読点問題
読点乱打
文字数の指定されている作文でよくみられる問題の1つに読点問題があります。
作文が苦手だとどうしても文字数稼ぎたいから、やたらあちこちに読点乱打してしまっていませんか。
読みづらくなるだけでさして字数稼げないことをわかってはいても…。
読点の打ち時
読点乱打は控えたとして、次なる問題は当の「読点いつ打ったらいいの?」問題が待ち構えています。
読点は意味を明確にするためだったり読みやすくするために打たれるものです。
そしてその読点には(すこしはあるけれどもね)たいてい正解も不正解もありません。
ですからこ、んなとこ、ろに読点を打、ってしまっても、あとはなにかしらの「効果をねらって意図して打ったものです」とでも言い張ればよろしいでしょう。
なかなか読点打たないから1文がなが~くなってしまって息継ぎさせてくれない窒息してしまいそうな文を書くことでも知られた大学総長さんもいらっしゃいました。
大人でさえこうなのですから、あまり気にしない気にしない。
そう言われても不安だと言うなら、こんなのどう?
読点は読む点
詩は言葉。言葉は歌。
歌うようにブレスいれてみたらいいんじゃないのかなぁ?
ごちゃごちゃ細かいこと考えるのは面倒だし、あれこれ考えながら点打ってたんじゃあ書いている時にリズムに乗れないし、読む方もリズム削がれるだろうから、ここはいっちょこんなんでどうだ?
読点は読む点なのだから、読んでみて息継ぎしたとこに打っちまえ。って、これ受け売りなんだけどね。
でもどこかもっともらしい感じがするでしょ?
この考えちょっとお気に入り。
ついでにこんなことも…
「おまえ(←わたしのことではなくね)はおしゃんべぇ(お喋り)なのに書くってなると筆がすすまんなぁ。なんで書き言葉で書こうとするだぁ?もっと話すように書きゃぁええだよっ」ってね。
言葉づかいはまぁあれだけども…いいとこつくひとでしょ?
言の葉
読点をもつ日本語文章は読経における抑揚を教示する経文に付された符号か楽譜のスタッカートか、それよりも雅楽の譜面かな?なにかそのようなもののようで、伝達・通信よりも音楽に近い感じがします。
宗派によっても微妙に異なる読経の声。青果市場などで聞かれる競りの声。さきほどまであれほど怒っていたのに電話に出た途端かわる声。
日本のように職業や生活環境によってこれほど多彩な発声をされる一つの言語が他にあるでしょうか?音楽の都といえばウィーンですが、音声の都なら日本と言ってしまってもいいのではないかな?オノマトペも豊富なことですし。静寂に「シーン」という語をあてる手塚さんとかすごいじゃないですか。
観光立国を目指しているのなら他で使われる前にいち早く言い張ってしまって既成事実つくっておいたらいいのに。
以前、といってもそうとうな以前。
あれは谷村新司さんだったとおもうのですが、テレビで歌うときのコツを聞かれて「歌おうとせずに話すように、語りかけるように歌うといいですよ」というようなことをおっしゃっていたと記憶しているのですが、それにかけまして、作文のコツは「書こうとせずに、歌うように書くといいですよ」と言い添えてみます。
わたしのように歌うのが苦手な方はこれまで通り、話すように書くなり、書くように書けばよろしいかとおもいます。
呼吸操作
なぜかはわからないけれどとても読みやすい文というものがあります。その読みやすさの要因はさまざまあるでしょうが、そのひとつに、それもそういったもののなかでは最も気づかれにくいもののひとつに“読点“があるのではないかとおもいます。
息の届く距離。息の近さ。
読点は読む点で息継ぎの符号だとしたら、読点が合うというのは作者と読者の呼吸が合う、息が合うということなのかもしれませんね。
はじめはバラバラに動く振り子がそのうちシンクロしてしまうように、ピタッと。
お気に入りの作家さんがいるというのは、その作家さんと呼吸が近いのかもしれません。となると好きな声優さんがおられる方はその方と呼吸が近いのかな?
漫画や小説に登場する好きなキャラクターというのは、彼らは実際には声を発しないわけですから、文中の読点、つまり作家さんの想定する呼吸や読者が脳内で思い浮かべているキャラクターの息づかいがマッチしているということかな?
呼吸転換。気分転換。
呼吸はそのときどきで速さや深さが変わりますから年齢や心理状態によって合ったり合わなかったりすることもあるでしょう。
再読してみたらその本に対して抱いていた印象が変わったという話はよく聞かれることですが、それはみずからの人生経験や知識、生活環境や状況が変わったからということもあるのでしょうが、呼吸が変わったからということもあるのかもしれませんね。
おなじ作家さんでも、また1冊の本においても、緊迫した局面では矢継ぎ早に、沈思黙考独白シーンではまったく放たれなかったりと、場面によって読点の打ち方が変わります。
これには呼吸を合わせるとか呼吸が合うというよりも、作者による呼吸の操作、そしてそうすることによって感情の誘導を施しているのかもしれませんね。
動作をマネると親近感をもたれるという手法に似て、催眠療法や洗脳などの手法のひとつに呼吸を合わせるというものがあったかとおもいます。しかも呼吸を合わせるということの方が動作をなぞること以上に相手に気づかれにくく、またその効果が高いといわれているとおもうのですが、これは記憶違いかな?
後に控えるはたいしたことのない1節です。
息合ってる?
わたしの言い回しは千鳥足で「クセがつよいっ!」ものとおもわれます。これまでずぅっとこれできてしまったので、これが当然のものと、本人に自覚ないのですけれども、おそらく他人様がこの文を読んだらそう感じられるのではないかと思っております。
なかにはわたしの読点、わたしの息づかいに違和感を覚える方もあるでしょう。「この点いるぅ?」「なぜここで点打つかなぁ」といった具合に。
普段ろくすっぽ考えずに書いているときはテキトーに点を散発しておりますが、“ちゃんと書いたもの“は読点ひとつ、その打ち所ひとつでも気にします。
本文は書き上がっていても「打つべきか打たざるべきか、それが問題だ」と、わずか一点に画竜点睛かの如く(←これは言い過ぎですけれど)2・3日かかずらってみたり、「こっちに打つべきか、はたまた引き返すべきか」と、ルビコンを渡るが如く(←これも言い過ぎですけれど)1月ほど気がかりとなります。
相性診断
話題として取りあげる内容にそれを表現する言い回し。さらにこれらに加えてこうまでしてついた息が合わないとなると、いよいよ気が合わないこと歴然。
わたしとの相性はこちらの文ではかれます。
とは申しましても、わたしの呼吸がこの文を書いた頃とは異なり、あの頃のわたしと今のわたしとで息が合わず、自己乖離・自己嫌悪を引き起こすほど相性が悪くなっているかもしれないということはなきにしもあらず、否めません。
タイトル乱舞
こんかいの記事タイトル『読点乱舞』はお察しの通り、今巷で人気沸騰中らしい『刀剣乱舞』をもじっております。
はじめはまったくそのつもりはなく『読点乱打』だったのですが、テレビで刀女子なるものが増殖中で、その発端が『刀剣乱舞』にあるそうな…という情報が「乱打」と「乱舞」の音の近さから呼び起こされ、さらに「乱舞」の方が「読点Love」にも近くていいなぁという理由は今、書いていておもいついたものですが…結果『読点乱舞』にしてみました。
刀を擬人化することと、読点の打ち方に感情やキャラクターを反映させるというような近似もあって「乱舞」の方が「乱打」より適しているともおもったのです。というのも今、書いていておもいついた後付けの理由です。
今回も話がおわりそうでおわらない文の連なりとなってしまいました。
こうして舞いに舞ってなかなか話を締め切らず、これこそ乱舞というもの。
ということで、これにておしまいっ。