おやじギャグというものがありますが、オヤジが「おやじギャグ」を言ってしまうのは脳機能の低下による"抑制の効かなさ"によるものなのだそうです。
年寄ると下とおなじでゆるくなってしまい何かの拍子でついつい放出されてしまうものなのでしょうね。
単に「ギャグ」が好きだという方もいらっしゃるでしょうから個人差があるのでしょうけれども、ただ、「おやじギャグ」が好きだという女性はあまり、というか滅多におりませんから性差は有意にあると思われます。
「おやじギャグ」表象文化論
おやじギャグを言ってしまうのは一般的に、また名称からいっても"おやじ"、中高年男性です。「ギャグ」ではなくわざわざ「おやじギャグ」と呼称されるほどですから異性、つまりは女性や他世代、特に若年層には疎まれている傾向があり、概ねウケても受け入れられてもいないことは間違いないでしょう。
にも関わらず世の中には、とかくこの日本社会においてはいたるところで"おやじギャグ"がはびこっています。そればかりかテレビコマーシャルや商品名など、ちたまの巷を大手を振って闊歩していらっしゃること、これ如何に?
「おやじギャグ」のある風景:意志と表象としてのオヤジ
するとわたしにはこんな光景が思い浮かぶのです。ほわんほわんほわんほわわわわぁ~ん…
「この新商品/新サービスをリリースするにあたりなにかよいネーミングはないものだろうか?」と、比較的年配、場合によっては役職者上司。
本人が思いつくものは自分では"複数の言葉を掛け合わせた印象的で知性をもうかがわせるキャッチーでインパクトのあるネーミング"だと誤解誤認した実質ただの"おやじギャグ"なもの。
対して新商品のターゲット層でもある比較的若年部下が提案するのは、まったく意味はなさないけれども半濁音が入って抜け感のある音の小気味よいもの、あるいは無味乾燥気味ではあるけれども気負いのない時代にあったセンスのよいもの。
この若手部下の提案する名前を見て"おやじ"な上司が下す裁定は「インパクトがない!」とか「もっと真剣に魅力の伝わる名前を考えてこい!!」だとか否定的で的外れな見解を示して却下。
結果、自分が考えた「おやじギャグネーム」か、決定権をもつものであれば他の"おやじ"が提案してきた「おやじギャグネーム」。
結局のところネーミングの発案段階やネーミングの決定を下す段階のいずれかで、どこからともなくどこにでも"おやじ"は顔を出し、その厚顔をド~ンッ!と押し出して、だれも彼を否定できないことをいいことに、本人に自覚がないことが多いのだけれど、その立場の威光を笠に「おやじギャグネーム」を押し通してしまう。そんなもはやハラスメントにも近い強権が発動されてしまうから「おやじギャグ」を好む人種は少数ながら大勢を占め、「おやじギャグ」が跋扈し続けてしまうのだ。
…といった光景。
構造主義的「おやじギャグ」
おやじギャグな商品名ってそれを提供する側もそれを受ける側においても、だれにとってもハラスメント的なところがあるよねーと、おもうことがある。というのも営業マンはどれだけ緊迫した状況でもその間の抜けた言葉を口にせねばならず、また消費者は格好をつけたいようなときであっても一瞬にして形無しにしてしまうことがわかっていてもその不格好な音を発せねばならないのですから。
激昂しているお客のクレーム対応している営業マンや(これはおやじギャグではないけれども変てこネームってことでイメージしやすいとおもうのであげるのだけれども→)日本の高級フレンチ店で詩情豊かで仰々しいメニューを言わされるゲストのことをおもってもみなさいよ。
そうだというのに「おやじギャグ」が市民権を得ているのは、日本社会が未だ比較的高齢男性が牛耳る社会で、オヤジ達が"活躍"という名の”居座り”を続けていて一向にアップデートしない遅々として変化しない流動性の低い硬直したものであるからで、「おやじギャグ」の跋扈はそんな日本社会の象徴のようにおもえてならないのです。
この文章内にも「ちたまのちまた」や書名をもじった見出しを使っていたりして「おやじギャグ」とも断定されうる言い回しを多用しているので「おやじギャグ」を全否定したいわけでもそうすることもできないわけですけれども、自分のことはちゃっかり棚に上げさせていただきまして日常的についつい「おやじギャグ」を発してしまう”おやじ”には「若者に気を使わせるのもほどほどになさいな」、若者のその笑顔の多くは愛想笑いなんだけど…それ見えてる?自分の「おやじギャグ」の出来にご満悦で若者の方を見ていないんじゃあないのかい?と一度みずからを省みていただき、日本の硬直性の軟化がちょっとでもすすんでくれたらいいなあとおもいます。