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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

めでたさのわからない「おめでとう」


 ご報告が遅れましたが、あの子は無事、高校入試合格しました。

(あの子ではなくわたしの奮闘記の一端はこちら→「数字で見る!これだけは覚えておきたい高校受験生391の英単語」)

 

 それで「合格報告」と称した集金にやってきたのですが、やっぱりわからない…入学や進学、あるいは入社が決まったとき、なぜ「おめでとう」と言うのでしょう?おめでたいことなのでしょうか?

 

 「こどもの成長を祝う」であったり、「努力が報われた」ということであれば「おめでとう」ですが、江戸、明治、大正、昭和と平均寿命はのび、こどもの死亡率が下さがっておおむね無事成長することが一般的にはフツーとなった平成、選ばなければ特段の努力もなく進学できるようになった昨今、入学や入社は「おめでたい」こと?

 

 形骸化したセレモニー。暦どおりのイベントにすぎないイニシエーション。めでたさがわっからないわぁ~。

 

 ということで、あの子が集金にやってきたときも「おめでとう」のかわりに「よかったねぇ」と言うことで「おめでとう」といったかのような雰囲気を終始醸し出し、さもすでに「おめでとう」といったかのようにふるまって、その実、言わない。言ってない。

 

 成長は喜ばしいことですが…だってあの子ぜんっぜん勉強してないのですもの。

 もってうまれた運をよろこび祝えというのでしょうか?

 いややわ~。

 だから言わない。

 

 あの子にはもうちょっと先の話だけれど、「入社・就職祝い」なんてもっと「めでたさ」がわからなくなってしまいましたね。

 昔なら成長を祝うということを抜きにすれば、「家族のため、お国のため、世のため人のため、これで晴れて社会の一員、仲間入りおめでとう」といったところでしょうが、現代ではねぇ…。

 物不足社会であればまだしも物余り社会ではわっけわからん。物余り社会では「世のため人のため」も過剰供給であまってしまうのではないでしょうかね。

 

 へんくつなことを申してきましたが、「おめでとう」はやはり一番には「(健やかな)成長」を祝うものですから素直に「おめでとう」と言えばいいのです。

 

 けど…やっぱり言わない。

 3年後か7年後か9年後か11年後か、あるいはもっと先のことになってしまうのかもしれませんが、もしあの子が「就職報告」(と称した集金)にやってきても、おそらく「おめでとう」とは言わないか、あるいは出来る限り言わないように努めているのだとおもいます。