反発の向かう先
競争は発展を促し、発展は新たな競争を生みます。
しかし発展は進むということと同様に必ずしも正や好を意味するわけではなく、陰陽あわせもちます。
陰極が強ければ電子をよせつけず他のマイナス面を斥けます。
陽極が強ければ電子を引き込んでマイナス面を誘因します。
電子の質量はとても小さいですが、その挙動はなにかを決定づけるほど大きな影響力をもつものです。
下ぁ~にぃ~下にっ。
むか~しむかし1980年代のことじゃったぁ。アイルランドが法人税を大幅に減税すると各国から企業が集まり、アイルランドの景気は上向いた。
それをみていた各国は我先にとこぞって法人税を引き下げたものだから、「底辺への競争」がおきましたとさ。
競争原理一般ではなく、現代社会の競争原理の問題点は成長・利益を強制していること。
競争が悪なのではなく、ねずみ講のようにシステムの閉塞・硬直性と限界が明らかで破綻必定、支配構図必至な利益第一主義の競争が悪なのではないでしょうか?
では、どんな競争が健全な競争なのでしょう?
労働と所有の権利
[以下引用はこちらのDepartment of Humanities - 豊田工業大学 人文科学研究室『ジョン・ロックの私有財産論-その批判的再構成の試み』からのものです。]
審判なき侵犯
資本金を125億円から1億円に減資する大企業や節税と言って法人税逃れを続ける多国籍企業。
素直に納税したら国際競争に勝ち残れないというのなら、その影響力を駆使して納税しなければ競争できないような法制に仕掛ければいいのにそれはしない。
自由市場?競争社会?
すくなくとも公平な自由市場でも公正な競争社会でもない。
審判者が侵犯者を兼務
「法に抵触しなければなにをしてもいい」では後に規制を増やして法が増え、法律書の紙幅を肥やして自由を制限するでしょっ。
主犯・正犯ではなくとも共犯で「自由の拡張」の逆をしてしまっているのですから私有財産の正当性を自棄することになってませんか?
ロックの私有財産成立の原則--人が労働を加えた物はその人の私有財産になる--を支える論理・根拠は、価値の創造と自由の拡張です。それらは労働ということの客観的意味と主観的意味と言ってもよいものであり、両方が備わって初めて私有財産を正当化できます。ですから、私有財産を正当化する議論は2つあるのではなく、正当化の原理はあくまでも1つであり、労働という1つの原理に客観的と主観的と2つの側面があると言ったほうが適切なのです。(p.58)
法に触れてなくてもrightを侵害してはダメでしょっ!
審判と侵犯の根
貨幣はモノに対して偏差値的な役割を演じます(←変テコな表現ですがニュアンスってやつです)が、その偏差値を算出するとき、貨幣の数値・価値、つまりその偏差値自身を組み込んでしまっているので、たいへん奇妙な値が出力されます。
はじめに算出された基軸となるもの、たとえば基軸通貨や金や銀などの偏差値Aを貨幣aの数値・価値として、今度はその貨幣aの数値を繰り込んで再計算。そうして出力された偏差値Bを新たに貨幣aの数値・価値としているような。
所有物が利用されず腐ったならば、その私有財産は正当ではない。利用されたならば、腐っても腐らなくても、その私有財産は正当である。腐らせなければ、利用しても利用しなくても、その私有財産は正当である。だから、私有財産の範囲条件は、「利用する」という要件と「腐らせない」という要件のいずれかを満たせばよいのである、と。(p.82)
「腐らせなければいいんでしょっ。」というところが、「貨幣がアンチエイジでなにがわるいっ。」という論法と重なってみえます。
機会のための必要腐敗
機会損失を避けるために多めに用意して結果廃棄量を増やしてしまっている現状。
モノに溢れているのに万人に公平に行き渡ることはなく、不足に喘いでいるひとがいるのにモノが廃棄されている滑稽さ。
リフォームや片付け、断捨離といって出るわ出るわで捨てられる何年も使われていない、そしてこれからも使われることはなかったであろう衣服なんかのモノの数々。
競争が革新ではなく既存システム内での出し抜き合いに偏重して、貨幣が交換機会を奪って間接的にモノを腐らせています。
「利用せず腐らせる」のなら私有の正当性失ってるんじゃないの?
利益のための必要悪・必要腐敗とみているのか、それをお金をまわして経済の健全を保ち健康をうながす発酵食品だと言い換え、言い張っているのではないか?
"よい労働"と"わるい労働"の分別
ややモノ不足状態でもいいじゃない。資源を浪費するMore is betterの豊かさ・贅沢から、資源を有効に活用するLess is moreやLess is betterな豊かさ、それを贅沢だと感じる感性、ミニマムなミニマリストな豊かさだってあるでしょうに。
ジェレミー(Jeremy)からミース(Mies)、ミースからピース(Peace)へ。
つまり、私有財産成立の付帯条件が満たされるためには、私有財産は他の人たちにとっても利用可能な資源を増やさなければならない、というわけです。(p.68)
私有財産・所有権の正当性は労働に求められてきましたが、どうもその労働の正当性と言いますか、妥当性と言いますか、労働の種類と言いますか…端的に言って「よい労働」と「わるい労働」とがあって、労働によって無節操無批判に、ただただproperty(固有性)を刻印していってもproperty(所有)の正当性は得られないのではないかとおもいます。
ここでいう「よい・わるい」というのはもちろん(主観的な)善悪のことではなく、(より客観的な)「腐らせない」「利用する」ということです。利用して腐らせず、利用できて資源を増やす労働はよい労働。腐らせて利用できなくなり、利用しないで資源を浪費する労働はわるい労働。
このように考えると、不正に利益をあげているひとたちが口にする「仕事・労働」と、まっとうに働いて収入を得ているひとたちの言う「仕事・労働」とを主観的で曖昧な心情的・道徳的なものではなく、客観的で説得的な基準に依ってある程度明確に仕分けることができるのではないかとおもいます。
これまではお金を基準としてお金を得ること一般を十把一絡げに一括りにして「仕事・労働」と呼んでいたところがあるのではないかとおもいます。
そしてそれを「仕事」と呼ぶことになにか違和感を覚えながらも「仕事」と言うことがあったかもしれませんね。
「仕事だから仕方がない」なんて自分に言い聞かせるようなときなんかは特に、「仕事」という言葉につっかかって「何か違う」と思ったことが一度はあるのではないでしょうか。
では何が違ったのか?
それは資源を利用せず腐らせ増やさない正当性を失ったわるい労働、善悪というより他者の権利、人類のrightを損ねることが容易に推察できるわるい仕事だったということではないでしょうか?
技術革新の招いた齟齬
所有権の正当性が労働にあるのなら、労働の正当性を批判的に再構成しなければならないのかな?
所有権の正当性がフェルマーの最終定理やポアンカレ予想の証明なら、労働の正当性は志村予想や幾何化予想みたいなぁ?とかいってみたりして。
腐らせてはいけないという主張の意味は、ものの価値を駄目にしてはいけないというふうに理解できます(Simmons 1992: 285-86)。
「腐らせる」という言葉をこのように理解した上で、依然として「腐らせない」ということと「利用する」ということとは概念的に異なります。そうすると、私有財産の範囲条件は、この「腐らせない」と「利用する」という2つの要件をどのように満たせばよいのでしょうか。両方の条件を満たす必要があるのでしょうか。それともいずれか1つの要件を満たせば足りるのでしょうか。ロック自身は、これら2つの要件が合致すると考えたようにも思われます。(中略)腐らせないためには利用するしかない、ということです。これによって、腐らせないけれども利用もしないという可能性が排除されます。(中略)人間心理の問題として、(腐らせないけれども)利用もしないような私有財産を労働によって獲得する可能性を否定しているわけです。そして私有財産を利用すれば、当然、腐らせないことにもなります。(p.79-80)
農業技術の革新で生産高が飛躍的に上がり物余り状態で腐らせたり、大量生産による価格下落など価値が下がる場合、耕作・労働は価値・資源を高めることにはならないのではないか?むしろ低めてる?
じゃあじゃあぁ→間接的に貨幣はモノの腐敗の一助になってない?
そうすると間接的に私有の正当性を失うんじゃぁないのかな?
正当な所有権の限界を越えるのは、所有が大きい場合ではなくて、所有物が利用されずに腐る場合である。(46節28~30行)
「腐らせない」という要件は神に対する義務であり、「利用する」という要件は他人との関係において守らねばならない要件です。しかし、もし「利用する」という要件と「腐らせない」という要件とが別々の相手に向けられているならば、他人と神とが別々の存在である以上、この2つの要件は両方とも満たされる必要があるのではないでしょうか(p.84)
ロックさんは貨幣を「労働の成果を腐敗させること無く蓄積することを可能にする」と人類の富を増大させ人類に繁栄をもたらすものであると、貨幣の役割を好意的にみておりますが、『統治二論』が刊行されたのは世界初の中央銀行が誕生した1668年とイギリスの中央銀行・イングランド銀行が設立された1694年の間の1690年のことであり、食料をはじめとして、たいていのモノが自然の摂理に則ってまだちゃんと老化・腐敗していた頃のこと。
現代の貨幣の振る舞いをみたら好意的な立場ではなく「それは想定外だったわぁ~。しかもオレの言いたかったこと曲解されてる~」と嘆くのではないかとおもいます。意外にも喜ぶのかもしれませんが…それは死人に口なし。
租税が権利なら労働も権利?(←労働権はありますがそれとはちょっとちがうかな)主権者が納税によって国をつくり国に関わる。また労働によっても。
「腐らせず利用する」よい労働によって主権者は国にコミットメントする。
専制的な統治の下では、金持ちが彼らに陰謀を企てて、税の重荷をすべて彼らの肩に背負わせるのは、簡単なんだ。(p.6)
ということは…簡単に税の重荷を背負わされている日本は専制政治下にあるようですね。
求む!わたしたちの代表
「代表なくして課税なし」
だれが代議士になっても変わらないから選ぼうにも選びようがない形式だけの選挙。
これって代表がないのと同じじゃない?
代議士が民意を反映しているのは当選するまでで、その後は私意にすぐるような気が…。
権利はなくて義務はあり。課税はあっても代表はなし。
(DSpace at Waseda University - 早稲田大学 片上孝洋『憲法の理念を欠く議会制民主主義と租税への懐疑 -自由意志による贈り物の生誕地「自然状態」への回帰-』の「2.代議政体と租税」)
日本のジニ係数ジリジリ上昇中。
所得の再分配前は「社会騒乱の警戒ライン0.4」も「いつ暴動が起きてもおかしくないとされる0.501」も越えるおよそ0.55。分配後でおよそ0.37。
TEDでリカルド・セムラーさんは「お返しするはもらいすぎだった」とおっしゃっていますが、再分配が必要だということはそもそももらいすぎているというところがあるのではないでしょうか?(←社会保障などありますから再分配は必要です。再分配を否定しているわけではありません。格差を是正しないような徴収の仕方に問題があるのではないかという意味です。)
公正な競争はよい労働によって保たれるのではないでしょうか?
よき労働にはよき所有を。
公正な労働には正当な所有を。
次回予告
さ~て、あしたの林子さんは~
森蔵です。
最近お金のことばかり考えています。
お金がありあまっている人はお金そのものについては考えないでしょうし、必要は発明の母、欠乏は着想の泉でしょうから、お金のことばかりを思うわたしはどれほど金欠なのでしょうねっ。
きっとわたしは妖怪守銭奴。
次回もまたみてくださいねぇ。じゃん、けん、ぽん。ウフフフフフフッ。
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