家畜は柵を破れるか
オキシトシンやバゾプレッシンは社会性におおきく関わっています。
これらのホルモンは精神的な結びつきもさることながら、物理的な接触、スキンシップにより、より放出されるようです。
オキシトシンとバゾプレッシン : 場末P科病院の精神科医のblog
賛否もない家畜化
動物が家畜化されると物理的な接触も遺伝的な接触も野生状態に比べてはるかに頻発します。
ホルモン分泌量が増加する環境下で突然変異やレトロウイルスなどを介した遺伝子へのコード化がなされると、野生種よりもホルモン分泌量が高く、社会性が高く攻撃性の低い穏やかな性格をもつ種へとなっていくでしょう。
穏やかな性格になっていくというのは望ましいことだとはおもいますが、それが従順のための意図された性格・遺伝子操作だとしたらゾッとします。
自己家畜化圧
日本で職人という語が使われるようになったのは室町時代。
「文化」は19世紀につくられたとおっしゃられる方もおられるようで、今日あたりまえだと思われているものや、むか~しからあるものだと疑われてもいないことは、あんがい身近にたくさんあるものです。
ひとはみずから生み出した常識や道徳や神や法や国や文化といった概念に家畜化(社会も繁殖も遺伝も人為的になりつつありますので)されてないでしょうか?
ひとの歴史は自己家畜化の歴史?
家畜化 - Wikipedia ・ 自己家畜化の現実 ・ 人間の「自己家畜化」
分業や技術革新による生産性の向上はひとの生存に優位にはたらくという好ましいところもあります。なので自己家畜化が「わるい」だとか「いい」とは一概には言えません。
猪突家畜化盲進
ときどきまわりのひとに「お肉のなかでなにがすき?」アンケートをとってみるのですが、トリと答えられる方が1番おおく、意外にもウシではないんです。
かくいうわたしはブタさんです。
最近「狩りガール」や「ジビエ女子」が増えているようで、イノシシを食されたことのある方も増えているようです。
「家畜」という語を聞いてまず念頭に上がるのは放牧されたウシくんやケージの中のニワトリさんなのではないかとおもいますが、わたしの場合はひとの排泄物を我先にいまかいまかと待ち受けているイノシシさんが家畜化されたブタさんの姿です。
あまり群れをつくらず攻撃性が高い(というより警戒心がつよい)イノシシさん。
群れをつくり(というよりつくらされて)攻撃性が低い(というより臆病な)ブタさん。
選好性はあってもどちらが「いい」とか「わるい」ということではないでしょ?
職人文化過分
堀江貴文さんの
寿司職人が何年も修行するのはバカ
というツイートに対する反響がおおきいようで、おおむね好意的に受け取られている印象があります。
わたしはふるい人間ですので嫌悪や拒絶というほどの感情はまったくありませんが、ほんのちょっとだけ(堀江さんにではなく世の潮流に)違和感があります。
なんだかみんなしてまわりにあわせて回れ右して右見てるようなかんじで、天の邪鬼なわたしはみんなが右を見ているとどうしても左を向きたくなっちゃうのです。
師匠はなにに育てたいのか?
「飯炊き3年、握り8年」というのも言葉の綾で、1年で炊き出すひともいるでしょうし5年たっても炊かせてもらえないひともいるでしょう…お師匠さんがちゃんとしたひとであれば。
「目で見て盗め」と言ってなにも教えなかったり、その余裕すら与えず皿洗いだけをさせていたり、それを文化や慣例だといって板場に立たせないというのは時代に関係なく、昔から変なところですので改めればいいとおもいますが、収入や効率などの経済活動を筆頭にするのはなんだかなぁ…。
「収入を生むなにかにならなければならない」「効率を考えなさい」「お金を増やさないものは無駄だ」というようなことを押しつけられているような感じがして、なんだかやだなぁ。
堀江さんは
センスがある人は独学で学べる
とおっしゃってますので、学ぶことを否定しているわけではないわけですし、その点異論もなにもございません。
ただし
今時、イケてる寿司屋はそんな悠長な修行しねーよ。センスの方が大事
のところは…まず「イケてる」のは味?利益?センス?
センスだとして、そのセンスは味?腕?経営?
すみません。前後のツイートを読んでいないので明記されているかもしれませんが…
消費者へ丸投げ責任転嫁の理屈
技術もなにもなく乱立して価格競争ふっかけて、業界の印象を落とし低価格の時流をつくって技術はあるのに控え目で広告下手な隠れた名店を絶滅危惧種へと追いつめるようではたまりません。
「消費者が賢くなればいい」とおっしゃる方もあるかとおもいますが、生活にゆとりのないひとが多いなか、それ、言えますか?
文化を「ぶんかぶんか」といって闇雲になんでもかんでも守ればいいわけではありませんが、切り・にぎり・巻き・締め・炊き・炙り・洗い・保存・量・季節などなどなどなど…屋台からはじまった町人文化の寿司ではありますが、とても精緻で繊細なものへと昇華したこの文化、残したいじゃぁありませんか。
テレビでこの話題にふれているものをみていると、どうも寿司は素材しだいといったような論調が目立ちます。一貫に施されている見えていない、また見ようとしていない妙技を知らないひとが多いなか「消費者が賢くなればいい」と言えますか?
「それでは教育すればいい」ときますか?
寿司に限らず天ぷらも鍋も蕎麦もうどんも器も花器も建築も…知らなければ味わえず守ろうという意識もはたらかないようなことが世には溢れていますが、ぜんぶ教育しますか?
かねめがね
目に見えるもの(見た目や数字)ばかり重視していてはお金による自己家畜化がすすむような気がします。
どうせ家畜であるのなら、経済の家畜であるより文化の家畜でありたいです。
お金を基準の玉座に据えて言われる「大人」や「仕事」や「プロ」からは、ヒエロニムス・ボスさんの祭壇画が開かれて特有の毒々しさが漏れ出てくる心地がします。
「お金をもらって仕事をするのがプロ」
それじゃあデータ改ざんしても詐欺でも素人でもプロ。
そういうことじゃぁないでしょ。
売上やシェアが高ければプロなの?
業界1位だったら超一流ってこと?
地獄の沙汰も金次第。食の安全も金次第。
お金でできた色眼鏡では世の中ゆがんで見えるから、そろそろはずしてみましょうよ。