あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

『記号消費社会論』最良の入門書にしてひとつの到達点

発散する記号、破綻した生産、破産に向かう消費

 ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』に書かれていることがわかれば、あるいはこの本に書かれていることに興味がもてれば、記号消費社会論との親和性が高いのではないかと思います。

 

 …というより、記号論記号学や消費社会論、記号消費といった単語に引っかかりを覚えたり、それらがどういうものなのか気になっているひとでなければそもそもこの本を手に取ることはないでしょう。

 

 そしてまた、記号や消費という言葉に関心を持っていてそれらについて調べたり考えたり想像したりしたひとであれば、なんとなくでもそのイメージは思い浮かべられて、曖昧にでもその意味はなんとなくとれているのではないかと思います。

 

 結論から言ってしまえば、そのイメージはだいたい当たっています。「記号消費っておそらくこういうことなんじゃあないかなぁ…」は概ね的を射ていると思われます。

 

 ただしかし、それがなんとなくであるから少しでもそのイメージとズレてしまうと途端に混乱。話の道筋を見失って迷子。置き去りにされてしまう。ということがこれまで魔女の度々あったことと思います。

TVアニメ『魔女の旅々』Original Soundtrack

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  • 発売日: 2021/01/27
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 ところが、そこでこの本を読むと、モヤモヤっとしていた記号や消費といった概念の輪郭がそれまでよりも鮮明に、曖昧だったイメージにはっきりとした輪郭線が描かれて意味が取れるようになることでしょう。

 

 …ということ以上に、記号や消費といった概念の奥行きといいましょうか、それらが織りなす世界、または世界との関わりに目を見開かされます。それはそれはもうパッチリと。

 

 ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』の門戸をうかがうと、社会学だけでなく、経済学、哲学、心理学、政治学などのドアもあわせて開かれるため、これはひとつの学域、特定の領域、独立した限定的な世界にとどまるものではなく、ひとつの思想、よくも悪しくもひとつの世界なのだと感じられます。

 

 読後、または読中から世界の見え方が少し変わるかもしれません。世界の見方がマイナーチェンジするかもしれないし、もしかしたらフルモデルチェンジするほど見える世界が刷新されるかもしれません。

 

 というよりも、これまでそういう見方をしたことがない場合は、試みに一度はそういう見方をしたくなることでしょう。

 

 ただし、そんな見方も、はたまたあれもこれも、それもこれもこの書にあるように、同語反復、ただの消費対象、記号消費なのかもしれませんけれど…。

 

 と、このように、ここに書かれていることをそのままウンウンとうなって圧倒されて説得されて鵜呑みにしてそのまま放置しておくと、汎用性があまりにも高く、あまりにも万能であるがために、その適用範囲が延々と広がり収拾がつかなくなり、以てなにも意味しない、ともすれば単なるこじつけの境地にまで達してしまいます。

 

 たとえば、何かができない、見えないということも記号消費といえば記号消費。もうこうなるとなんでもありの無法地帯。

 

 故に、記号消費社会論はこのまま放置しておかず、その適用範囲はここまでだと限定、または特定するようなある種の法治が必要であり、また課題でもあり、可能であればその境界線に触れたときに知らせてくれる報知器のようなマーカーを設置・設定できると再び日の目を見る、またはこの分野がもう一度だけ沸いて、ほんのいっとき一過性のものとなるでしょうけれども、それでも再燃するのではないかと個人的には思います。

 

筋トレ消費社会

 老若男女問わずなぜか急にやってきた昨今の筋トレブーム。この潮流の中でみた第3部第2章【消費の最も美しい対象--肉体】にある「肉体の再発見」は、およそ30年前に書かれたものであるにも関わらず、現代世界を映し出した鏡であるかのようで興味深いものがありました。

Training, Muscles, Arms, Blonde, Bar Bells, Workout

 

 筋肉痛に喜びを感じたり、ハードワーク後のプロテイン摂取に満足感を得たり、またはトレーニングを怠ったりうまくいかなかったり、プロテインを取れなかったり最適な摂取タイミングを逃してしまったときに苛立ったり不安や不満を感じたりしてしまう事態。

 トレーニングすること、その行為が習慣化し、ダイエットやボディメイクが目的であったトレーニングが、トレーニングするという行為自体が目的化して、痩身や造形美といった当初目的・目標とされていたものが脇に置かれるといった事象。

 力を得ること、得る術、ボディメイクのためといった目的がいつしかトレーニングのための手段、術となり果てて目的と手段との主客転倒に陥っているような現象。

 

 筋肉痛しかり、重いオモリを持って筋肉細胞を痛めつけるようなトレーニングは後の再生、強化のためのものではあっても体を破壊、壊すこと。体を作るために体を壊す。仮にトレーニング以外に、例えば美容整形や薬物投与などの自己治癒・自己調整能力ではなく外部要因によって体や力を容易に変えることができるとしたら、果たして彼ら彼女らはトレーニングをやめてそちらの道へと進むのだろうか?

 

 この最近の筋トレブームは現在の記号消費の最たるもの、最も象徴的なもので、ボードリヤールの亡霊が彷徨い徘徊しているようだともおもったものです。

 

 『消費社会の神話と構造』は1970年に書かれました。そしてまた、ここに描かれているような世界は現在でも見られます。ボードリヤールの先見性や卓見に対して消費・生産され続けることの儚さとのコントラストよ。

 たしかにここからは「モノではなくライフスタイルを売る」「記号を売る」といったことが引き出せるわ。

 

遅れてきたレヴィ=ストロースの衝撃

 本書中リースマンやガルブレイス、ヴェブレンに比べると圧倒的に登場回数の少ないレヴ=ストロース。これまで構造主義の端緒を開いたレヴィ=ストロースの功績や世に与えた影響の大きさがいまいちわからなかったのですが、記号の交換、消費ではなく消費システムといったことを知ってやっとレヴィ=ストロースの研究・発見が当時の世界に与えた衝撃の端初に触れたというのか、今やっとその余波が(経年劣化でだいぶ減弱したとはいえ)わたしのところにも届いたという感じがしました。

 

書架を彩る装幀

 以前の装幀もメランコリックチックでよかったのですが、新装版のゴタゴタの背景がきつめのパンクなピンクもショッキングで、どちらも飾りとしてだけでもいい感じ。

 とかく色味の少ない書架蔵書にあっては目を引きますから、読んではいなくとも客人に近現代思想にも通じているぞ感を醸し出せて、きっと侮られない程度の牽制にはなることでしょう。

 

 個人的には「おぉ~」っと、おもしろいところとそうでもないところが波のように交互にやってきた読中・読後感でした。

自由主義という名のユートピア

※ここで言う「自由主義」あるいは「自由主義者」とは、俗に世間であげつらわれている悪いイメージをもつそれのことであり、まったく関係ないというわけではありませんが、ハイエク、ましてや"新”自由主義の旗手フリードマンのそれを意味するものではありません。

 

大勢天国の乱

 自由主義とは理想論の極北にある実効性のない非現実な現象世界。

 したがって、これを無理に現出しようとする営みは無害どころか迷惑極まりない態度。

 しかし、これを唱える側はテクニカルな分析を施して巧みに現実味から目をそらさせ欺いてくる。

 また、これを見聞する者は生活に関わる「お金」についての事柄であるため、その当の「お金」に過度なリアリティを感受し、不当に高い信憑性を付与し、不必要なまでの信認をよせてしまっている。

 

病変の自由主義

 日本の医療界では長時間労働や訴訟リスクが他科と比べて高い外科や産婦人科の担い手やその科を選ぶ学生の数が年々減少しています。

 自由主義の考えでは民営化や規制緩和を進め適正な競争社会にゆだねれば自ずと価格や生活、幸福等々は最適化されるといいます。

 自由主義者のいう競争社会を実行すればもしかしたらいつの日か最善の社会が訪れるのかもしれない。

 ただし、そのときに至っても人類が生き残っていたのなら…。

 

 たとえば現在の日本の医療界、つまり外科や産婦人科医は減少し精神科や整形外科医が増えていったのなら、極端な例ではありますがこの傾向が過度に続いたとしたら、自由主義者の唱える自由競争社会であれば、そのような状況に陥ったとしてもそのときには外科や産婦人科の需要はますます高まり賃金や待遇が自ずと高まるだろうし、不必要であれば、あるいは不要なところは削減されて最適化されるだろうというのかもしれない。

 

 極端な事例を挙げているのでさらに極端なシチュエーションを加えると、ややリスクの高い高度な外科手術を要する命に関わるウイルス性の動脈瘤の大流行、パンデミックが起きたとして、このとき自由主義理想社会が訪れるまでに人類は果たして生き残れるだろうか?

 

 いやいや、こんな状況では自由主義でなくとも何主義であってもどうにもならないのでなんの批判にも主張にもなっていないのだけれども、ただまあ現行現代社会においてイニシアチブを握っているということもあって矢面立看板に立てます。

 

詳細な過程は秘して語らず

 自由主義者のいう自由競争社会は実現可能なのかもしれないのだけれども、それでも他の如何なる主義に比してその道程はあまりに険しすぎやしないかい?

 その不確実性に賭けるのかい?

 

 理想を語っているから神話とかわらない。

 だからバイブルと呼ばれる自由主義の本があるのかもしれない。

 聖書・聖典にもそれ・天国はあると云われているけれど、そこへ至る方法は明確には示されていない。

 それは予言という形でしか示されない。

 誰にも、何主義であっても確実なことは言えない黙示録。

 果たして、自由主義とは聖書か悪魔の書か。

 

 ただ重要なのは、何主義であってもそこに至るまでの道筋に現実味があるのか?

 その理想形までの道程を実行するのは可能であるのか?

ということ。

 

 現実と(←これは当然のこととして)理想の両端の2点は見えていても(今の)現実から理想までの過程や段階・ステップが見えていないのであれば、現実と理想を結ぶ線が描けないのであれば、それは何年もの歳月をかけ、ときには心血、命までをも懸けた・賭けた真剣に描かれた絵に描いた餅でしかないのではないだろうか。

 

変異させられたグローバル化

 グローバル化は、自由貿易という語では抵抗感が生まれ警戒されてしまうからそうとわからないように広め浸透させるために創出され使われている代替語。

 これまでのグローバル化は(経済的価値観・貨幣価値観の統合からはじめて文化的、慣習的、法的価値観にも及ぶ)均質化と同義。

 本来グローバル化は国家間、個人間で種々異なる性格や特色や文化を維持・尊重しあい、むしろそれがより先鋭化し高められる、ある種ナショナリズムの高騰のようなものを促しながら進むものなのではなかろうか。

 統合されうべきものは種々のユニークさ・独特・特有のものではなく、地球環境や人権、持続可能社会(の模索)といった人類存亡に関わるただ一つのことだけではなかっただろうか。

 

 多様性を許容するのがグローバル化かとおもいきやその実は多様性を排除するのが現代の実際のグローバル化であり歪められた資本主義の姿なのではないかとおもいます。

 

警戒色

 ”主流派”というのは正しさの指標ではありません。

 為政者にとって都合がいいので公が認めるものが”主流派(・大勢)"とされることが多々あります。

 もちろん個々人の認識から立ち上がり集約して"主流派"となるものもないわけではありません。

 

 また"主流派"の対極には"異端"がおかれます。

 "主流派"の類似や傍流に連なるものであっても、体制を揺るがしかねない考えが混じっていればそれだけで"異端"の烙印が押されます。

 

 ”主流派”を主流派だからというだけで他に特に合理的で妥当性もないのに是とするひとは、”主流派”を主流派とすることで、”主流派”に連なっていれば甘い蜜を吸えるポジションにあるひとか印象操作に絆されやすい大衆迎合傾向のあるひとのどちらかでしょう(そうではなく思考・検証のうえ"主流派"を肯定するひとは単に信念を持つひとでしょう。"主流派"のすべてが間違っているわけでもないし、すべて正しいわけでもないからね)。

 

 それは第一次大戦期日本の脚気の病因をめぐる悲喜交交からもうかがわれます。

 東京大学閥という日本における”主流派”学閥のプライドや実を無視した虚の意地、横柄、横暴、自惚れといったものが栄養説を退け間違ったウイルス感染症説をまかり通らせてしまい大勢の死者をだしました。

 

 また、キリスト教隆盛期には否定ばかりか弾圧までされていた進化論や宇宙論も科学が台頭し大勢を占めてくると、オセロの石が一気に裏返るように、手のひらを返したかのように肯定され重視されるようになりました。

 

 するとにわかに”主流派”という言葉が警告の色を帯びてきます。

 

 そもそも"主流派"とはなにか?

 なにをもって"主流"をなすのか?

 そうと信じているひとの数か?

 少数であっても声や力の大きな者がそちらの側についていることか?

 

 「大勢」という字はおもしろいもので、「たいせい」とも「おおぜい」とも読めます。

 数が多いからといってたいせいを占めるとは限りませんし、同じことですが、たいせい側だからといって賛成者がおおぜいいるとは限りません。

 

 民主国における民主的な選挙を経て政権を握るに至った与党は"主流派"といえるでしょう。

 しかし、さりとて民衆の大勢からなる"主流派"であるとは限りません。

 

『多数決を疑う』や『銀河の片隅で科学夜話』などにあるように、5%の固定票の意見が大勢に大きな影響を与え、それが17%ともなると裁量権をほぼ手にできるといったことを知ると、大勢は必ずしも"主流派"ならずということがわかります。

 

 ”主流派”は正しさの指標ではなく、"主流派"といっても常に検証を要し、その上で安住してはならないことなのでしょう。

 言い過ぎた言い方をすると、"主流派"は警戒の色といったところでしょうか。

 

 侃々山岳では出羽三山

仕事の定義の変革のとき

仕事の公式

 AIによりヒトの仕事が縮小していくことが予測されている昨今。

 そしてその実感も徐々に生活の中でも見られるようになってきた直近。

 仕事を定義づける。

 または仕事の定義を変えるときがきたのではなかろうか?

 

時給換算される仕事

 現代では仕事は生活の糧を得るための労働のこと。

 もっと端的に言ってお金のことであり、仕事の大きさは概ね、特にパートタイムやアルバイト、サラリーマンにおいては「時間×お金(時給)」、要は時給のことになっていることでしょう。

 そうでなくとも(年俸制や月給制のひとであっても)誰しも一度は計算したことがあるのではないでしょうか?

 「わたしの一時間あたりの給料は何円なのだろう?」

 「あたいの1時間はいったいいくらなの?」

と。

 

 わたしはこの公式を変えたいのです。

 あるいはせめて古典式にしたいとおもうのです。

 

 中学校の理科において仕事(の大きさ)は「仕事(J)=力(N)×力の向きに動いた距離(m)」で表されます。

 この公式をちょっと変えて、いい感じの労働という意味での仕事の公式を打ち立てられないものでしょうかねぇ?

 

…などと大層なことを申しておりますが、特におもいつかない…

 

「存在×仕掛かり」?創造?手技?手業(わざ)?人数?関係者?影響力?(社会)変革?

 

 …うん、やっぱりさっぱりおもいつかない…

 

労働のくりこみ理論

 「8時間労働」の8時間というのは特に理由があったわけではなく、いわばノリで決まったもの。

 したがってその妥当性は甚だあやしいのですが、今日では一般化した、一般化してしまった8時間労働ということで話をすすめますが…

 

 家事も隠れた労働、賃労から疎外された家事労働であるのですから、その労働時間も8時間の内に繰り込んで労働時間を定めるのが尋常でしょう。

 統計をとると主婦の家事時間は1日およそ4時間ほどだそうですから、これを繰り込んで、1日の労働時間を4時間とする

…というのでは急にこれまでの半分。

 これでははじめ抵抗が大きすぎてしまうでしょうから、その半分の2時間を繰り込んで、1日の労働時間を6時間とするのはいかがでしょうか?

 というより向こう3年1日6時間労働とする!

 

 1日6時間

 週30時間

 残業なんてもってのほか!

 残業ありきの給与体系なんて適正価格じゃないことの証左。

 

 そして4年目より1日4時間労働とするのだ!!

 

 これを労働時間の"くりこみ理論"と名付く。

 

…なんてね。

 

強制労働

 年を取ると1日が短く感じられるもので、8時間なんてあっという間なんて日もありますが(例のジャネーの法則ね)、それでも8時間は疲れること、しんどいこと。

 年を取るほどに体力が衰えて大変になってゆくということも加わって、あぁ~しんど。

 

 60歳や65歳をこえて定年を迎えても生活のために仕事をしなければならないひとも多いことでしょう。

 結局お墓に入るまで働き通しで悠々自適なんて夢のまた夢…どころか夢でさえ見られないのが現実。

 

強制変更

 コロナ禍で否が応でも働き方が変わってきました。

 仕事の定義・公式はいまだ確立してはおらず、それゆえ仕事の定義が働き方を変えたこともないわけですが、その反対に、働き方が変わることで仕事の価値観や常識が変わってきました。(あっ!そうか!定義や公式と言わずに価値観と言えばいいのか!)

 

 アフターコロナで働き方ばかりか仕事の価値観が激変することでしょう。

 というよりそうでなければならない。

 ここで変わらなければいつ変わるのか。

 

 そしてそれとともにお金の価値観にも変化が生じるでしょう。

 大半のひとにとっては「仕事≒生活≒お金」という公式が成り立っていることでしょう。

 仕事とお金はほぼシームレスに繋がっています。繋がってしまっています。

 

貨幣の変革のとき

 簿記・会計制度・会計技術の発達・確立が信用貨幣を定立し、ひいては(不換)紙幣・信用貨幣・現代のお金を成り立たせ、資本主義を生みました。

 キャッシュレス社会が浸透しつつある現代、ますますお金とは会計・帳簿技術・記号となってきました。

 資本主義とキャッシュレスは相性のよいものでしょう(少なくとも物々交換よりは)。

 

 筆記・書記・記述術はお金を、経済を、人心をも操ることができるのですから――

「書記長」とはなんとも的を射たネーミングであることでしょうか――高度にして最重要事である公的文書の改竄とは蛮行にも等しいものでしょう。

 また帳簿の改竄はニセ金をつくるがごとき奇術にして重罪ともなろうものでしょう。

 にも関わらずそれを行うとは、書記術の力の大きさ・影響力を理解していないか、後ろ暗い度を越した狡猾さの証。

 

 コロナ禍のここへきてMMTベーシックインカムという考えが見え隠れする度合いが増してきました。これまでそれらの考えに反対していたひとたちでさえ宗旨変えしたかのように、また以前までの態度表明をなかったことにするかのように、好意的かつ得意げに語るようになってきました。

 

 商業活動とは一線を画す、あるいはむしろときにそれとは対立する政治。

 政治献金の仕組みがある以上、特定企業、支援企業とのつながり、ときに主従・上下関係が築かれることは避けられないことでしょう。

 そうならないようにたとえば政府紙幣を発行して直接市中に流すのではなく、公務員や政治家、政党助成金などを政府紙幣でまかなうことで腐敗の防止と貨幣流通量の調整機能をもたせればよいのではないでしょうか。

 

 懸念されるのはギリシャのような状態に陥ること。

 人口に占める公務員数が増加して不安定で依存的な生産態勢となり脆い経済体質となること。

 問題はまだ多々あれども動きのおそろしく遅い現状現行と比べればMMTベーシックインカムなどの新たな取組みや仕組みについて検討することは有意義であり、仮に実施するということになるのであればこのときしかないのではないかとおもいます。

 こうして新たなお金の価値観が新たな働き方、仕事の定義に変革をもたらすことでしょう。

 

 新型コロナウイルスという天災に見舞われているなかにあっても、利益誘導、予算確保、儲けよう、大金を得たいといった画策・権謀術数が今国会においてもみられることが非常に残念であり不快。

 経済が、生活が立ち行かなくなるから全体にお金を行き渡らせようという政策を隠れ蓑にして、自らの資金を確保ばかりかこれ幸いとばかりに増やそうとさえしている政権運営側。あまりにおぞましくあさましい。

 

 資本主義が倒れてもひとは死なない。

 そこにはただ(資本主義が倒れると)ひとが死んでしまう資本主義があるだけ。

 そのような仕組みにしているだけ。

 そんな考えがよぎります。

 

国会中継を見ていておもったこと

 実務に限らず能力で官僚に勝る者は実に少ない。というのもそれだけ官僚の能力というのは高いから。

 対して能力で政治家に劣る者もまた少ない。というのはまったく言いすぎだけれども、国会答弁を聞いているとそうおもわざるをえないほど官僚の用意した原稿を何度も何度も何度も何度も繰り返し繰り返すだけで返答になっておらず、国語力が皆無なのか?とおもわせるほど会話が成立していないから。

 そうすると国務は官僚が担う方が話がはやいし通じるのでより最適解に近いのではないかとおもわされます。

 

 しかし、そうはなってはいないし、そうすべきでもないともおもいます。

 また、それではなぜ政治家がいるのか?

 なぜ能力に劣る政治家が必要とされるのか?

 

 それは官僚が個々の信念に基づいて国政を担えば必ず混乱をもたらすから。

 賢者同士の諍いであるから熾烈で収集がつかなくなること必定。

 だからというのか、そこで政治家の登場です。

 政治家は民衆の信念を、大勢の価値観を示します(本来ならば)。

 政治家は大衆の意見を集約し、意思決定をし、ゴールを示します。

 そしてまたその軌道がそれていないか、歪められていないかを監視・監督します。

 政治家が方向を示し、官僚がそこまでの道をつくる。

 実現するのは官僚。

 この形がよい形なのではないかとおもいます。

 

 しかしこれが逆転していることがあっておかしなことになっています。

 また官僚の方が能力が高いので(官僚の価値観に沿って)誘導されてしまうことも多々あって道のりが長くなったり歪んでいたり脱線して他のところへとつながっていたりします。

 そうなると政治家の、民衆の価値観・信念ではなく官僚の信念へと誘導されて民衆と政治とが隔絶してゆきます。

 それを防ぐには元官僚の政治家がよいようにおもうのですが、元官僚総理の政権運営をふりかえってみても、元官僚でも官僚を御することは難しいのだなあとおもう。

 

 ではどうしたらいいのか?それはまったくわからず、おもいつきはしませんが、現代資本主義社会において政治家と官僚の分業体制やその意識が他の業種と比べてもっとも進んでおらず曖昧なままであるようにおもいます。

 

 暇といっては語弊が多分にありますが、望むと望まぬに限らず時間のある今このとき学び変革していかなければ、今このときできないのであれば、この先も変革のときはこず、状況に隷従することから脱することはできないだろうなあという予感がはたらきます。

 

※ただの雑感なので話にまとまりがないのはご容赦ください。ではでは。