父性も母性も私ではありません。
父性は私が真に父性の息子かという疑いからは逃れられません。
疑うことはないとしてもそれは明証的ではなく証明不可能であり、それはただ信にのみよっています。
それに対し母性は確かに私ではないけれど、信以上の確実さ、明証性を持って母性の息子であることを知っています。
たとえ複数の父性と結びついていたとしても、父性の信よりはより明確な信、直感といったもので私がどの父性によるものかを感じ知ることができます。
父性と母性の結びつきによって私は生まれますが、直接私を生むことにおいて、母性は父性より強く私の根源に位置します。
生むだけでなく育てるということにもなればそれはさらに強くなります。
私は母性から生じましたが、その意味を知ることはできません。母性の方も生んだ意味を知ることができません。
どちらもその理由のみ知りえるものです。
母性がその意味を知ることができないのは、母性の母性も意味を知らず、その母性も知らないからです。かくして意味は失われています。
私の息子は私の父性と母性によって生まれます。
つまり存在者となります。
私が生み出すのですが、私の作品ではありません。
私には所有できません。
そもそも私に所有できるものはありません。
なぜなら私自身、父性と母性、直接的には母性、人に限らなければ母性だけによって生じたもので、そのどちらも起源を知らず、なにも所有していないからです。
母性は確かに生みますが、それは機能であり、原因であり、結果であり、理由であり、…であるのですが、意味ではありません。
母性は無であり無限であり、客観、他なるもの、他者性、ノエシス、意識、直観、…です。母性の宿っていないものはありません。
息子は私の内の現象といったもの、自我といったようなものにより近く、母性は無により近いものです。
父性は不安な意識・感覚、私の不在を意識したような、私を疑い続けていつまでも確信の得られない、どこを探ればいいかわからないけれど何かを探っているという意識がある志向性といったものにより近いとおもいます。
エロス的関係は父性と母性といったものの区別のなさ、主客の別のない超越論の世界、世界そのものにより近いのでは…。
↑むか〜し書かれたなにやら高尚を装ったメモが出てきましたので、父性や母性や息子がなにを意味するのかもわからないので加筆修正もできず、タイトルもそのままに載せてみました。
レヴィナスさんといえば顔だとおもっていたのですが、顔は出てきてないんですよねぇ〜。いいのかな?
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