されました。
おもろかったらそれでええんか?
この判決に対してわたしはつよい憤りを感じております。
それに反してニュースなどを見ておりますと「フランク三浦」側のディンクスの勝訴に対しおおむね好意的な意見がおおいようです。
面白くない人
今回の件と似た事案として「面白い恋人」を思い浮かべる方は多いことでしょう。こちらの訴訟は和解ということで決着しましたが、「白い恋人」側の石屋製菓は全面的にそれでよしと思っているわけではありません。
笑いがとまらない広告戦略
「消費者は間違えないから」ということを前面に押し出しても「他者のブランドイメージへのタダ乗り」に関しては払拭できないでしょう?
広告の影響力の大きさを鑑みれば、はじめの一歩、話題を作りひとの耳目を集められればどれほどの利益を上げられることか、容易に考え及ぶでしょう。
しかもこのような広告戦略は安価簡便ときています。
その広告効果が予想外のものであったとしても、そんな事態は「寝耳に水」などと弁明したところでガキの言い訳ほど白々しいものです。
限りなく黒に近くとも、ぎりぎりグレーゾーンであればその商品が売れた後に賠償すればいいですし、仮にその賠償額によってマイナスとなってしまったとしても、販売停止にさえ持ちこまれなければ、(そしてまたぎりぎりグレーゾーンですから裁判となっても長引き、標的となってしまった方も費用対効果を勘案してたいていの場合、和解に持ち込まれて販売を止めさせるというところには行き着けません)販売さえ再開できればもうすでに話題の広告効果は十二分に得られておりますから後々負債は回収でき、その後継続して利益を上げ続けられます。
往々にしてこのような騒動で標的となってしまった企業も意図せず広告効果が高まり利益を上げることになりますが、「どっちも儲かったんだからそれでいいじゃん」で済ませますか?
双方納得しているのならそれでいいですが、ある日急にブランドイメージを犯すものが出てきて一方的にイメージの変更を迫るのですよ?主客でいえば客にあたるものに、招いてもないのにずかずかと土足で家に入られてあれこれ指示されるようなものでいい気はしないでしょう?
儲かればいいの?それを至上命題としている方にはそうでしょうけれど、そうでない方に「儲かったんだからいいじゃないのぉ~」と、ひとの価値観を押しつけられているのに?
もっとひどいのは「儲からせてやったんだから感謝しろよ」と人の褌で相撲を取っておいてたまたまうまくいったら恩着せがましく大きな顔をする者もあるということ。うまくいったときにはみずからの行いが善行であったかの如く振り返るなんとも迷惑でおめでたいことか。
言ったもの勝ち、やったもの勝ちのモラルを貶めるような行為も弱肉強食の旗印の下に正当化していく社会が気持ち悪くてならない。
rumorをhumorと言い張って隠蔽し知らぬ存ぜぬ思いも寄らぬであとは笑いで押し切る。そんな目は笑っていないつくり笑いの社会が不気味で笑えない。
ユーモアの勝利?
「フランク三浦」はフランク・ミュラーのイメージを、その語感をおおいに利用しています。
「見分けられる、消費者は間違わな」ければいいの?
フランク・ミュラーがこれまで構築してきたブランドイメージわい!
「パロディやん。ただの冗談ヤシおもろいからええやん。」
おもろかったらえんか?おもろがって笑てるのんはあんたらで相手方は笑てないけどええのんか?それでもおもろいか?そらさぞ高笑いなことやろねぇ。
この件に関してコメンテーターのなかには「それぐらいいいじゃない」「笑いが勝った」「本家さん冗談になに本気になってんの?」などとコメントされる方もありますが、それはあまりに身内贔屓というものじゃぁありませんか?
自分たちがおもしろかったらみんなおもしろいの?相手方としてはおもしろくないから訴えられたのでしょう?
笑いに過ぎない商売
相手方の築いてきたものにタダ乗りしてることに変わりはないでしょう?
「こんなもん売れるわけがない。冗談のつもりでつくってみたったわ。」
売れるか売れないかは予測できないものです。趣味でつくってみましたというものであるんならなんともおもわず笑えますけれども、売っちゃってますから。おもちゃだろうと粗悪品だろうとだれかが苦心してつくりあげて誇りとしているものを後からちょっとつまんで笑ってるって、嫌悪感しかもてない。
お笑いで作った時計に過ぎず、正当な判決だ
お笑いでつくったんなら売らなくてもいいじゃない?「ほら笑ぃ~おもろやろぉ~」って無料配布しましたっていうのなら大いにウケますけれどね…売ったったるやん!下心も打算も持ち合わせとぉるやん!
正当な判決?
裁判所の判決では、両時計を区別するものとして外観や値段をあげています。
でもそれ変じゃない?
「三浦」と漢字表記されているから見分けられるって、距離感大切なんですねっ。近くで見なければ認識できませんから。
2mほど離れたところからみたら「どうもあれはフランク・ミュラーのようだ」と視認できる方は多いでしょう。でもそれがほんとうに「フランク・ミュラー」なのか「フランク三浦」なのかまで識別できるひとは少ないんじゃあないの?
視認認定距離はいかほどですか?遠くからみたら識別できないけれど近づいたら見間違えることがなければよいというのであれば、なぜバッタもんのシャネルやグッチはダメなの?
昨今の欧米での漢字ブームに触発されて本家フランク・ミュラーがあの独特の文字盤に数ある漢字の中から「三浦」の字を選んで使用することはないとなぜ言い切れるの?
値段は酷似の基準となるんですねぇ~値段は見えないのに。
見えないもので区別するなんて双方の類似度はなにを見て判断しているのでしょうねぇ?
必至の笑い
本家との棲み分けができていて相手方の購買者を奪い利益を圧迫しなければそれでいいの?知的財産のイメージも保護対象だとおもうのですが、そんなのもぜんぶひっくるめてお金の問題ですか?
京都や奈良など観光地でお土産品として売られているパロディ商品もそうですが、笑いが目的なら、パロディが目的なら売らなくてもいいでしょ?
笑いを盾に生活賭けて販売していても「お笑いに過ぎない」のですかねぇ?
訴訟などで勝つために、またよい暮らしをするために、裏では険しい形相していて表では笑って笑いで押し通そうと必至になっていませんか?その笑顔ほんもの?ビジネス用?
お堅いことを言いたいわけではないのです。パロディおおいに結構。おもろいことwelcome。ただし商売絡んでなければ。
売れたもん勝ち。売ったもん勝ちでいいの?
落胆を隠せない
かつて日本もコピー大国でした。生産力や経済力を伸ばし近年その汚名を雪ぐことができたとおもっていたところのこれ。中国のパクリ文化批判できないわぁ。時代遡行してパクリ大国日本へと回帰していくことを知らせる狼煙みたいだと感じました。
日本人の立場から見ますと今回の「フランク三浦」の件については歓迎されること、喜ばしいことなのかもしれません。
しかしスイスの方はどう感じるでしょうか?
もしわたしがフランク・ミュラーの関係者ではなくともスイス人で「フランク・ミュラーの敗訴」を聞いたとしたら、間違いなく日本に対してすくなからず懐疑心を抱きます。
日本の一企業がフランク・ミュラーにのっかったコピーのようなパロディなオリジナルの商標登録を出願しました。というところまではまだ静観し、なんなら微笑ましくおもったりなんかするかもしれません。
その後、その申請が受理され、それに対しフランク・ミュラーが抗議したところその商標は無効となりました。と、ここまででもまだ「あぁ日本はまともな判断するなぁ」とおもったことでしょう。
しかしこの商標無効の取り消しをディンクスが求めたところ日本の知的財産高等裁判所はフランク・ミュラーの敗訴を言い渡したのです。
これ、おもしろいですか?
スイス人な私
この件に加えて私こと【スイス人私】が「面白い恋人」の件も事前に知っていたとしたらどうおもったことでしょう?
きっと「国内での商標争いでは外貨が稼げるわけでもないから和解の方向にもっていったけれど、今回は海外企業が相手だから国内産業の守りに入りやがったな!これまでいいイメージもってたのに日本の知性、日本人の品性あやしいわぁ。やっぱり日本も守銭奴かぁ~あさましいぃ」と、裁判の経過や事実とは関係なしに、おおむねそのように感じたことでしょう。
当初シャレでつくって
売れ残ったら知り合いに配って回ればええやんぐらいのノリ
のものがウケて売れて本家に訴えられたら迎え撃つて言うてることむちゃくちゃやな…。都合よすぎじゃない?
ニッポン、おまえもか
東洋の魔女がバレー界を席巻し日の丸飛行隊が飛翔し、柔道や体操などでも日本人選手の活躍が著しかった頃、これではいけないと外国勢の施した措置は自国チームの強化育成…のほかにルール変更でした。
その度に対策を練り練習を重ねる日本人選手の姿はけなげだなぁと感動するとともに、きたないやり口に憤りを覚えていたものでした。
オリンピックの柔道の判定が背中がついたかどうかを重視するなんだかレスリングと見分けがつかなくなってきたころからオリンピック自体みなくなってしまいましたので、現在はどのようなルールなのか?どんな様子なのかわからないですけれども、どこかで日本は、日本だけはそんな風潮に流されないよね?と信じていたかったところのこれ…。しかも多くの日本人が笑ってる…。染まってる…。
笑いはいつからそないエラなってん?
「どや、わしの時計フランク・ミュラーやのうてフランク三浦や。おもろいやろ。」
なにがおもろいねん。
と言うと「おもしろさはひとそれぞれ」と反論される方もあるでしょう。
それならそっくりそのままそのお言葉お返しします。
「おもんなさはひとそれぞれやろがいっ!どんだけ自分本位の笑いを押しつけてけつかんねんボケェ~!」
…と、少々熱くなりすぎてしまいましたが…
いじめっ子の「いじめている気はなかった。ただちょっとちょっかいだしていたという感覚だった。」「ほんのかるい気持ちで…」というのとおなじようではありませんか?
ハラスメントは本人の意図ではなく相手の意識に依るものでしょう?それなのにずいぶんと自分本位な笑いだこと。なんともハラスメントな笑いだこと。
大阪人ハラスメント養成所
「大阪人だから面白いだろう」という大阪人ハラスメントなるものに対して「大阪人のみながみなおもろいわけではない」と憤りを感じる大阪人もいらっしゃるわけですが、「フランク三浦おもろいやろ」の土壌では、おもろい市場のおもろい至上主義を是としているのでは、それは致し方ないことなのではないかとおもいます。
大阪人ハラスメントを縮小させるには笑いの権威を多少は押さえ込まなければならないのではないかとおもわれます。
笑って丸く収めるために
ムスッっとしているよりニコッとしている方がいいです。
怒りよりも笑顔で過ごせる日々の方が望ましいものです。
ですが、そのとき笑っているのはだれですか?
笑えるのはだれですか?
もうすこし笑いの対象への配慮があってもいいのではないかとおもうのです。
たしかに笑ってすむこと、笑いですませられることは思いの外おおいものです。そのことをまだ多くのひとが知らないだけで。
でもね。自分が笑えること、自分が笑うことでだれかを笑えなくして、笑わせなくして、笑わないようにしていることもあるんですよ。
こんな笑ってはすませられないことも笑ってすまそうというの?
おもろかったらそれでええ。
笑いはいつからそんなにえらくなったんですか?
笑いは黄門様の印籠か?「これ見せといたら四角いもんもまぁ~るくおさまりまっせぇ~」ですか?
わたしの主張
この件に関してわたしがもっとも言いたいことは「だからフランク三浦は時計販売を止めろー」だとか「裁判所の判断は間違っているー」だとか「日本人の民度が疑われる-」だとか、そういった特定の個人や企業や組織に向けられるなにかではありません。
わたしが言いたいのは、お金のしくみといいますか、人がお金にもたせている特徴がおかしくありませんか?ということです。
お金の使われ方、価値というものの変化ひとつで解消される問題は多く、今よりもっと笑えるひとが多くなるのではないかとおもうのです。
こちらもいかが?