あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

昨今の指導者の”指導力不足"に触れておもうところ

マネジメント能力の欠けた敏腕経営者

 昭和中期以降のいわゆる「成功者」といわれる経営者の大半は、生産力や製造技術がまだ未熟で、かつ人口が拡大局面にあったため、ある程度つくればつくるほど売れるという供給力が需要を牽引することができた近代の主流派経済学が夢想・想定した理論にほぼ適うような状況・環境にあったからという場合が少なくない…

 

今のままでは少子化対策は種々の問題を解決しないばかりか出生率の改善が逆にリスクを高めてしまう - あめみか

 

…にも関わらず、製造技術が高まり人口が縮小局面に入って久しく、なおかつ稼ぎ頭が二次産業から三次、そして四次産業が台頭し、さらには第四次産業革命到来か?という時期(とき)にありながらも今だ前時代、前前時代、前前前時代を引きずって過去の栄光に頭までずっぽり浸ってしまっているものだから、企業の業績悪化等の打開策として、これまた前前前時代の手法、つまりは根性論や精神論等で切り抜けようとするものだからさらにこじらせて…。

 

 そもそも前時代にあっても根性論や精神論によって成功してきたわけではなく、いわばその時代の恩寵によってたまたま救われてきたというだけなこともあるというのに、それをみずからの経営手腕が長けていたと錯覚・曲解していつまでもトップの座に居座り続けて現在ではもうとっくに通用しなくなっている手法やマインドを駆使して「現代はスピードが命」「スリム化を進めていく必要がある」「効率化が…」などと言ってることとやってることが見事に乖離した訓辞をだらだらたらたらと遅々として垂れ流す。

 

 いつまでも自分がトップの座に居座り続けるというのは、経営手腕には長けていたのかもしれないけれど、すくなくとも後進を育てる能力、マネジメント力は決定的に欠けていることを目に見える形で対外的にも示しているのだという意識は皆無なようです。

 これを"無能の見える化"とでも呼びましょうかね。

ルールを守る必要のないひとがつくるルール - あめみか

 

指導者の指導力

 指導的立場にある方々(特に手腕に長け名声を得ている指導者)に今一度、省みていただきたいのは、どれだけの成功者を出したかではなく、どれだけの若者を潰してきたかということ。

 教え子や目をかけていた部下が活躍すれば彼ら彼女らに当てられる強烈なスポットライトの明かりの余波を受けて、脇にいても十二分に眩しいほどの光を受ける指導者は失敗例が見えづらくなっていくのではないかとおもう。

 

 進学校や進学塾の"実績"と称する「〇〇校〇〇人合格!」の裏でどれだけの人が落ちて・落とされてきたのか?

 「〇〇校を〇〇人受けて〇〇人が合格しました!」って数字を挙げて言えないのはそういうことなんじゃあないのかな?

 反省材料ではなくただの広告効果を狙ってのものにすぎないのではないかな?

情報の固定資産税 - あめみか

 

 有名なお医者さん、なかでも外科医でゴッドハンドと呼ばれる方々の口からよく聞かれるのは、名声を得ることにつながったこれまでに救ってきた多くの命のことではなく、むしろこれまでに救えなかった命について。

 ゴッドハンドは次の失敗を招かないように成功よりも失敗に学び、失敗ほど覚えている謙虚さを有しているようにおもう。

 またそうであるからこそ、ネガティブな記憶ほど蓄積されていくために神の苦悩はひとにはわからないものなのではないかともおもったわ。

 

考えなしにどれだけ潰してきたことか

 前時代には成功した…と、実際にはそう思い込んでいるだけのやり方を続けて若者を潰している例があまりにも多いと感じる今日この頃。

 人並外れた才能を有していた者がたまたま一時期そのひとの指導下にあったというだけでそのひとの"指導力"が評価されてしまうことがあります。

 たとえその指導と称して行われていたことが体よく”伝統”と言い換えられたいつまでも変わらない練習メニュー・教育プランであっても、それでもそんな中からでもわずかに有能なひとは生まれるものです。

 

 こうなるとその指導プランに疑義を呈される機会が失われます。

 たとえば真夏であっても練習中には一切水を飲んではならないという環境であったこともそれに似た状況の一つに挙げられるとおもう。

 水を飲まず我慢や忍耐力、精神力を鍛えてきたから強くなったんだといわれてきた裏で、どれだけの成長や才能や命が奪われてきたことか。

 

 日本ではこんな非科学的で害悪でさえあった状況が何十年続いてきたことか…。

 この一例だけでも日本の指導者、日本の指導力についてもっとちゃんと考えなければならない、考えてこなければならなかったと猛省させるものでしょう。

 

 水を飲んではいけないだとか練習メニューが更新されないだとか理不尽な伝統だとか、それってどれも指導者が自分の頭で考えていないことの証左のひとつ。

 自分の頭で考えていないから進歩もない。

 試合に負けても精神論しか出て来やしない。

 そのくせ偉そうで高圧的な態度。

 間違いをあれだけ堂々と声高に主張できるというのは狂気 - それはひとには恐怖。

理屈よりもイメージが尊重され先行する指導 - あめみか

こどもは授かりもの。若者は預かりもの。 - あめみか

 

不幸な土壌

 日本の不幸は優れた経営者が少ないこと。

 日本の失敗は優れた指導者を生み出す土壌を醸成してこなかったこと。

 

 その原因の1つ(それも大きな大きな1つ)には、伝統を重んじ(年功)序列を過度に尊重し(指導者が)自ら考え行動するということをしてこなかったということがあるでしょう。

 

 学校や会社では「自ら考え行動しましょう」と教えられますが、そのような学びの場、教育現場で実際に適用・運用されているのは自ら考えず伝統を重んじて練習メニュー・教育プランは変えない、あるいは考えはあっても序列を崩さないように口をつぐんでいる大人の姿。

 そんなダブルスタンダードな大人の背中を見て「自ら考え行動する」という土壌が根付くわけがない。

 「自ら考え行動しましょう」と言っている本人がそうしていないのですから。

 

 経済大国の1つに数えられるにも関わらず世界に通用するMBA、ビジネススクールがないということも指導者育成土壌が不良であることの1つの証ではなかろうか。

注意力散漫のススメ:忘れることで発揮される力

 最近、特に20代から50代にかけてパーソナルトレーナーをつけてカラダをつくることが流行っているらしい。テレビを見ているとそんな気がする。CMやバラエティ、情報番組など、その手の話を聞かない日がないというほどあふれているでしょう?

 

 そんな映像を見ていていっっつもひっかかるのが「意識してっ!」っていう掛け声。トレーニングに励んでいるようなときには「どの筋肉を使っているか意識して。ここに力入れて…」、ダイエットに勤しんでいるようなときには「今日なにをどれぐらい、どのタイミングで摂ったかを意識して…」といった風に。

 

 でもそれってどうなのかな?

 食事に関してはそれほど違和感ないのですが、運動については…。

 

カラダを忘れてみる

 カラダってごく一部の筋肉を動かして動かしているわけではないでしょぅ?なのにそれをムリに意識させて鍛えさせるというのは、本来、複数の筋肉、それこそすべての筋肉が連動して無理なく動かせているものを乱して、その協調性や調和といったものを崩して不自然で危険な動きへと導いているのではないかとおもうのです。

 

 古武術研究家の甲野善紀さんはある著書で「西洋式のトレーニングはカラダを鍛えているのではなく壊している、筋トレは筋繊維を傷めることを"鍛える"といっている」のだというようなことをおっしゃっていました。

 

 古武術や合気道は体捌、身体操作、カラダの使い方を追求するものです。

 ときに筋力ではひっくり返すことのできない大男でさえ、その身体操作によっていとも簡単にひっくり返してしまいます。

 この意味で古武術や合気道は西洋型のトレーニング理論に比べて腕力は劣るものの体力で勝るものなのではないかとおもっています。

 

 話はそれますが、昨今のオリンピックで国際競技となり、いつしか畳に相手の背中をつければ一本となるレスリング化した柔道を目にすると「こうなったら古武術家や合気道家を出してポンポン投げ飛ばして「相手の背中を畳につけりゃ~いいんでしょっ?それじゃあこれでもいいんでしょっ!」と、世界の度肝抜いてきてもらおうよぉ」と4年おきに妄想オリンピックを開催しております。

 

忘れるチカラ:忘れた後に効いてくる

 甲野さんや日野晃さん、塩田剛三さんなどなど、古武術や合気道などにおける身体操作についてできる限り言語化しておられる方々の口から、時折、聞かれるのが「忘れる」という言葉。

 その技によってひとをふっとばしたり、指1本で制圧したりできるのはヤラセでも特殊能力でもなく、種も仕掛けもある誰にでも体得しうる技能であり、その技を繰り出すときに「~を忘れて…」といったような感じで。

 

 「忘れる」というのは、たとえば羽交い絞めにされたとき、なんとか抜け出そうと持てる力を振り絞ってもがくのではなく、相手に固められているところを意図的に意識しない、「忘れる」ということ。

 他にも、相手に手首を強く握られてどうにも動けないというようなとき、ふつうなら腕を振ってなんとか相手の手を振り払おうとするところを、相手に手首を握られていることを「忘れる」。右手首を相手に握られていたとしたら「(右手首を)忘れる」。

 

 そうして「忘れて」一歩踏み出してみると…

 

 あらっ!不思議。

 

 腕をつかまれたまま手をつかんでいる相手とともに二歩三歩と容易く前進できてしまう。

 

意識過剰

 自意識過剰は疎まれるものですが、意識過剰というのも注意が必要なようです。

 

 たとえば固く締まって開けられなくなってしまったビンのふた。これを開けようと何度もトライすれども開かず。「もうだめだ。あきらめよう」とおもって最後に何気なくひねってみたら開いちゃったっ!というようなことがないでしょうか?

 

 単に少しずつ緩んでいてたまたま最後に開いたというだけのことかもしれませんが、このほかにも諦めたときにうまくいったというようなことがあるとおもいます。

 

 これって余分な力が抜けてというのか、力を集中させないことでかえってカラダ全体を協調させて力を発揮することができたからということもあるとおもうのです。そしてこんなところが古武術や合気道の身体操作に通ずるところがあるとおもうのですよね。

 

 ぎっくり腰をやっちゃって治りかけてきたとき、まだ怖いし痛みも残っているから恐る恐る立ち上がっていたところ、テレビなんかを見ていてお茶でも飲もうかと、ついうっかりふいに立ち上がってみたら、これまでが嘘のようにスムーズに立ち上がれて、立ち上がった後になってΣ(゚Д゚)びっくり、なんともないっ!

 

 もう治ったのかとおもってわざわざもういちど座りなおしてから再び立ってみると…やっぱり痛いじゃんっ!なんだよっ!!という経験ない?

 

 これも「忘れる」ということの力、一見必要だと思われているところにだけ力を出す、集中するのではなく分散・共調させるということの力なのではないでしょうか。

 

デフォルト・アンコンシャス・モード

 難題に取り組み、調べても調べても、考えても考えても、試しても試しても打開策が見出せずなんの進展もないそんなとき、なにも考えずお風呂に入っているとき、あるいは寝ようとおもって横になったとき、そんなときにふいに天啓のようなひらめきがやってきたという経験や、そんな偉人のお話をいくつも聞いたことがあるでしょう。

 

 これは現在では「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれ、その仕組みが解明されつつあります。

 

 まったく知識がないというのでは難問を解くもひらめくもなくお話にならないでしょうが、力を発揮するには"集中"だけではだめで、むしろ集中しないこと、意識しないこと、「忘れる」ことが必要なのではないでしょうか。

 

 そもそも普段カラダを動かすときって意識してないよね?

 「指よ動け!」「前進だ!GO!」とかね。

 ロボットの場合はプログラムで逐一指示してあげないといけないでしょ。それってバリバリ意識的なことなのではないかとおもうのです。

 もしかしたら人間の場合も無意識下でプログラム走ってるのかもしれないけど…でも無意識に意識的に体を動かせるってすごくない?

 

 ふだんから100%の筋力を発揮できてしまうと身体損傷著しく危なっかしいから、ふだん発揮できる筋力は制限されているけれど、「火事場のクソ力」のようにいざとなったら発揮される無意識な潜在力。人体ってすごいよね。

 

なぜ「忘れる」と力が出るのか?

 理屈としては、相手(仕太刀)にこちら(打太刀)の力の出所を悟らせない、意識しないことでカラダ全体を共調させることができ、「忘れる」ことで無理のない動きが実現できるということのようです。

 

 ですから技の解説映像などで「相手の力を利用する」と言われたり、実技・実演のときに相手に「もっと強く力いっぱい握ってください」などとうながすのは相手の力を一点に集中させることでよりこちらの力の出所不明感を強調し、技がかかりやすいようにするためなのではないかなぁ~と解しました。

 

膝と肩が肝!

 近現代においてもなお古武術家や合気道家が動きやすいズボンではなく袴を好むのは、単に伝統やしきたりだからというだけなのではなく、膝の動き、膝の使い方が非常に重要で技を盗まれることを恐れてのことだというようなことを聞いたことがあります。

 

 膝とともに重視されているのが肩。

 それも肩甲骨。

 膝と肩甲骨に共通しているのは他の部位と比べて関わる腱や骨、筋肉が多いということ。

 そしてそのために可動域が広く、思いのほか繊細な部位であるところです。

 

 膝や肩甲骨は複数の要素が絡み合っている部位であるために、そこを操作できるようになればカラダ全体も操作できるようになるということもあるのでしょうが、そのような部位であるために初動を含め動きを消す・隠す、膝や肩甲骨の中になじませることができ、相手に動きを気取られることなく動くことができるということもあるようですよ。

 

意識することで忘れる(?)

 甲野さんの身体操作を解説されている映像を見ていますと、膝や肩甲骨に加え、「指の形」についてもよく解説されています。

 ときにそれは九字護身法(九字印:臨兵闘者皆陣烈在前)や仏像の印相などを彷彿させます。

 指の形によってカラダの"遊び"がなくなりカラダを使えるようになるのだそうです。

 

 形、またはある種の型と言われるものには、身体操作において必要であるということもあるでしょうが、特に非熟練者にとっては、たとえば意識を指の形にもっていくことで「忘れる」、力を加えたいところへの意識をなくする効果もあるのではないでしょうか?

 

 膝や肩甲骨についても同様に、複雑な要素が絡み合う部位であるために、その操作が肝であるということもありましょうが、特に非熟練者においては複雑な要素が絡み合う部位であるからこそ容易に自在には動かせないところであり、そのような部位を意識するということは非熟練者にとっては意識を分散させるということに寄与し「忘れ」られる、意識しないようにできるという効果があるのではないかとおもいます。

 

忘れたままでいることの難しさよ

 古武術家や合気道家の解説映像を見ておりますとbefore・afterのように技を出す前に、まずは筋力に頼った場合にはどうなるかを見せ、その後、技を使うと…という順番で解説されます。

 

 そしてこの技をかける前、このときにやや間があることが多く(塩田剛三さんではそのようなところが見られず即座にかけられますが)、そのとき、視線をややそらして、なにやらちょっとぼんやりとした雰囲気になられることが多いような気がします。

 

 このときに意識を移しているというのか、意識しないようにというのか、極端な言い方をすれば忘我、我を忘れようとしている(?)ようにも見えます。

 

 古武術や合気道の熟達者で総合格闘技に参加されている方はいらっしゃらないのではないかとおもうのですが(…いるのかな?格闘技って見ないからわからないですけれど)、それは速い打撃の応酬のなかでは技を出すのに必要な意識を移す時間をもつこと、「忘れ」続けることが難しいからなのではないかとおもいました。

 

 でも乱捕というのか実践組手というのか、そういったものでは終始技を繰り出し続けているのでそんなことないかぁ…。

 

 でもだとするとなんで総合格闘技に出てこないのでしょう?

 

歩くことの難しさ

 古武術ではチカラを発揮したいとき、技を仕掛けるとき、踏ん張ら"ない"ことが肝要であると言われます。そればかりか甲野さんは「膝を抜く」「膝を抜いて宙に浮いているような感じ」にするといったようなことをおっしゃっておられます。

 

 「膝を抜いて宙に浮く」

 

 そう、それはまさにFUJIWARA原口さんのおっしゃるように「背骨を抜いたら立ってられへん」のごときものです。

 宙に浮いていては踏ん張るどころか一歩踏み出すこともままならないでしょう。地に足をつけ、地に足がついているのに地に足がついていない…まるで禅問答のよう。

 膝を抜いたままどう歩いたらいいのでしょう?どう動いたらいいのでしょうか?

 

 これが「歩けばそれ即すなわち武」(塩田剛三)ということに含意されていることなのかもしれません。

 この言葉には心の持ちようについて説かれているところもありつつ、実利、「居(い)つかず歩ける歩法を身につけよ」ということをも含蓄しているのではないでしょうか。

 

歩行困難?

 この点、歩くというのは走ることよりも難しい。

 動く・動かすということのなかで最も基本的動作にして最も難解な所作なのではないかとおもいます。

 

 膝を抜いて上肢・手や腕を動かすということは、実際にはできなくとも想像はできるでしょう。

 

 たとえばジャンプして足が地面から離れてカラダ全体が空中にあるときに手や腕を動かすというような感じです。

 また走っているときには慣性力や勢いなどがはたらいていて、踏み込む瞬間に次の足、次の足…と重心を移していく感じ。

 

 対して歩くとなると勢いはなく、踏み込む瞬間に次の足、次の足…とすると走っちゃってるし…ゆっくり動きつつ体重を支えようとしたときにはもう次の足へと踏ん張らないようにゆっくりと重心を移して…どころか、そもそも最初の一歩どう踏み出せばいいの?動けない…。

 

集中忌避

 ちょっと人体からはなれて脇道へとすすみます。

 

 労働集約や資本集約、特定産業への資金注入・投下、分業化の進展・普及による個人の技能の専門化、メジャーによる独占、富の偏在によって生じる格差、モノカルチャーなどなど、雇用の流動性は低く産業ごとに発想は固着してイノベーションが起きづらく、集中や専門性を高めることで生産性等が上がり、安定が得られるかとおもいきや時宜にかなわず対応できずに不確定要素が増しますます不安定化。

 

 かならずしも集中することが悪いわけではありませんが、あまりにも"集中"することばかりを重視し、専念し、信奉しすぎてきてしまったのではないかと感じます。

 

 勉強や稽古のときなど「集中しろ」とはよく聞かれますが、そんなに集中ばかりはしていられません。そもそも集中するということは動物にとっては不自然なことなのだそうです。というのは、たとえば草食動物が餌である草を食べることに集中していては捕食者である肉食動物の接近に気づかず捕食されてしまう危険があります。というようなことをテレビで聞いて納得させられた記憶があります。

 

過集中民族「日本人」

 日本人は集中しすぎだとおもう。

 

 集中することを信奉しすぎているとおもう。

 

 集中すると視野が狭まります。

 

 それは物理的にも精神的にも、…また知りうる世界についても。

 

 そうして余裕がなくなって人生も発想も貧困化していくのではないでしょうか?

 

 …だからもっと休もう。

 

 休むことに罪悪感をおぼえることなく休めるようにしよう。

 

 今よりほんのちょっとだけ、ほんのちょっとだけ集中するということに対して嫌悪する気運を高めて、今よりもっともっと、もっとも~っと休むことが尊ばれるようにしよう。

 

どんでん返しの「注意力集中のススメ」(?)

 最後に、ここまで述べてきたことをきれいさっぱりぜんぶまとめてひっくりかえすようなことを言います。

 ここまでは「忘れる」だとか「意識しない」だとか、そんなことの大切さ、そうすることで発揮される力といったようなことを話してきましたが、古武術や合気道では「母指球を意識する」だとか「足の親指が大事。足の親指が使えるように意識しましょう」だとか、手を添えていただいて相手に技をかけるようなときには「はい、ここに意識を集中してみましょう」とか言われることもあります。

 

 どうやら技を体得する過程で、はじめなぜかはわからないけれど技がかかる、意識しないでやるとうまくゆくという段階があり、その事象・状態の考察をすすめて理にかなった身体操作とはどういうことかを究明&体得するという段になると、そのときは意識して技を繰り出せるようになり、より強力かつ抑揚のきいた・コントロール可能な技へと昇華されるようです。

 

 これってなんだか「守破離」っぽくない?

 また意識して技を繰り出せる状態になると、ゆっくり、ゆ~っくりと技を効かせてゆくこともできるようになり、これってなんだから"走る"ことから"歩"けるようになってゆく過程のようでもあるとおもわれませんか?

 

 いやわからないよ実際のところは。ただの推測だから。

 

 以上、参考にならない妄想考察記でした。

ルールを守る必要のないひとがつくるルール

「部外者」のルール

 企業や学校など、その組織内の規則を決めるのは常にその規則の「外に」いるひと。

 

 自分はその規則の適用範囲外の安全圏にあるものだから平気で不合理な規則をつくったり、それが非合理的な規則であることに気づかないし気づけない。

 

 そのことに気づいていたり、もうとっくに時代遅れの時代錯誤な代物になっていることを認識しつつもその規則を変えようとはしないルールブックメーカーがおりますが、それは多少の効率化や生産性といったものを犠牲にしようとも固持したい支配体制、ルールの外という安住の地を手放したくはないという欲求がはたらいているから。

 

 誰が自ら好んで自らを縛り付けようとおもうでしょうか。誰が自らすすんで窮屈な場に身を置くことを望む者がいるでしょうか。

 

 こうして常に現場との間に溝が築かれます。

 

アブナイ制服

 規則の外、規則の上にいる、いわば特権階級が規則をつくるというこれまたいわば非民主的なものであっては、その規則のもつ効果・性質は抑圧や制圧、制限や拘束力、枷や支配の道具といった域を出ないでしょう。

 

 最終的な決定権を持たないお飾りの形骸化した生徒会、理にかなった適切な現場判断を現場経験のない無知な役員が否定し判断を下す会社、このような組織でよくみられるのが動きを制限する制服、シュレッダーに巻き込まれるのではないかとひやひやする首から下げるタイプの身分証(←胸ポケットにクリップや安全ピン(安全ピンってぜんぜん安全じゃないよね)でとめるものもありますが、デスクワークならまだしも工場かなんかの物を抱えたり全身を使うような職場ではそれでも危なっかしいでしょう。なぜ胸や肩口前面とかにクリアケースみたいなのを縫い付けて(それはまるで定期入れのように)ラミネートした身分証を差し込むようなデザインにしないのでしょう?私服では難しいけれど制服ならそういうデザインにした方がいいんじゃない?柔らかい透明なプラスチックケースなら縫い付けられるし洗濯もできるでしょう?なのになんで?できないの?それとも思いつかないの?)などなど。

 

 どの制服を採用しどんな風に名札を付けるかなどを決める裁量権も(同じ制服は着ているのかもしれないけれどそれでも)現場仕事はしないからわかっちゃぁいない経営者が握っているからなのではないでしょうか。

 

「規則の民主化率」という試験

 その規則が合理的で世の流れに合うものであるかどうか、どれほど整合性がとれているかの指標として、その規則をつくったひと、規則の追加・改廃の権限を有するひとがどの程度その規則の「内」にあるか、守らなければならない規則がいくつあるか、関係する規則・拘束される規則がどれぐらいあるのか、といったもので測ってみるというのはどうでしょうか。

 

 これを「規則の民主化率」とでも名付けてはったりかましてしまいましょうか。

 

 あなたの所属する組織、それは学校であるかもしれないし会社であるかもしれない、そこで定められている規則、その校則や社則のなかに先生や経営者が守らなければならないルールがどれくらいあるでしょうか?

 先生は制服を着ていますか?前髪が長かったり結んでいなかったりしませんか?終業後の余暇にまで口を出していませんか?

機能・形態・デザイン

生活感のない設計

 加湿器のタンクってなぜにどれもこれも縦長なんでしょう?

 

 縦に長いものだからシンクで給水しづらいったらありゃしない。

 

 いったんヤカンかなにかに水をくんで、それを介して給水すればいいのでしょうけれども、1アクション多くてめんどうだわ。

 

 加湿器を設計しているひとは自分で給水しているのかな?と疑いたくなる。

 掃除機同様加湿器も男が設計しているのではないかと疑っています。

(女の設計した掃除機もあるでしょうけど…)

 

発想はこのように

 空気清浄機能つき加湿器なんかだと大きなファンを設けつつ、とはいえ場所は取らないように極力小型でスリムな設計にしたいから、給水タンクは縦長でサイド面にってことなんでしょうけれど…にしたって給水口と注水口を別にして横長タンクにするだとか(←給水口と排水口が別だと運転中に加湿器を稼働させながら給水が可能となるんじゃない?そもそもヤカンやなにかを介して給水しなければならないとしたら、給水タンクっている?なくていいんじゃない?)、洗濯機だってななめドラムなんてのも珍しくはなくなってきたことですし、加湿器のタンクだってななめのものがあってもいいでしょうに…。

 

斜め上いくデザイン

 横ならまだしもななめて…て思うでしょうが、タンクをななめに着脱できることにはなにかしらのメリットがあるでしょうよ~なければむりやりなんかしらメリットこじつけてしまえばいいじゃないの。

 たとえば「給水タンクの着脱がカンタン!」…だとかね。

 

 "ななめ給水タンク"はサイドから差し込むタイプでもいいし、もっと大胆にフロントのど真ん中において、そのまわりをリング式のファンがまわるなんてのも近未来的な感じのするデザインになっていいんじゃない?

 リングの内側に色とりどりのLEDライトでもつけてタンクに向かって光を照射させれば、あら幻想的なむだな電飾だこと。

 

 とにかく、縦長給水タンクっていうぶさいくデザインやめれっ!

 発想の貧困さに辟易するわっ!!

 

定着するモノのカタチ

 あるモノが普及すると、はじめは「形態は(常に)機能に宿る」という発想でつくられたようなものも「機能は形態に宿る」というような逆転現象が、つまり「こんな機能だから必然的にこんな形だよね」という発想が形式化してしまうのではないかとおもう。

 たとえば「加湿器といえばこんな形をしてて、こんな機能をもっているよね」というようにね。

 

 そしてそのデザインが"定着"という名の固着に行きつき、次から次へと発表され、続々と開発・発売される"商品"は「えっと~…どこが新しいのかな?」というようなものばかり。

 

 こんなふうに思っているのはわたしだけではないのではないかとおもうのですが、いかがかしら?

 

デザイナーはどこいった?

 とかく「おしゃれな見た目」ということに目を奪われているデザイナーが多すぎるのではないかしら。

 

 見た目でなく利便性をつきつめて形態を"つくる"…のではなくて"見つける・発見する"デザイナーが増えてほしい。

 大理石の中に眠る形を掘り出す彫刻家ロダンのような(といってしまうとハードルが高く高くそびえ立って萎縮させてしまうかもしれないけれど、単に言葉の綾として)デザイナーが。

 

 利便性を追求した先には単に機能的であるということだけでなく、そこにはきっと美があるとおもう。茶の湯のような。