今週のお題「人生に影響を与えた1冊」
数少ない「文学」
私にとっての読書は宝探しに似ていました。
問題の答えがないかを見つけるため、あるいは新たな宝の地図やヒントを得るための冒険。
大抵は空振りに終わるところも読書と宝探しの共通点でした。
なかなかお宝を発見できない不漁の冒険の日々がつづき、なぜ文学書を読むのか?文学ってなに?実用書だけでいいんじゃない?実用書も実用的なものが少ないなぁ…と、疑問をもちはじめたころに出会ったのがクンデラさんの「不滅」です。
これは映画化できない。(「存在の耐えられない軽さ」も映像化には向かないものですが…)できても巨額の費用がかかるわりに駄作にしかならないでしょう。
これは思想・哲学書であり物語でありエッセイであり自伝であり歴史書であり…語ることが不可能な哲学を語る方法であり、映像にはできないから語るしかない形式…どんな言葉もうけいれて、どんな言葉も拒絶する…なんかわからないけれど、まさに文学!
幸か不幸か、文学に出会ってしまったのでこの先に文学がない。そんなかんじ。それ以来文学読んでないかも…。
(官能小説のようにみられてしまう危うさがあって青少年にはもったいなくておすすめできない。そう読むのも間違いではないとおもうけれど、それなら「人生は官能だぁ!」と読んでいただければいいのではなかとおもいます。人生いろいろ。解釈いろいろです。)
多元的で先見的な目
『不滅』のなかでキッチンや居間など元来共用空間である場所を日中、家に1人であることから私的空間と見なされてしまう、家庭内において完全な私的空間を与えられない専業主婦についての記述があります(わたしはこれをDB(ドメスティック・家庭内ーボヘミアン・放浪者)とかDD(ドメスティックーデスペラード・放浪者)などと言葉をあてていますが…)何十年も前にこのことを見通して言語化していた作家がいた、それも男性で!このようなクンデラさんの現実を見るくもりのない目のよさにも感心させられました。
数少ない「映画監督」
ちなみに、思考と視覚、思考の視覚化、言葉の映像化の境界線はウディ・アレンさんだとおもいます。
この線より思考に傾くのなら映画にする必要はなく、本にした方がいいでしょうし、この線より視覚に傾くのなら意図が読み取れなくなり不解になるので映画にならないでしょう。
アレンさんの線上のほんのちょっとだけ映像によったところにゴダールさんやキューブリックさんやベニーニさんがいるというのがわたしの感触。
彼らのように思想を映像にできるひとは稀有だとおもいます。
わたしには運がない。それでも本運にだけはそこそこ恵まれたとおもう。いい時期にいい本に出会ってる気がする。
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