あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

注意力散漫のススメ:忘れることで発揮される力

 最近、特に20代から50代にかけてパーソナルトレーナーをつけてカラダをつくることが流行っているらしい。テレビを見ているとそんな気がする。CMやバラエティ、情報番組など、その手の話を聞かない日がないというほどあふれているでしょう?

 

 そんな映像を見ていていっっつもひっかかるのが「意識してっ!」っていう掛け声。トレーニングに励んでいるようなときには「どの筋肉を使っているか意識して。ここに力入れて…」、ダイエットに勤しんでいるようなときには「今日なにをどれぐらい、どのタイミングで摂ったかを意識して…」といった風に。

 

 でもそれってどうなのかな?

 食事に関してはそれほど違和感ないのですが、運動については…。

 

カラダを忘れてみる

 カラダってごく一部の筋肉を動かして動かしているわけではないでしょぅ?なのにそれをムリに意識させて鍛えさせるというのは、本来、複数の筋肉、それこそすべての筋肉が連動して無理なく動かせているものを乱して、その協調性や調和といったものを崩して不自然で危険な動きへと導いているのではないかとおもうのです。

 

 古武術研究家の甲野善紀さんはある著書で「西洋式のトレーニングはカラダを鍛えているのではなく壊している、筋トレは筋繊維を傷めることを"鍛える"といっている」のだというようなことをおっしゃっていました。

 

 古武術や合気道は体捌、身体操作、カラダの使い方を追求するものです。

 ときに筋力ではひっくり返すことのできない大男でさえ、その身体操作によっていとも簡単にひっくり返してしまいます。

 この意味で古武術や合気道は西洋型のトレーニング理論に比べて腕力は劣るものの体力で勝るものなのではないかとおもっています。

 

 話はそれますが、昨今のオリンピックで国際競技となり、いつしか畳に相手の背中をつければ一本となるレスリング化した柔道を目にすると「こうなったら古武術家や合気道家を出してポンポン投げ飛ばして「相手の背中を畳につけりゃ~いいんでしょっ?それじゃあこれでもいいんでしょっ!」と、世界の度肝抜いてきてもらおうよぉ」と4年おきに妄想オリンピックを開催しております。

 

忘れるチカラ:忘れた後に効いてくる

 甲野さんや日野晃さん、塩田剛三さんなどなど、古武術や合気道などにおける身体操作についてできる限り言語化しておられる方々の口から、時折、聞かれるのが「忘れる」という言葉。

 その技によってひとをふっとばしたり、指1本で制圧したりできるのはヤラセでも特殊能力でもなく、種も仕掛けもある誰にでも体得しうる技能であり、その技を繰り出すときに「~を忘れて…」といったような感じで。

 

 「忘れる」というのは、たとえば羽交い絞めにされたとき、なんとか抜け出そうと持てる力を振り絞ってもがくのではなく、相手に固められているところを意図的に意識しない、「忘れる」ということ。

 他にも、相手に手首を強く握られてどうにも動けないというようなとき、ふつうなら腕を振ってなんとか相手の手を振り払おうとするところを、相手に手首を握られていることを「忘れる」。右手首を相手に握られていたとしたら「(右手首を)忘れる」。

 

 そうして「忘れて」一歩踏み出してみると…

 

 あらっ!不思議。

 

 腕をつかまれたまま手をつかんでいる相手とともに二歩三歩と容易く前進できてしまう。

 

意識過剰

 自意識過剰は疎まれるものですが、意識過剰というのも注意が必要なようです。

 

 たとえば固く締まって開けられなくなってしまったビンのふた。これを開けようと何度もトライすれども開かず。「もうだめだ。あきらめよう」とおもって最後に何気なくひねってみたら開いちゃったっ!というようなことがないでしょうか?

 

 単に少しずつ緩んでいてたまたま最後に開いたというだけのことかもしれませんが、このほかにも諦めたときにうまくいったというようなことがあるとおもいます。

 

 これって余分な力が抜けてというのか、力を集中させないことでかえってカラダ全体を協調させて力を発揮することができたからということもあるとおもうのです。そしてこんなところが古武術や合気道の身体操作に通ずるところがあるとおもうのですよね。

 

 ぎっくり腰をやっちゃって治りかけてきたとき、まだ怖いし痛みも残っているから恐る恐る立ち上がっていたところ、テレビなんかを見ていてお茶でも飲もうかと、ついうっかりふいに立ち上がってみたら、これまでが嘘のようにスムーズに立ち上がれて、立ち上がった後になってΣ(゚Д゚)びっくり、なんともないっ!

 

 もう治ったのかとおもってわざわざもういちど座りなおしてから再び立ってみると…やっぱり痛いじゃんっ!なんだよっ!!という経験ない?

 

 これも「忘れる」ということの力、一見必要だと思われているところにだけ力を出す、集中するのではなく分散・共調させるということの力なのではないでしょうか。

 

デフォルト・アンコンシャス・モード

 難題に取り組み、調べても調べても、考えても考えても、試しても試しても打開策が見出せずなんの進展もないそんなとき、なにも考えずお風呂に入っているとき、あるいは寝ようとおもって横になったとき、そんなときにふいに天啓のようなひらめきがやってきたという経験や、そんな偉人のお話をいくつも聞いたことがあるでしょう。

 

 これは現在では「デフォルト・モード・ネットワーク」と呼ばれ、その仕組みが解明されつつあります。

 

 まったく知識がないというのでは難問を解くもひらめくもなくお話にならないでしょうが、力を発揮するには"集中"だけではだめで、むしろ集中しないこと、意識しないこと、「忘れる」ことが必要なのではないでしょうか。

 

 そもそも普段カラダを動かすときって意識してないよね?

 「指よ動け!」「前進だ!GO!」とかね。

 ロボットの場合はプログラムで逐一指示してあげないといけないでしょ。それってバリバリ意識的なことなのではないかとおもうのです。

 もしかしたら人間の場合も無意識下でプログラム走ってるのかもしれないけど…でも無意識に意識的に体を動かせるってすごくない?

 

 ふだんから100%の筋力を発揮できてしまうと身体損傷著しく危なっかしいから、ふだん発揮できる筋力は制限されているけれど、「火事場のクソ力」のようにいざとなったら発揮される無意識な潜在力。人体ってすごいよね。

 

なぜ「忘れる」と力が出るのか?

 理屈としては、相手(仕太刀)にこちら(打太刀)の力の出所を悟らせない、意識しないことでカラダ全体を共調させることができ、「忘れる」ことで無理のない動きが実現できるということのようです。

 

 ですから技の解説映像などで「相手の力を利用する」と言われたり、実技・実演のときに相手に「もっと強く力いっぱい握ってください」などとうながすのは相手の力を一点に集中させることでよりこちらの力の出所不明感を強調し、技がかかりやすいようにするためなのではないかなぁ~と解しました。

 

膝と肩が肝!

 近現代においてもなお古武術家や合気道家が動きやすいズボンではなく袴を好むのは、単に伝統やしきたりだからというだけなのではなく、膝の動き、膝の使い方が非常に重要で技を盗まれることを恐れてのことだというようなことを聞いたことがあります。

 

 膝とともに重視されているのが肩。

 それも肩甲骨。

 膝と肩甲骨に共通しているのは他の部位と比べて関わる腱や骨、筋肉が多いということ。

 そしてそのために可動域が広く、思いのほか繊細な部位であるところです。

 

 膝や肩甲骨は複数の要素が絡み合っている部位であるために、そこを操作できるようになればカラダ全体も操作できるようになるということもあるのでしょうが、そのような部位であるために初動を含め動きを消す・隠す、膝や肩甲骨の中になじませることができ、相手に動きを気取られることなく動くことができるということもあるようですよ。

 

意識することで忘れる(?)

 甲野さんの身体操作を解説されている映像を見ていますと、膝や肩甲骨に加え、「指の形」についてもよく解説されています。

 ときにそれは九字護身法(九字印:臨兵闘者皆陣烈在前)や仏像の印相などを彷彿させます。

 指の形によってカラダの"遊び"がなくなりカラダを使えるようになるのだそうです。

 

 形、またはある種の型と言われるものには、身体操作において必要であるということもあるでしょうが、特に非熟練者にとっては、たとえば意識を指の形にもっていくことで「忘れる」、力を加えたいところへの意識をなくする効果もあるのではないでしょうか?

 

 膝や肩甲骨についても同様に、複雑な要素が絡み合う部位であるために、その操作が肝であるということもありましょうが、特に非熟練者においては複雑な要素が絡み合う部位であるからこそ容易に自在には動かせないところであり、そのような部位を意識するということは非熟練者にとっては意識を分散させるということに寄与し「忘れ」られる、意識しないようにできるという効果があるのではないかとおもいます。

 

忘れたままでいることの難しさよ

 古武術家や合気道家の解説映像を見ておりますとbefore・afterのように技を出す前に、まずは筋力に頼った場合にはどうなるかを見せ、その後、技を使うと…という順番で解説されます。

 

 そしてこの技をかける前、このときにやや間があることが多く(塩田剛三さんではそのようなところが見られず即座にかけられますが)、そのとき、視線をややそらして、なにやらちょっとぼんやりとした雰囲気になられることが多いような気がします。

 

 このときに意識を移しているというのか、意識しないようにというのか、極端な言い方をすれば忘我、我を忘れようとしている(?)ようにも見えます。

 

 古武術や合気道の熟達者で総合格闘技に参加されている方はいらっしゃらないのではないかとおもうのですが(…いるのかな?格闘技って見ないからわからないですけれど)、それは速い打撃の応酬のなかでは技を出すのに必要な意識を移す時間をもつこと、「忘れ」続けることが難しいからなのではないかとおもいました。

 

 でも乱捕というのか実践組手というのか、そういったものでは終始技を繰り出し続けているのでそんなことないかぁ…。

 

 でもだとするとなんで総合格闘技に出てこないのでしょう?

 

歩くことの難しさ

 古武術ではチカラを発揮したいとき、技を仕掛けるとき、踏ん張ら"ない"ことが肝要であると言われます。そればかりか甲野さんは「膝を抜く」「膝を抜いて宙に浮いているような感じ」にするといったようなことをおっしゃっておられます。

 

 「膝を抜いて宙に浮く」

 

 そう、それはまさにFUJIWARA原口さんのおっしゃるように「背骨を抜いたら立ってられへん」のごときものです。

 宙に浮いていては踏ん張るどころか一歩踏み出すこともままならないでしょう。地に足をつけ、地に足がついているのに地に足がついていない…まるで禅問答のよう。

 膝を抜いたままどう歩いたらいいのでしょう?どう動いたらいいのでしょうか?

 

 これが「歩けばそれ即すなわち武」(塩田剛三)ということに含意されていることなのかもしれません。

 この言葉には心の持ちようについて説かれているところもありつつ、実利、「居(い)つかず歩ける歩法を身につけよ」ということをも含蓄しているのではないでしょうか。

 

歩行困難?

 この点、歩くというのは走ることよりも難しい。

 動く・動かすということのなかで最も基本的動作にして最も難解な所作なのではないかとおもいます。

 

 膝を抜いて上肢・手や腕を動かすということは、実際にはできなくとも想像はできるでしょう。

 

 たとえばジャンプして足が地面から離れてカラダ全体が空中にあるときに手や腕を動かすというような感じです。

 また走っているときには慣性力や勢いなどがはたらいていて、踏み込む瞬間に次の足、次の足…と重心を移していく感じ。

 

 対して歩くとなると勢いはなく、踏み込む瞬間に次の足、次の足…とすると走っちゃってるし…ゆっくり動きつつ体重を支えようとしたときにはもう次の足へと踏ん張らないようにゆっくりと重心を移して…どころか、そもそも最初の一歩どう踏み出せばいいの?動けない…。

 

集中忌避

 ちょっと人体からはなれて脇道へとすすみます。

 

 労働集約や資本集約、特定産業への資金注入・投下、分業化の進展・普及による個人の技能の専門化、メジャーによる独占、富の偏在によって生じる格差、モノカルチャーなどなど、雇用の流動性は低く産業ごとに発想は固着してイノベーションが起きづらく、集中や専門性を高めることで生産性等が上がり、安定が得られるかとおもいきや時宜にかなわず対応できずに不確定要素が増しますます不安定化。

 

 かならずしも集中することが悪いわけではありませんが、あまりにも"集中"することばかりを重視し、専念し、信奉しすぎてきてしまったのではないかと感じます。

 

 勉強や稽古のときなど「集中しろ」とはよく聞かれますが、そんなに集中ばかりはしていられません。そもそも集中するということは動物にとっては不自然なことなのだそうです。というのは、たとえば草食動物が餌である草を食べることに集中していては捕食者である肉食動物の接近に気づかず捕食されてしまう危険があります。というようなことをテレビで聞いて納得させられた記憶があります。

 

過集中民族「日本人」

 日本人は集中しすぎだとおもう。

 

 集中することを信奉しすぎているとおもう。

 

 集中すると視野が狭まります。

 

 それは物理的にも精神的にも、…また知りうる世界についても。

 

 そうして余裕がなくなって人生も発想も貧困化していくのではないでしょうか?

 

 …だからもっと休もう。

 

 休むことに罪悪感をおぼえることなく休めるようにしよう。

 

 今よりほんのちょっとだけ、ほんのちょっとだけ集中するということに対して嫌悪する気運を高めて、今よりもっともっと、もっとも~っと休むことが尊ばれるようにしよう。

 

どんでん返しの「注意力集中のススメ」(?)

 最後に、ここまで述べてきたことをきれいさっぱりぜんぶまとめてひっくりかえすようなことを言います。

 ここまでは「忘れる」だとか「意識しない」だとか、そんなことの大切さ、そうすることで発揮される力といったようなことを話してきましたが、古武術や合気道では「母指球を意識する」だとか「足の親指が大事。足の親指が使えるように意識しましょう」だとか、手を添えていただいて相手に技をかけるようなときには「はい、ここに意識を集中してみましょう」とか言われることもあります。

 

 どうやら技を体得する過程で、はじめなぜかはわからないけれど技がかかる、意識しないでやるとうまくゆくという段階があり、その事象・状態の考察をすすめて理にかなった身体操作とはどういうことかを究明&体得するという段になると、そのときは意識して技を繰り出せるようになり、より強力かつ抑揚のきいた・コントロール可能な技へと昇華されるようです。

 

 これってなんだか「守破離」っぽくない?

 また意識して技を繰り出せる状態になると、ゆっくり、ゆ~っくりと技を効かせてゆくこともできるようになり、これってなんだから"走る"ことから"歩"けるようになってゆく過程のようでもあるとおもわれませんか?

 

 いやわからないよ実際のところは。ただの推測だから。

 

 以上、参考にならない妄想考察記でした。