あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

道徳の淘汰説

それは事実か道徳か意味か

 初期の人類は共食い、カニバリズム・アントロファジー、つまり食人傾向があったそうです。

 死肉は逃げませんし抵抗しませんから容易に手に入るでしょ?これは非常時に限らず常時おこなわれていたようです。

 

意味になる事実

 近年の研究で、人類はスカベンジャーで脳の発達は動物の髄液を摂取するようになったからだといわれています。(遺伝疾患罹患者おおそうですね。)

 

 餌となりうるもの、たとえば死体などを住処の近くや生活圏に埋めたり燃やしたりせずに野ざらしにすることは、ネズミを誘因して生活圏が脅かされます。

サバイバル

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  • 作者: さいとう・たかを
  • 出版社/メーカー: リイド社
  • 発売日: 2010/11/01
 

 

 このような事態を避けるために埋葬するようになったのではないでしょうか?

 このような埋葬行為の本来的な理由は忘れられて、後に道徳的な理由を付されたのではないでしょうか?

 

 現代のお祭りや御祓いも、その理由や起源はほとんど忘れられているでしょ?

 知っているひとがいてもごく少数。

ヒトはなぜヒトを食べたか―生態人類学から見た文化の起源

ヒトはなぜヒトを食べたか―生態人類学から見た文化の起源

  • 作者: マーヴィンハリス,鈴木洋一
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1997/05
 

 

生存事実の意味

 うなぎの背中が黒いのは紫外線から身を守るため。

 おおくの魚の腹は白く背は紺で、青い光しか届かない水深のやや深いところでは赤い体色の生き物がみられます。

 このような特徴は、はじめから外的からのカモフラージュを意図した保護色戦略をとったためであったからではなく、光量によりそのような体色をもちやすく、そのような体色をもった種が生きのびやすかったということです。

 

 黒人の手のひらは白く甲は黒いですが、意図的にそうであったのでも、つよい意志によってそうなったのでもないことと同じこと。

 生物の色戦略と見られているものは、その生物種の発生起源の環境と、それによる変化・継承される遺伝によるもので、生物自身の意志によるもの・戦略と考えるべきではないところがあります。

 

 保護色は意志の発現ではなく淘汰の現れ。

 

 種の保存など、あらゆるものはそのような意味・目的があってそのような事実があるのではなくって、そのような事実が意味となっていったのです。

 

進化と事実

 進化という語に「よりよくなる」という意味を含ませているひとを多くお見かけしますが、たしかにそれは環境に適してはいますが、適しているものが残ったのではなく、残ったものが適していたのであって、適するという意志的な活動ではありません。主客転倒しています。

 

意志に従わない

 進化が意志的なものであるのなら、人類の歴史がそれほどながくはないとはいえ、そろそろ出産時の痛みが軽減されてもいいじゃありませんか。

 また尾骨や盲腸など人体には不必要なものやより効率がよくなる(生産コストを考えると)と考えられるものがあります。

 ちいさなことかもしれませんが、これらもより集めればそれなりの非効率ですが、それを意志的に改善できませんし、善処しようという意志の現れがみられません。

 

 人体が今以上に効率のよい構造を獲得したとしてもそれが生き残りに適するかどうかは別問題です。

 まったくとはいいませんが、恐竜の絶滅や自然災害などの例を鑑みますと、(巨視的にみますと)効率がいかほどの役に立ってきたでしょうか?

 

進化しすぎた感情

 有性生殖において、母と子、それぞれ個々の個体は生きようとします。というより生きようとする種だったから今日まで残ってきました。

 

 母子間の出産後の妥協点として、母の側に子を慈しむ感情を持つ個体がでてきて、その種が結果的に残りました。別の言い方をすれば成功しました。

 当時においては言語もなく、慈しむも感情といったようなものもなかったでしょうが、後にそう名付けられ、そう呼ばれるようになった反応が継承されてきました。

 これはまさしく進化する感情。淘汰される感情。進化しすぎた感情とも呼ばれうる事態ではないでしょうか?

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線

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 ただしそれはそのような傾向があるというだけのこと。

 有性生殖では多様な形質が生じるため、子を慈しまない・慈しめない母も当然いるでしょうし、そうでない方が不自然な気がします。

 だからといってそれでよいといっているわけではありませんよ〜。

 

人倫にせまる命題

 よわい道徳は蹂躙されます。

 道徳の強度は物理的な実力や頭数などに射影・写像されています。

 ルサンチマンの弱者の道徳が一般的な道徳となったのは頭数のつよさによるものでしょう。

 

 昔のタン壺など今では考えられないことですが、当時は今より大気汚染がひどく、結核予防のガイドラインにそった、多少は仕方のない面もあるでしょうが、女性が使うことはほぼなかったのですから、タン壺の普及は腕力や家父長制、男尊女卑など、女はダメでも男は許されるという男社会での男みずからが自らに与えた贖宥状によるところもあるのではないでしょうか。絶対必要だったとは言い切れないのではないでしょうか。

 このことから、道徳的な行為もつよさがともなわなければ空理空論にしかならないのではないかとおもうのです。

 経済社会に反対し、そこからはなれようとしてもその道徳は侵食されて道徳とはならないでしょ?

 

 善悪が確立されないのはそれが人・社会・習慣・慣習・歴史などによってつくられた、いわば人工道徳であり、根拠のないものだから。

 

 道徳は無自覚に運用されているのがよい。道徳の根拠を留保したまま…。

 

 道徳の構築、人類の生存理由の構築が、人類の至上命題なのかもしれません。

カニバリスムの秩序―生とは何か・死とは何か

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  • 出版社/メーカー: みすず書房
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