まだそれを報酬と呼ぶの?
報酬と発展
発展が大切だと言われますが、発展につながっていないばかりか、ときに発展をさまたげているような発展(もどき)の事象が起きているのではないかとおもいます。
発展という言葉と相性がよくイメージしやすいのは電化製品ではないかとおもうのですが、画期的な機能を搭載した製品がつくられたとします。
この製品は普及していくのですが…ここに罠、普及と発展の罠が隠されているのではないかとおもいます。
発展に足枷する販売戦略
画期的な商品であるから普及していくことになんら不思議はありません。が、その製品を開発した企業としてはこのときなにをおもうでしょうか?
「更なる利便性のため、ますますの発展のために新たな商品開発に心血を注ぐぞぉ!」となりますか?
人の心は移ろいやすいですから、次々と新商品を開発していかなければならないでしょう。
それでもそのとき一番に考えられることは、機会損失を小さくすることではないでしょうか?
需要が高まっている中、より安価に大量に安く在庫不足に陥らないように、その商品の製造ラインの効率化や開発に目が向けられるでしょう。
これも一つの発展と言えば発展ですけれども、その商品自体の発展ではないでしょう。
実用新案や特許などを取得し当分の間、寡占状態を保てるのであれば、仮にその商品の新たな機能・技術が開発されたとしてもすぐにそれを組み込まないでしょう。
需要があって売れるときにできるだけ売っておき頭打ちになってきたかな、あるいは特許などによる保護期間が近づいてきたとき、そのとき温めていた機能を搭載させた新商品をリリースするという販売戦略がとられるのではないでしょうか?
既製品が普及していくなかで新たな発展を遂げていたとしても、その新商品が世に出ることで既製品が売れなくなり在庫が残るであろうことが考えられるなら、意図して発展を遅らせ、劣るもの、新商品リリース後すぐに廃棄されてしまうであろうものを大量につくり続けるのではないでしょうか?
これって発展?
報酬しだいの発展正当化
普及させて利益をあげなければ新たな研究開発費を捻出できず発展が妨げられるというのが実情であることは重々承知していますが、発展がお金しだいというしくみがもう時代に合わなくなってきているのではないかともおもうのです。
ここで一旦飲食業に目を転じてみます。
流行る飲食店、長く愛される飲食物があるわけですが、これらは時代や年代などにあわせてすこしづつ味つけを変えて「変わらない味」を保っていたり、ウケる商品を開発していたり、化学の知識を利用した新食感や交配や発見による目新しい食材の創造といった発展を見せています。
Cooking for Geeks ―料理の科学と実践レシピ
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(これを味の発展と言うのかはわかりませんが)味の追求は効用をあげるでしょうが直接生死に関わることではありません。
新たな産業や雇用を創出するということはあるでしょうけれども、それによって特定産物ばかり栽培されたり、耕作地拡張のために環境が破壊されることもあります。それでも発展と言います。
生死に関わらない発展ですから豊かさの追求ということなのだとおもうのですが、にも関わらず影響力を増しまして生きる糧・生業とも成りますと、生死に関わってしまうことがあります。
発展や成長という言葉は優遇されすぎているのではないかとおもいます。
どうも発展による報酬、報酬の発展の方が発展の発展より優位にはたらくようですね。
無駄の効能
生死に関わらないものは無駄であるから反発展、反成長ということではありません。
ノームコアの普及
ジョブズさんやザッカーバーグさんなど、日々服装で悩む時間を省くために同じ服、同じセットアップを数組用意しておられ、彼ら成功者と呼ばれる方々を見習ってそれに倣う方が増えてきているそうです。
服装に限らず食についても、毎日なにを食べようかと悩むコスト削減のために同じものを食べている方や、月曜日はこれ、火曜日はこれといったようにルーティン化されている方もおられるようです。
同じ服を着用するというようなことをNORMCORE(ノームコア)と言うそうで、究極の普通を楽しむということなのだそうです。
普通が究極にまで敷衍したら「普通」しかないので「普通」という言葉も概念もなくなってしまいそうですね。
能力今昔。貯蔵技術の差。
そんなことはいいとして、ノームコアは時短そして決断場面を減らすことが主な目的なようですが、それだけ個人を逼迫する時間のなさ、そして個人に重要な決断を下さなければならない状況、日々そんなに追い込み追い込まれなければならない社会ってどうなの?
成功している人が毎日同じ服を着る「8つの理由」が、深かった・・・ | TABI LABO
世界の成功者たちが「毎日同じ服を着る」興味深い理由 | CuRAZY
古代人の赤ん坊と現代人の赤ん坊にどれほどの違いがあるでしょう?
古代の人が現代に生きれば現代人と同じようにその能力を発揮することでしょう。
古代の人と現代人との違いは「貯蔵」の差でしかないのではないかとおもいます。
道具の開発で食料を、文字の発明で知識を、貯蓄を次代次代につないでいった延長上に現代人があります。
現代人は脈々と受け継がれてきた恩恵によって、享受できる機会の差によって、古代の人より賢いとみなされているだけで、能力にたいして差はないとおもいます。
バイアス風呂敷でひとつつみ
今では種々の実験や9.11テロ後、自由を制限するところのある愛国者法が自由を第一義とする国アメリカで圧倒的な支持のもと可決されたことなどを通して、それは対応バイアスのかかった錯誤であったということが明らかにされましたが、かつては集団主義的日本人という見方がなされていました。
日本人は文化的に集団主義的とみなすことには自由主義的アメリカの標的としたいというバイアスもはたらいていたのではないかとおもいます。
日本人個々のひと色は透過処理されて集団主義的という一色で染め上げられる。
ただ発展という言葉の響きで対応バイアスの催眠にかかり(先人より賢いと信じ込んでいたり、根拠なくこういった人たちは共通してこのような特徴があると断定したりして)奢っているところがあるのではないかと感じます。
『僕だけがいない街』で藤沼佐知子さんの「後から自分のせいなんて思うのは思い上がりってもんだべ 一人ひとりの人間に出来ることなんて限られてるっしょ」というセリフがありますが、一人で決断しなければならないと思い込み思い上がっているところがあるのかもしれませんね?
また、一人の人間に出来ることを超えたことをしようとするのは脱人間、超人間、超人思想ではなく超人志向がそこに隠れているのかもしれません。
だから究極の普通でなくなる普通に溶け込んで人を超えてしまう。そんな考えがよぎりました。
固着するルーティン
パフォーマンス発揮のためのルーティンが昨今取りざたされ重宝がられておりますが、適用範囲の過剰拡張で曖昧と余白を圧縮しすぎてしまうとおもいます。
機械には(まだ)できない創造的な仕事をしようとルーティンで縛りつけては、創造的な機械、機械的な創造のようで、その創造は創造的ですか?機械が創造しているのですか?機械の創造、奇怪な創造?と感じます。
反対に、このことをおもうと人と機械の近さも感じられます。
食も服装も一からみずからデザインしたものではなく、先人がつくりあげたものの中から効率的なものを選択しているわけで、先人がなければどのようなものを食べ、どのような恰好をしていたのでしょう?
それではといってこの方達が新たな食や服装を開発しよう。とはならないのではないでしょうか?
みずからは他のことに労力を費やさず自らの分野に専心することでしょうから。
極限までコストだ無駄だといって削ぎ落とし、効率ばかりを追いかけるひとが増えてしまうと、それは文化の縮小、多様性の縮退をすすめるのではないかとおもいます。
究極的には文化を広げ多様性を保たなければならないということはないのかもしれませんが、窮屈で退屈で生きづらいものがあるのは確かなのではないでしょうか。
普通の雇用者の感覚
基本給が決められていれば雇用者としてはその枠いっぱいまで労働力を利用したいと考えるのは当然のことでしょう。
言うまでもないことですが、仮に月30万の固定給だとして、7時間労働20日勤務では時給換算300,000円÷(7時間×20日)=2,142.9円/時に対して8時間労働20日勤務では時給換算30,0000円÷(8時間×20日)=1,875円/時となり、1労働者にかかるコストが下がります。
これが何年、何十年、また何十人、何百人ともなれば莫大な額となります。
法定内残業と法定外残業では同じ残業でも割増率が違う | 市川社会保険労務士事務所
競争は不滅です。
資本主義は(社会主義よりは)個人の貢献や行動に報いるシステムであると好意的に迎え入れられ、これからもそれを推進していこうと考えておられる方は多いことでしょう。
貢献や行動に報いるという点で反対される方はおられないとおもいます。
しかし、その報酬が金銭でなければならないわけではないでしょう?
競う動機はいくつもある。生活かかっていなければ。
競争心・競争力が鈍化すると言われてしまいそうですが、小さな男の子の集団をみていますと、だれかが「50m8秒で走れるよ」と言えば嘘か誠か思い違いか、他の子が「おれ7秒で走れる~」と返します。
どうでもたいしたことのないたわいないことですが、本人たちは死活問題かのごとくいたってまじめに張り合っている場面を一度は目にしたことがあるのではないでしょうか?
将来なにかの役に立つわけでもないのに1等のメダルや賞状に固執したりして。
また『探偵!ナイトスクープ』などでたびたび現れる大人顔負け、専門家顔負けのキノコや恐竜といった、とても狭いけれど一点突破の強靱な知識をもつ幼いお子さんなどを見ていますと、金銭報酬のインセンティブの効用って(生活を抜きにして)なんなんでしょうと考えさせられます。
後生(後世)畏るべし。
程度の差はあるかもしれませんが、お金でなかったら競争なくなりますかねえ?
わたしにはお金で競争しなければならない理由をいまいち見いだせないのです。
生産力に乏しかった頃はそんなことは言っていられませんでしたが、これほど技術が発展しますとどうでしょう?
技術が不十分なときにはお金というインセンティブは巨大エンジン、強力な推進力となってはたらいていましたが、技術が満ちると燃料廃棄物処理が追っつかず目立ってきたようです。
2乗3乗効率化と意識との乖離
技術革新で労働生産性が向上し、人の労働の代替・置換が起きますと、求人数は減少していくでしょう。
さらにコスト圧縮を目指す企業側としては当然の方針、そこに人口増加も加われば、労働生産力と求人数は乖離していき負の相関を示すでしょう。
この相関はわたしにベルクマンの規則を思い起こさせます。
恒温動物において大型種ほど寒冷地に生息するという面積体積比より説明される2乗3乗の法則の一例をベルクマンの法則といいますが、1人あたり、または1機械あたりの生産力があがれば労働需要は低下するでしょう。
また生産性は雇用者数に比例して上がるのではなく、対数グラフのような曲線を描く生産力曲線、限界生産力逓減の法則といったものもあります。
3乗の現実に2乗、へたをすれば比例予測していたのでは、現実と意識との乖離は増ばかりでしょう。
2乗3乗の法則の一例がベルクマンの法則なので、2乗3乗の法則を思い起こせばいいのですが、そこはあれです、インパクトの差です。おっきなホッキョクグマーがまず襲ってくるものですから。
そこへもってきて「一億総活躍社会」。70・80代とみられる方が粉雪舞う中ずっと立ちっぱなしの過酷な交通誘導のお仕事をされているようなお姿を目にしますと、「一億総酷使社会」に向かっていませんか?と問いたくなってしまいます。
インセンティブ・チェンジ
報酬は目に見える金銭のような外的報酬と個人の達成感や満足度といった内的報酬の2つに大別されます。現代は外的報酬から内的報酬重視への過渡期にあるとおもいます。
ポイント報酬制
何十年か前に、お金にかわる取引ツールとして貢献ポイントのようなお金に依らない内的報酬による取引を提案されている方のメディアへの露出が、ほんの一時増えた時期があったようにおもうのですが、どこにいかれたのでしょう?
お金のない世界が到来するとしたら、それは徐々に段階を経て移行していくというのではなく、政治的なあれこれで一向に前には進まず、状況に追いつめられた大混乱の中、ほかにあてがなく新円切替のような急反転をみせるのではないかとおもいます。
そう予測しながらもソフトランディングの方が理想ですから、先行して生活に関わるベネフィットと効用に関わるベネフィットに二分化して、前者はこれまで通り貨幣で、後者は貢献ポイントやメダル、ポイントに応じて昇格する肩書きだけのクラスなどで報いるようにしたらどうでしょう?という案をだしてみます。
ポイント利用の一例
このポイントがただのポイントではインセンティブとはなりづらいですから、所属クラスによって取引券のようなものが得られる…
…では貨幣と同じですし、情報へのアクセス権ではセキュリティ問題や情報格差が生じるでしょうから、テーマパークなどにあるファストパスのような、行列に並ばなくても優先権があるといったような、なにかほんのささいな特権を付与し認知させてみてはどうでしょうか?
行列を横目にサービスを受けられるひとを見た幼いお子さんは「なんであのひとはちゃんと並ばないの?」と大人に聞いたとき「それはね。あのひとはいいことをたくさんしたからだよ。並ぶのが嫌だったらいいことたくさんしようねぇ」と情操教育にもなりませんかねぇ?
配給制のようなところもあって、あまりにも平和ボケ激しい牧歌的現実逃避型老羊子羊的妄想にすぎますけれども…。