あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

Wikipediaがあれども…ことさらニーチェ


 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(愛称フリッツ)は1844年10月15日、当時、新興著しかったプロシアの領土となっていたドイツのザクセン州レッケンに生まれました。

 当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世と同じ誕生日だったためにプロシアを敬愛していたルター派のプロテスタントの牧師をしていた父カール・ルートヴィヒ(1813〜1849。36歳(ニーチェ5歳)のとき脳軟化症により永眠)によりフリードリヒ・ヴィルヘルムと名付けられました。

 母フランツィスカ(1829〜1897)は牧師の家の出身でした。

 

 ニーチェの生まれた2年後に妹のエリザーベト(1846〜1935)が、さらに2年後には弟のヨーゼフ(1848〜1850)が生まれました。

 

 ニーチェは父の死後から14歳になるまで、母、妹、母方の祖母、未婚の叔母の女性ばかり6人に囲まれてナウムブルクで育てられました。

 

 

 54年から4年間、日本の小学校高学年から高校くらいにあたるギュムナージウム(ギムナジウム)に通います。

 

 

 56年。生涯にわたってニーチェを悩ませた頭と目の痛みがあらわれます。この頃から自伝を書き始めました。ニーチェにとって痛みと思考は切っても切れない強い相関関係をもつものであるようです。

 

 

 58年。ギュムナージウムを中退し、当時のイギリスの一流パブリック・スクールと肩を並べるほどの名門校プフォルタ学院に入学して寄宿舎生活を始めます。この頃、信仰は篤かったのですがおとなしく育ったため、学校では「小さな牧師さん」と呼ばれていました。

 

 

 61年。早くに父を亡くしたニーチェにとって後に父の代わりであり心理学的洞察の源泉の1つにもなった作曲家リヒャルト・ワーグナーの音楽に楽譜を通じて触れました。

 

 

 62年。少考察『意志の自由と運命』を書きました。

 

 

 64年。ボン大学に入学し、最初は神学部に籍を置いていましたが、半年後には籍を抜き、文学部に所属して古典文献学を専攻しました。

 

 

 65年10月。フリードリヒ・リッチュル教授を追ってライプツィヒ大学に移ります。この頃、売春宿に通って梅毒に感染しました。当時、梅毒は不治の病でしたのでニーチェを診た担当医は告知しませんでした。

 また、ある古本屋に入りアルトゥール・ショーペンハウアー(1788〜1860)の『意志と表象としての世界』と出会ったのもこの頃のことでした。本の衝動買いをしないことをモットーとしていたニーチェではありましたが、このときは悪魔が耳元で囁いたのだと言っています。

 

 

 67年。戦闘訓練のためプロシア軍に召集され野戦砲兵連隊に入隊します。

 

 

 68年。落馬事故に遭い上等兵に昇格するものの除隊させられライプツィヒ大学に帰ります。そしてお忍びでライプツィヒを訪れていたワーグナーと初対面を果たしました。

 

 

 69年。ディオゲネス・ラエルティオスの文献『哲学における著名な人々および各学派に属する人々の生涯と学説の概要(ギリシア哲学者列伝)』を分析した論文を書き上げました。これを絶賛した指導教官リッチュル教授の推薦でスイスのバーゼル大学に古典文献学教授(員外教授)として迎えられました。この時弱冠24歳。学位論文を書き終えたばかりでまだ博士号も正式に取得してはいませんでした。

 この頃ワーグナーとリストの娘コージマ(この当時は指揮者ビューローと結婚していました)が住んでいたトリープシェンのルツェルン湖畔にある邸宅を初訪問します。その後バーゼルでのニーチェの住居と40マイルほどしか離れていなかったため度々ワーグナーを訪ねることとなりました。

 

 

 70年。員外教授から正教授に昇格しました。

 7月。プロイセン-フランス戦争(〜71年2月。プロイセン勝利)勃発。兵役を志願し看護兵として前線へと赴き、フランクフルトで騎兵の身につけていた記章や勲章を見て『権力への意志』のインスピレーションを得ました。

 ヴェルトの戦闘に参加しカールスルーエへ列車で移動するとき、6人の負傷兵の手当を命ぜられ家畜運搬用の貨車に2日以上鍵をかけられ閉じ込められたため、到着時にはニーチェ自身が赤痢とジフテリアに感染してしまい入院することになってしまいました。

 

 

 71年。入院から2ヶ月もたたぬうちに大学に復帰しますが体調を崩して教授職を休みます。

 

 

 72年。文壇上の処女作となる『悲劇の誕生』を出版。猛烈な非難を浴びました。

 

 

 73年。少考察『道徳外の意味における真理と虚偽』を書きました。

 また『反時代的考察』第1篇を出版。

 この頃パウル・レー(1849〜1901)と知り合いました。

 

 

 74年。『反時代的考察』第2・3篇を出版。

 

 

 76年。『反時代的考察』最終部第4篇を刊行。

 また第一回バイロイト祝祭劇にてワーグナーの『ニーベルングの指環』を聴き幻滅したのもこの年のことでした。

 

 

 78年。『人間的、あまりに人間的』第一部出版。

 

 

 79年6月。体調が極度に悪化しバーゼル大学を辞職します。視力を失いかけており、医者は読書をやめるように助言しました。しかし『人間的、あまりに人間的』第二部[上]を出版しています。

 

 

 80年。『人間的、あまりに人間的』第二部[下]を出版。

 

 

 81年。『曙光』出版。

 8月。スイス、シルヴァプラナ湖畔で「永劫回帰(永遠回帰)」の思想のインスピレーションを受けました。

 

 

 82年2月。ルー・ザロメと知り合い、5月にザロメに求婚しましたが断られました。一時期ザロメとパウル・レーとニーチェは三角関係のようになっていました。

 この頃『悦ばしき知識』第4書までを出版していました。

 

 

 83年2月。ワーグナー死去。

 この頃ジェノヴァ近くの海辺で突然『ツァラトゥストラかく語りき』の構想を得て10日で第一部を書き上げました。その後シルス・マリアにて『ツァラトゥストラかく語りき』第二部を書きました。また『ツァラトゥストラかく語りき』第1・2部を出版しています。

 

 

 84年。『ツァラトゥストラかく語りき』第3部出版。

 

 

 85年。『ツァラトゥストラかく語りき』完成。しかし出版社が見つからず私家版として出版しました。

 また『ツァラトゥストラかく語りき』第4部も完成しましたが、知人に配るだけで出版はできませんでした。

 

 

 86年。『善悪の彼岸』を自費出版。

 また『悲劇の誕生』に序文を付け加えた新版を出版。

 さらに『人間的、あまりに人間的』に新たな序文を付け加えた新版も出版しました。

 

 

 87年。『曙光』に序文を付け加えた新版出版。

 また『悦ばしき知識』第5書が完成し、これと詩「プリンツ・フォーゲルフライの歌」および序文を付け加えた新版を出版。

 さらにザロメがつくった詩にニーチェが付けたオーケストラ曲『生への讃歌』出版。

 『道徳の系譜』は自費出版しました。

 

 

 88年。『ヴァーグナーの場合』『偶像の黄昏』『反キリスト者(アンチクリスト)』『この人を見よ』そして『ニーチェ対ヴァーグナー』(ワーグナーについて以前書いた文章を自分で編集したもの)、さらに詩集『ディオニュソス頌歌』が順に完成しますが、この年に出版されたのは『ヴァーグナーの場合』だけでした。

 この頃からニーチェの評価がヨーロッパで少しずつ高まり始めました。

 しかし年末頃、友人に宛てた手紙に精神錯乱の徴候が現れ始めています。

 

 

 89年1月。イタリアのトリノ、カルロ・アルベルト広場で発狂して昏倒。バーゼルで進行性麻痺症と診断された後、イェナ大学病院精神科に入院。こうしてニーチェの執筆活動は終わりました。

 ですが『偶像の黄昏』が出版されたのはこの年のことです。

 

 

 90年。ナウムブルクで母フランツィスカと暮らし始めます。

 

 

 92年。ペーター・ガスト(1854〜1918。本名ハインリヒ・ケーゼリッツ。75年以来ニーチェを崇拝して原稿の清書など仕事を手伝っていました。87年には『生への讃歌』の編曲を担当しています)が最初のニーチェ全集を企画。

 『ツァラトゥストラかく語りき』第4部出版。

 

 

 94年。妹エリーザベトが全集の企画に乗り出してガストの企画を中止させました。

 

 

 95年。『反キリスト者』と『ニーチェ対ワーグナー』が出版(後者は89年に一度出版されましたが一般には出回りませんでした)されました。

 

 

 97年4月。母フランツィスカ死去。妹がニーチェをワイマールに引き取りました。

 

 

 1900年8月25日。ワイマールでニーチェ死去。故郷レッケンに葬られました。

 

 

 おわり。

 

 

フリードリヒ・ニーチェ - Wikipedia