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あめみか

「雨はいつもわたしのみかた。」 … 思想・哲学・世迷言からイラストまで、多岐にわたってたいへんくつに綴っています。

Wikipediaがあっても…気にせず老子

思考 思考-哲学

 漢代の史家、司馬遷の『史記』〔老子伝〕に「老子は、楚の苦県(河南省東部の鹿邑県)の厲郷、曲仁里の人である。姓は李、名は耳、字は伯陽、おくりなして耼といい、周(東周)の守蔵室の史であった。

 老子の学問は、才能を隠し、無名であることを旨とした。ながらく周に暮らしていたが、周の徳が衰えたのを見てそこを立ち去り、函谷関(散関ともいう)に至った。そこで関所役人の尹喜に請われるままに、上下二篇の書を著し、道と徳の説を五千余言に記して立ち去った。

 その後の消息はようとして知れない。

 

 老子は百六十余歳まで生きたとも、二百余歳まで生きたともいう。

 一説によれば、楚の出身で十五篇の書を著し、道家の功用を論じた老萊子という人がいて、孔子と同時代であった。この人が老子であるかもしれない。

 

 また孔子の死後百二十九年の史官の記録に、周の太史の儋が秦の献公にまみえて、秦が覇者となることを予言した、とある。人によっては、この儋こそ老子であるという。「真偽のほどは、誰にもわからない」とあります。

 

 老子の本名は李耳といい、守蔵室の官史(周王室の祖先を祀る廟である宋廟付属の書庫を管理する役人)でした。

 周を去るときに函谷関の関令(関所の長官)尹喜に頼まれて『老子』上下二篇の五千字あまりの書を書きました。この書は道と徳の二説に分かれていたため『道徳経』とも呼ばれます。

 周を去った後の消息は不明で、百六十歳まで生きたとも、二百歳まで生きたともいわれています。

 一説には楚出身の老萊子が老子であるとされ、また別の説では孔子の死後百二十九年の史官の記録に残っている周の太史の儋が老子であったとされています。司馬遷曰く、漢代において老子の素性はすでにわからなかったのです。

 

 老子の素性が不明確で諸説あるため『道徳経』の成立年代もまた不明確で諸説あります。

 司馬遷の記した『史記』中に現れる李耳が老子であるのであれば『道徳経』は戦国時代初期に著されたことになりますし、道家の書である『荘子』などに現れる老耼が老子であるのであれば春秋戦国時代末期に著されたことになります。

 

 最近の研究によれば、老子は一人ではなくおそらく道家の思想を受け継ぐ人々によってまとめられたものではないかとされています。

 

 『道徳経』は古くから八十一章に分けられていますが、他にも分章法があるため実際はどのような章分けが正しいのかわかっていません。

 

 完。

 

老子 - Wikipedia