あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

振動の美学

心震わす振動=感動

 日本では「センスがある・ない」と言うとき、それは多くの場合「才能の有無」についての言及だったりしますが、英語のsenseは才能というより感覚のこと。才能はsenseというよりtalentのこと。

 

 なにかを上手くできる ー 例えばスポーツとか ー や審美眼があるというのはセンス、talent才能があるからというより、その事物と、なんというのか相性がいいというのか、感得できるというのか、sense感覚が開いているというのか、…なにかそういうことなのではないかとおもうのです。

 

 その何かわからないけれども感じ取っている何かというのは❝振動❞であり、震え震わされているその状況・状態が❝共振❞であり感動する・させるということなのではないかとおもうのです。

 

 色や物、原子や光子は特有の振動をもっています。マクロなものもミクロなものも、森羅万象あらゆるものが振動し、個々特有の振動(波・振動数・振幅)をもっています。

 ひとによって感動するもの、刺さる絵やビビッとくる曲が異なりますが、それはひともそれぞれ異なる振動をし、特有の振動をもっており、その振動とある対象の振動とが重なったとき ー 邂逅したとき ー いわば共振が起き、励起されて感性が働き、感覚が動かされて感動するのではないでしょうか。

 

 するともしかしたら感動しているのは私たちだけではなく、そればかりか、対象の方もまた感動しているのかもしれませんね。そうだとしたらこれは互いに幸せなことで、もしかしたら感動という現象は偏愛でも執着でもなく、恋愛なのかもしれませんね。

 

※とはいえ自分が感動しているからといって常にその対象も感動しているとは限りません。でなければすべての片思いが無条件かつ自動的に相思相愛となりストーキング等の行為や心理をも肯定することになってしまうおそれがあります - 片方は恋の振動であっても他方は嫌悪や恐怖の振動であるかもしれないし、そういうことは往々にしてある - ので、その点をここで注意し強く否定しておきます。

 

絵画のきらめき

 例えば印象派の絵画。

 近くで見ると赤や青の割と独立した点々の数々が見えます。赤には赤の、青には青の、その色特有の周波数・振動(数)があります - ここで「割と」と但し書きしたのは、赤い点の下には黄色い点が塗られていたり、赤い点にちょっとだけ緑色が混ざっていたりするからです - 。

 このような割と単色で赤色の波長や重ね塗りされた点々の数々、その色や場面、構成の発する振動に感動することも、またはそのようなひともいることでしょう。

 

 ただしこちら - 色そのものに感動すること等 - は少数派でしょう。

 

 印象派絵画の鑑賞法のボリシェヴィキたる定石は、やはり少し離れたところからの鑑賞。

 ということで一歩、二歩、三歩…とほどよいところまで下がって見てみますと、昆虫の複眼で見た世界かと見紛うような点々だけの世界だったものが、輪郭を現し、形をなして立ち現れ、世界が励起してきます。

 自らがほんの少し動いてみるとより起こりやすい現象ですが、静止しているはずの絵の中の景色が時に光きらめき、往々にして水面が揺らめき、人々が遠くで会話を楽しんでいる声が聞こえてきます(ここで私は特にモネの「ラ・グルヌイエール」を思い浮かべています)。

 

 それ(点々の集まりに輪郭や揺らめき、煌めきをみること)は錯覚なのですが、確かにそこには静止画以上のもの、時間や変化、動きや息吹が今現在、描かれた過去から隔たってはいても実際にこの場に立ち現れてくる現実。この現象、この絵に心動かされて感動します ー 私はここに絵画の気概を見る気がするものです。つまり写真や複製品にはできない、(肉筆)絵画でなければできない表現を現すこと。抽象化や具象化、再構築に脱構築、誇張や省略、キュビスムマニエリスムなどなどナドナドーナ~♪ - 。

 

 同じ対象であっても近くで見たときと遠くで見たときとでは印象や感動の度合いが変わることがあります。それは赤方偏移のように遠ざかれば波長が伸びてより赤みを帯びて見えるように、振動数が変わるがために起こる現象ともいえるのかもしれませんね。

 

 …と、まあ、このように、絵画において感動を誘引する主たる要素は色のもつ波長だけにかぎらず - むしろそれに反応するひとはマイナーであって - 、その画面全体の発する波長(構図や場面構成といわれるもの)やそこに駆使されている技巧や作者の意図といったおよそ波長や振動数といった数値変換できそうにないものも❝振動・波長❞をもち、ひとの感情を震わせ感動させる。

 

 そしてまたひとそれぞれ好みがあり感動ポイントも異なる。そればかりか同じ対象、おなじ絵画であっても見る角度、物理的にであっても精神的にであっても、鑑賞時の距離(感)やそのときの鑑賞者の感情、状況、精神状態によっても感情の震える度合いや反応の仕方が異なる - これを鼻につく言い方をすると「感動には波動の個別選好性や動的浸潤性がある」といったところでしょうか。要はひとには波長の好みや見え方、感じ方が違うってだけのことですけれどね - 。

 

情報の振幅が加える心服

 絵画よりもより想像しやすいのは音楽でしょう。

 和音に心奪われるひともいれば旋律に心惹かれるひともいるでしょう。

 物語に感動したり、またそれによって感服を増強されることもあるでしょう。

 すなわち、その作品が生まれた時代背景や作者の心理状況、制作秘話や所有の来歴等々。

 こういった作品そのもの、それ単体の評価や価値とは直接関係しないであろうはずの種々の要素もまた、人により、時により、関心感服を増幅することもあることでしょう。

 これは色や原子といった、それ自体が振幅をもつものではない物語や知識、記憶といった情報にも、カタチは違えど振幅はあるということではないでしょうか。

 

 「情報」という言葉は実に便利な言葉で、色の振動数や光の波長も、量子の相互作用も(色)情報と言われますし、個人的には、わかりづらい話のキーワードを「情報」という言葉で置き換えると理解が進んだり新たな知見が得られたりすることがあったりします。

 またこれが違和感なく置換できることが多く、その点からも「情報」の利便性と汎用性が窺われます。

 「情報」という語はあまりに万能で汎用性が高いがために本質的になにも表していない、表せないということもありますが…。

波及する波紋

 連成振り子は、はじめ各々バラバラに振れていた振り子がやがて同じ周期で振れるようになったり、申し合わせたかのように連動してくねくねと蛇行して見えたり、そしてまた各々バラバラに振れるようになったりする振り子です。

 

 強く振動するものは他の振動の影響を受けることよりもむしろ周囲に影響を与えることになるでしょう。とはいえ、弱い振動が強い振動へと影響を与えることはない、ということではありません。弱い振動であっても長い年月の間に徐々に強い振動を変動させることもあるでしょうし、あるタイミングでは同調して変調させることもあるでしょう。振り子のように。

 

 感情や感動は波及することがあります。隣で映画を見て泣いているのを見てもらい泣き。合唱や合奏でユニゾンやハモったりして演者ばかりか観客もトリハダものの感動空間出現。

 振動であればこそ共鳴共振増強増幅、波紋のように波及伝播する性質をもっているのかもしれませんね。

 

共振の導く狂信

 振幅の大きさや振動数の多さといったものが、その作品のもつ謂わば「強さ」のことで、影響力や評価、価値を与え与えられるのでしょう。

 

 このように振動というのは、その強弱・振幅や高低・振動数に関わらず変わることがあります。というのも、たとえば、意見のまったく合わない正反対の性格の人同士が仲が良かったり惹かれ合ったりし合うことがあるのは、互いに互いを他の人よりもより震わせ合うがために、それを「気が合う」とか「刺激を受ける」と言い表し評価して感得し合っている関係にあるのかもしれません。

 

 政治姿勢や宗教について頑なに否定していたひとでも後に転向してしまうことがあるのも、共振によるものなのかもしれません。

 宗教について否定的であるばかりか強い嫌悪感すら抱いていたひとがルルドの泉で姪の視力が回復したというような奇跡を目の当たりにしたり、九死に一生を得るような体験を経たり、お告げ通りにしたら宝くじが当選したり、洗脳されたり、別段なにもなかったり…、いずれにせよ後にそれまでの信条が180度回転して狂信者へと転回転向することがあるのも共振の為せる技なのかもしれません。

 

 入信や宗旨変えしやすいのは弱っているとき、つまり振幅・振動数が弱っているときでしょう。

 弱い振動は強い振動に影響を受けやすいことでしょう。少なくとも弱い振動よりは。

 反対に、強い振動は弱い振動に影響を与えやすいでしょう。少なくとも弱い振動よりも。

 教祖や指導者にはカリスマがあるといわれますが、そのカリスマというのは強い振動のことで、強振動を言い換えたものと同義なのでしょう。

 

 振幅の大きなものは小さなものに比べてより広範囲に届き影響を与えやすいことでしょう。また、振動数の多いものは少ないものに比べて壁などの障壁・フィルターを性質を変えはしてもより広範囲に届き影響を与えやすいことでしょう。

 増幅器を介してより遠くまで届けられたり、変圧・変調器を通して歪曲・加工して伝えられることもあるでしょう。

 ここで挙げた障壁や増幅器は比喩であって、メディアや広報官といった宣伝・喧伝者、友人・知人や関係者といったひとづて - 伝言ゲーム - といったことなどの比喩であったりします。

 

 美学とは相当に話がそれてしまいましたが、❝振動世界❞からみた美学と宗教にはそれほどの隔たりはないのではないかとおもいます。

 

 宗教画は絵画の世界ではながらく至高のもの、最上のジャンルでした。またさまざまな記号を創出し、民衆を心酔させる舞台を生み出し、歓喜の歌で感動を喚起してきました。プロパガンダ、煽動や誘導に使われてきたこと、またそのために抑圧されてきた(美術)表現や文化、人(格)があったということは否めませんが、それでも、そこを含めて美術と宗教との距離は近接したものです。

 

同名同士の共鳴 - ハルモニア

 死の間際にあるひとがあらゆるものに美を見出し感動することがあるのも自らの振幅・振動数が極端に低下しているがために他からの振動に影響を受けやすく、かといって衰弱しているために全身を快方へと導くとまでは至らず、その一部を震わされるために起きやすい現象であるのかもしれません。

 

 死期が近づいたひとには、それまではなんでもなかったこと、些細なこと、日常的なことであっても美しく見えたり感動するということがあります。

 またそれまでは嫌悪感を抱いていたり - 例えばネズミやゴキブリなど - 嫌いなもの - 例えば食べ物など - 、憎しみや悲しみ、汚いと思っていたもの - 例えば泥汚れや汚物(そこに生活感や生命力を感じたりしてね) - や醜く見えていたもの - 例えば枯れた花やブサイクなものなど - など、ポジティブどころか中立中性のゼロでもなく、ネガティブであったものでさえポジティブに、美しいとさえ思え感動することがあります。とすると、感動には(本質的には)美醜はないということでしょう。

 

 美しさも醜さもあらゆるものが振動であるのならば、それはひとそれぞれの感覚・主観であるとともに、すべてが地続きの物理的・客観的なものでもあるという、相対するものが和合した矛盾しつつも無矛盾で整合な世界が広がって見えます。

 すると本質的には美醜は相対するもの、対概念なのではなく同じ地平にある地続きのものなのではないでしょうか。

 そしてまた、モノだけでなく情報といったものにも感動するということは ー ここでおおきく一歩、跳躍しま~すっ ー 感動には美醜のみならず善悪もなく、善悪にもまた美醜も善悪もないのです。 ← ちょっとなに言ってるかわかりませんね。

 

 こうして調和・ハーモニーの世界・ハルモニアが広がります。

 …と、振幅の美学に心服してしまっているものの戯言よ。

 

 最後に、 - もう覚えてはおられないでしょうが、はじめにもどりまして… - sence感覚は振幅、振動数を感知する鋭敏さ、talent才能はある事物との相性の良さ、周波数、感受性、共感、共振のしやすさと関わるものなのかもしれませんね。

絵の具を混ぜ合わせたような絵

 

 今回は文中に「-(文)-」を多用してニーチェばりに読みづらくなってしまいました…

不老不死に勝る自由

充溢した力が謀る願望

 古代より絶大な権力を手にした為政者は、ゆるがぬ力を得たその上で、または、それに次いで、不老不死を求めました。

 

 では、不老不死を求める土台となっているもの、その第一義、その前提となっているものはなにかといえば、それは、思うがまま、我がまま、願えば叶う自在の境地、つまりは自由(自在)。

 

 しかしひとは力に満ち足りていると、そのこと - 自由は不老不死に勝るということ - を見逃しがちになる。

 

顚倒する願い

 不死であっても病や怪我などによって体が蝕まれて激痛とともに生きていかなければならないとしたらどうでしょう。

 

 仮に病や傷を負っても痛みはコントロールでき - 痛みをなくしてしまうと辛味や触覚を失ってしまうかもしれないから - 損傷は傷跡も残さず元通りにもなる不老不死であったとしても、生涯、牢獄や、まったくなにも見えない暗闇、または光の中に閉じ込められたり、身体拘束されたままであるとしたらどうでしょう。

 

 「汝に不老不死を与えよう」と言われて有頂天になるひともいるでしょうが、続けて「……ただしこの監獄からは逃れられない」と言われたら、どんなひとでもきっと天頂から絶望の淵へと転落することでしょう。

 

 不老不死でも負った傷は元には戻らないだとか、痛みは自分で調整できないだとか、身体拘束されたままだとか、自在の境地、自由でなければ不老不死は不運不幸な最悪な災厄でしかないことでしょう -知能、思考能力がないのであればその限りではない…と思われる - 。

 

希望からの脱退

 すると、意志してそうするひともいるでしょうし、意志せずともそうなるひともいるでしょうが、いずれはやがて何人も何も考えず何もしない、無気力となることでしょう - 無気力:回避困難なストレス下にながく置かれたり(関連ワード:オペラント条件付け、学習性無力感、セリグマン などなど)、反対に生活に不自由せずある程度願望が叶ってしまう状況がながく続くとひとは無気力となるようです。重度の中毒者がそれにしか興味を示さず、他のことには無関心・無意欲で無気力に見える・となるのに似ているかもしれない。(ほぼ)そのことしか考えておらず、禁断症状のひどいものともなると、それができるのなら「死んでもいい」と、時に漠然と、時に本気で思ってしまうほどの無気力を(ともなった感情を)示すことがある -。

 

 このような永遠の不自由の中では、唯一残された自由は、このような状態だけなのかもしれない。つまり、不自由(な不老不死の状態)から逃れるには、悟りを開いて解脱するぐらいしか…。

 

 悟りを開いて解脱。

 

 それがどういうものなのかはわかりませんが、推測するにそれは、考えるとも考えないような状態、座禅や瞑想の究極の境地、面壁九年どころか面壁永遠、不自由な不老不死に耐えるには、またはそのような状態から救われるには究極の泰然自若、ただあるだけの状態、要は知力を捨ててしまうしかないのかもしれない。

 

自由自在な願い

 不老不死を第一に求めるひとは見誤っている。

 それは第二義的なものであって自由自在こそが第一義であることを。

 あるいはまた不老不死とは自由自在の範疇にあるもので、自由こそが大願であり、より大きな野望であることを。

 

 この錯覚は絶大な力が見せる幻覚であるともいえます。

 もうすでに自由自在であるのだから、次に求めるのは不老不死。

 生老病死を操ることも、それから逃れることもできないにも関わらず自分は自由自在であると。

 

 みな不老不死よりも自由を求めている。

 自由あってこその不老不死。

 不老不死も自由。

 より正確には自在な自由の一種。

 

 ゆえにひとの求める至高の願いは、自由。

 自由に勝る願いなし。

 

不老不死の夢を見せる自由

 若かりし頃、不老不死を願ったひともいるでしょう。

 きっとそれは力が充溢していたから。

 力みなぎりまだ「衰え」を知らなかったあまりに自由に不自由しなかったあのときの夢。

 

 若かりし頃、困苦のなかを生きていたひとは、そのとき不老不死を願うことはないでしょう。

 なぜなら、そのとき、現状に不満足だから。

 「今」が今すぐなくなるように、「今」がもう終わり続かないようにと願っていたでしょうから。

 もしかしたらそんな困窮の日々があまりにもながく続いてしまったから、もうすでに「願う」ことすら失って無気力・無力感のなかを生きてきたのかもしれない(し、今もそうなのかもしれない)し、願っている暇も余裕もなく生活に追われていたのかもしれない。

 

自由の指標…?

 すると翻って、若かりし頃、不老不死を願ったことのあるひとというのは、無自覚にも自らが思っている以上に当時は自由であったのかもしれない。

 

 「いやいやそんなことはない。親の躾が厳しくて…」とか思っているひとでも、不自由で雁字搦めになるほどの過度な躾であったのなら、そのとき不老不死をおもうことはなかったでしょう。「親が死んだ後で好き放題やってやるために不老不死を願うんだっ!」といったような選択的生存戦略をおもったりなんかしていなければね。

 

 不老不死を願うことは力の充足具合を測るひとつのゆる~い指標なのかも、またはゆる~い指標になるかもしれないね。

 

 ところで…

 

 

 あなたは不老不死を願ったことがありますか?

 

 それはいつですか?

 

 そのときあなたは自由でしたか?

 

 今 、 あなたは不老不死を願いますか?

『記号消費社会論』最良の入門書にしてひとつの到達点

発散する記号、破綻した生産、破産に向かう消費

 ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』に書かれていることがわかれば、あるいはこの本に書かれていることに興味がもてれば、記号消費社会論との親和性が高いのではないかと思います。

 

 …というより、記号論記号学や消費社会論、記号消費といった単語に引っかかりを覚えたり、それらがどういうものなのか気になっているひとでなければそもそもこの本を手に取ることはないでしょう。

 

 そしてまた、記号や消費という言葉に関心を持っていてそれらについて調べたり考えたり想像したりしたひとであれば、なんとなくでもそのイメージは思い浮かべられて、曖昧にでもその意味はなんとなくとれているのではないかと思います。

 

 結論から言ってしまえば、そのイメージはだいたい当たっています。「記号消費っておそらくこういうことなんじゃあないかなぁ…」は概ね的を射ていると思われます。

 

 ただしかし、それがなんとなくであるから少しでもそのイメージとズレてしまうと途端に混乱。話の道筋を見失って迷子。置き去りにされてしまう。ということがこれまで魔女の度々あったことと思います。

TVアニメ『魔女の旅々』Original Soundtrack

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  • 発売日: 2021/01/27
  • メディア: MP3 ダウンロード

 

 ところが、そこでこの本を読むと、モヤモヤっとしていた記号や消費といった概念の輪郭がそれまでよりも鮮明に、曖昧だったイメージにはっきりとした輪郭線が描かれて意味が取れるようになることでしょう。

 

 …ということ以上に、記号や消費といった概念の奥行きといいましょうか、それらが織りなす世界、または世界との関わりに目を見開かされます。それはそれはもうパッチリと。

 

 ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』の門戸をうかがうと、社会学だけでなく、経済学、哲学、心理学、政治学などのドアもあわせて開かれるため、これはひとつの学域、特定の領域、独立した限定的な世界にとどまるものではなく、ひとつの思想、よくも悪しくもひとつの世界なのだと感じられます。

 

 読後、または読中から世界の見え方が少し変わるかもしれません。世界の見方がマイナーチェンジするかもしれないし、もしかしたらフルモデルチェンジするほど見える世界が刷新されるかもしれません。

 

 というよりも、これまでそういう見方をしたことがない場合は、試みに一度はそういう見方をしたくなることでしょう。

 

 ただし、そんな見方も、はたまたあれもこれも、それもこれもこの書にあるように、同語反復、ただの消費対象、記号消費なのかもしれませんけれど…。

 

 と、このように、ここに書かれていることをそのままウンウンとうなって圧倒されて説得されて鵜呑みにしてそのまま放置しておくと、汎用性があまりにも高く、あまりにも万能であるがために、その適用範囲が延々と広がり収拾がつかなくなり、以てなにも意味しない、ともすれば単なるこじつけの境地にまで達してしまいます。

 

 たとえば、何かができない、見えないということも記号消費といえば記号消費。もうこうなるとなんでもありの無法地帯。

 

 故に、記号消費社会論はこのまま放置しておかず、その適用範囲はここまでだと限定、または特定するようなある種の法治が必要であり、また課題でもあり、可能であればその境界線に触れたときに知らせてくれる報知器のようなマーカーを設置・設定できると再び日の目を見る、またはこの分野がもう一度だけ沸いて、ほんのいっとき一過性のものとなるでしょうけれども、それでも再燃するのではないかと個人的には思います。

 

筋トレ消費社会

 老若男女問わずなぜか急にやってきた昨今の筋トレブーム。この潮流の中でみた第3部第2章【消費の最も美しい対象--肉体】にある「肉体の再発見」は、およそ30年前に書かれたものであるにも関わらず、現代世界を映し出した鏡であるかのようで興味深いものがありました。

Training, Muscles, Arms, Blonde, Bar Bells, Workout

 

 筋肉痛に喜びを感じたり、ハードワーク後のプロテイン摂取に満足感を得たり、またはトレーニングを怠ったりうまくいかなかったり、プロテインを取れなかったり最適な摂取タイミングを逃してしまったときに苛立ったり不安や不満を感じたりしてしまう事態。

 トレーニングすること、その行為が習慣化し、ダイエットやボディメイクが目的であったトレーニングが、トレーニングするという行為自体が目的化して、痩身や造形美といった当初目的・目標とされていたものが脇に置かれるといった事象。

 力を得ること、得る術、ボディメイクのためといった目的がいつしかトレーニングのための手段、術となり果てて目的と手段との主客転倒に陥っているような現象。

 

 筋肉痛しかり、重いオモリを持って筋肉細胞を痛めつけるようなトレーニングは後の再生、強化のためのものではあっても体を破壊、壊すこと。体を作るために体を壊す。仮にトレーニング以外に、例えば美容整形や薬物投与などの自己治癒・自己調整能力ではなく外部要因によって体や力を容易に変えることができるとしたら、果たして彼ら彼女らはトレーニングをやめてそちらの道へと進むのだろうか?

 

 この最近の筋トレブームは現在の記号消費の最たるもの、最も象徴的なもので、ボードリヤールの亡霊が彷徨い徘徊しているようだともおもったものです。

 

 『消費社会の神話と構造』は1970年に書かれました。そしてまた、ここに描かれているような世界は現在でも見られます。ボードリヤールの先見性や卓見に対して消費・生産され続けることの儚さとのコントラストよ。

 たしかにここからは「モノではなくライフスタイルを売る」「記号を売る」といったことが引き出せるわ。

 

遅れてきたレヴィ=ストロースの衝撃

 本書中リースマンやガルブレイス、ヴェブレンに比べると圧倒的に登場回数の少ないレヴ=ストロース。これまで構造主義の端緒を開いたレヴィ=ストロースの功績や世に与えた影響の大きさがいまいちわからなかったのですが、記号の交換、消費ではなく消費システムといったことを知ってやっとレヴィ=ストロースの研究・発見が当時の世界に与えた衝撃の端初に触れたというのか、今やっとその余波が(経年劣化でだいぶ減弱したとはいえ)わたしのところにも届いたという感じがしました。

 

書架を彩る装幀

 以前の装幀もメランコリックチックでよかったのですが、新装版のゴタゴタの背景がきつめのパンクなピンクもショッキングで、どちらも飾りとしてだけでもいい感じ。

 とかく色味の少ない書架蔵書にあっては目を引きますから、読んではいなくとも客人に近現代思想にも通じているぞ感を醸し出せて、きっと侮られない程度の牽制にはなることでしょう。

 

 個人的には「おぉ~」っと、おもしろいところとそうでもないところが波のように交互にやってきた読中・読後感でした。