あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

事の始まり・傷心

ひとの生涯は生まれることで始まるが、物語はひとが害されることで始まる。

 

映画や小説、アニメ、その多くはひとの死を中心として、またはそれを発端として物語が動き出す。昨今隆盛を極めている異世界ものなどその最たるもので、主人公が死ぬところから話が始まる。主人公が死ななければお話にならないのである。

 

こんなことをふと思ったのは、ここのところあまり読んでこなかった小説(物語)をいくつか読んでいて、たまたまなのか必然に突き当たったのか「しょっちゅうひとが死ぬなぁ…あっほらまた死んだ」「また殺し屋が出てきたよ。殺し屋ってそんな一般的なものなの?市民権得てるんだねぇ」なものが続き、振り返ってみると火サス(火曜サスペンス劇場)・2時間ドラマ、名探偵ポアロにコナン、極道・任侠、時代劇に大河ドラマ、ウルトラマンもゴジラも平家物語も古事記も、死ぬわ死ぬわまた死ぬわ。ばったばったとひとが死んでゆく。どれもこれもひとの死を巡ってお話が展開されてゆく、死にまでは至らなくとも”傷心”が物語のはじまりなのだということに今更ながら遅咲きながら気がついた。

ひとはひとの「死」が好きなんだ。ひとはひとの「死」に関心が高い、実は無自覚不覚にも興味津々なのだ老若男女問わず。

 

死を巡るというのは生を巡るということと同義、というか表裏一体。だからひとはひとの「生」にも関心があるのだ。ひとはひとの「生死」に惹かれている生き物なのだ。

 

 

自由と欲望の相似性

不老不死でも身体・自由を拘束されては苦しみ・不自由は常人よりも大きい。

死にたくとも自由には死ねないのだから。

したがって自由は不老不死に勝る。

 

自由とは自らの意思で決めること。

ただしその意思は教育や文化、情報などによって形成されてゆくもの。

となると自由は自由か?

自由の記憶、継承される自由、遺伝する自由、…。

自由は思考から生まれる。

 

老化しない、死にたくない、死なないという自由、あるいは願望。

願望は大きな括りの上では自由の一種。

何を望みその思考・選択肢・想像からなにを選ぶか、選べるかという自由。

 

思考のない生物は反応により動いているだけなので「~をしたい」という欲望がない。

つまり自由でもなければ不自由でもない。

そう感じることすらない。

そもそもその概念がないのだから。

 

また、思考をもちすべてが思い通りの自由自在であってもやがて欲は尽き、自由の概念をも失う。

というのも、思考と同時に、あるいは思考よりもはやく願望がかなってしまい、而して思考は反応となり、思考は失われるのだから。

 

思考のない生物と思考をもつ自由自在の生物とは畢竟、同じ極地へと至る。

 

自由から離れ、欲することもなく、ただただ反射や反応にのみ依った思考を失った生物となる。

欲からはなれることは自由(・不自由)からもはなれること。

 

無限が無限たりえるのはそれが可能であるからではなく、まさに可能性であるから。

無限は可能という虚偽へと誘う悪魔であり、可能性という希望を担保する天使。

自由は実現可能ではないかもしれないけれど、その可能性を失うことはない。

自由には種類がある。

どの階層、どの次元についての自由について話しているのかを捉えそこねると混乱するだけ。

極端な国に極端あれかし

LGBTQやクオータ制など「日本の未来を憂いて…」みたいな独善を振りかざして批判するひとがいますが、その結果、追い込まれて自ら命を断ってしまうひとが増えたのでは本末転倒。問題の深刻化に寄与しているだけ。人口は減り、それこそ未来の納税者も納税額も減る一方なのですから。

 

日本は賃金が上がらず睡眠時間は短く、相対的貧困率が高く自殺者が多い。投票率が低くて女性議員が少なく、男女で賃金や昇進などまだまだ不合理な差があって、家事育児はいまだ女性が担っていることが多い男社会…こんな極端な国のために死んでやることなんかない。

 

生まれてこのかたずっと日本育ちでは気づきづらいかもしれないけれど、日本は”普通”ではないよ。世界的にみても礼儀正しく治安がよくて生活しやすくて比較的いい国ではあるけれども、それでも、それを除けば割と極端なんだよ。

シーシーゲーム

企業や政府の言う「丁寧な説明」とかって、根回しも段取りも整えて、がっちり既定路線確定後に「お話しましょっ」とくる。”普通”は逆でしょ。説明してお話して計画の可否を経てから段取りつけて実行よ。

加えてその「説明」とやらのお粗末なことったらありゃしない。

その最たるものが国会答弁。「何度も申しましたように…」「先程もご説明いたしましたように…」といって何も説明していない。話が広がりも深まりもしない。同じことの繰り返し--せめて、せめて言葉や言い回しぐらいは変えて一見ちがうことを言っているかのようにはぐらかしてみなさいよ。国民の代表がコレじゃあ日本の知性が疑われるわ!恥ずかしい--で、ただただ時間を稼ぐ作戦。

公平に回す者

スポーツ、なかでも対戦競技においては一方があまりにも消極的であったり、あからさまな時間稼ぎ等の行為に対して注意や警告がなされ、度が過ぎれば減点または相手に加点されるというルールが設けられており、その履行のために平等で公正な審判がいます。意見の調停やスポンサーのためのテンポの調整、ただ試合を面白くするためだけにレフェリーがいるわけではないのです。(公正で誠実な)試合を成立させるために審判する者がいるのです。

国際大会ともなると対戦両国とは異なる国籍のひとが審判を務め、国内大会では競技者と利害関係にない第三者が審判を務めます。

極端な回し者

こんな国会なら、不公平な進行しかできないなら論理と審理に長けている(はずの)最高裁判所長官衆議院議長やれば~。違憲立法審査権だけじゃあ三権分立の内の裁判所がちょっと弱くない?違憲判決件数少ないし「高度の政治性」って言い張られたらそれだけで攻めようがなくなる権限ってどうよ?ただそれだと長官の任命権を有する政府与党がちょっと強くなっちゃって与党議員議長と大差なさそうだし政府に対する何かしらの牽制カードが必要になるから…それならいっそのこと逆張りで議長は野党から出すことにしちゃうとか。

議長は司会とは違うって言うんでしょうけれども、なんにしろ三権分立・多党制・立法府・(衆議院)議長という組み合わせは公平な審議という観点からすると相性が悪いと思う。

Iターンゲーム

男社会という極端が許されてきたのだからいっぺん女社会にしちゃえば。これまでがターンがまわってこないゲームのようなものであまりにも不公平でしょ?

近代、特に明治以降の成功や成長を家父長制によるものと錯覚しているようで、その実、成長は個人の犠牲によるところも大きかったでしょ。男女平等だったらさらに成長していたはずだったとは思わないのかねぇ?だとしたら…さすがだわ男社会、なんとご都合のよいこと。

 

格差は違いや差があること自体を否定するものではなく、ただ、極端な差を批判するものです。差があることを肯定すると途端に「格差を容認するのか!」と鼻息荒くするひとがいますが、そんな声は短絡的思考者の戯言だと心中で侮蔑してしまえばいい。

中道、折衷案、アウフヘーベン…だけでは意見が出揃うの待ちで優柔不断の決断遅延に陥りがちだし、「だけ」というのもまたひとつの極端。

極端の国のアリス

「生きてさえいればいいことある」かどうかはわからないけれど、あなたに、お金にちょっと余裕があるのなら、極端でない国に移住してみるのもいいし、他の極端な国を見に行ってみるのもいいかもしれない。あなたに、まったくお金に余裕がなかったとしても、極端な国で極端な終わり方を選んでなんかやらなくったっていい。気づいていないだけで今、なにかしらの暴力の渦中にあるのかもしれない。それは異常で極端な状況なのだからその場から離れましょう。

そうして気力が回復してきたら、そのまま安穏な生活を続けてもいいし、闘ってみてもいい。同じように苦しんでいるひとがいるだろうからノマド的移動村落とか限界集落や廃村に住み着いてさらに仲間を増やすとかして擬似的な村や国をつくってみるとかね。擬似的な村や国をつくるくらいたいした極端じゃない。