これは「贈られた言葉」。
その中身の説明は一切なかったものの、ほんとうに嫌だったらそれが突飛であってもそれなりの行動をし、ほんとうに好きならそれが極端でも行動に移しているはず。そうでなければ、そうでもしなければ人に気づいてはもらえない。それだけのことをしてなんとかやっと人に伝わる…かもしれないという具合なのだから。と、解釈しました。
この言葉を頂いてからなにかが変わったかというと…別に変わらず。それほどおもうこともないですし。
そうして意を決して行動を起こせば何事も好転するっ!…ということはないっ。
「本気」かどうかは別にして、単純に試行回数が増えればうまくいくことも増えるというだけ。成功と失敗の相対数をみればあまり変わっていないか、あるいはやや成功割合が増しているかもしれないけれど、成功と失敗を絶対数でみてしまうと、失敗のあまりの多さに心をくじかれ、成功のあまりの少なさに立ち直れず絶望してしまうかもしれない。
言葉は蜃気楼。
時に実態を歪めて錯覚させ、失敗の道を歩ませ、実態を見誤らせるから成功へと続く道を歩ませることにもなる。失敗して崖から転落することもあるでしょう。一歩踏み出して成功することもわずかながらにあるでしょう。どちらも蜃気楼に背中を押されるということは同じかな?
蜃気楼は温度差の大きいところで発生しやすいから、だから言葉の蜃気楼が発生したところでは衝突が生じやすいのでしょうね。あなたと人との温度差が激しいからね。
名言や語録というのは、言った本人よりも聞いた誰かの方がよく覚えていて、またよりよく実践しているもの。
だけど効果は言った本人を超えないもの。
新規性や先進性がもはやなくなり、後追いということもあるのでしょうね。
でもやはりそれ以上に、結局は運なんだろうねぇ。同じことをしてもうまくいくタイミングとうまくいかないタイミングがあるし、そのひと個人には最適解であっても他の人には最悪回の最終回になってしまうこともありますからね。
天才と狂人は紙一重などといいますが、名言と迷言にもそれほどの隔たりはないのではないかとおもいます。心に刺さるかどうかは"それを言っているのは誰か"というところに多分に負っているような気がします。
ということで、名言も迷言も半分聞き流すぐらいでちょうどいいのではないかなかぁ?
これを敷延して、ひとの話しは半分だけ聞くようにするのがちょうどよい!のだとおもう。
真面目なひとは全部"ちゃんと"聞こうとして、ほんとうに全部聞いちゃうでしょう?なかには言ってもないことまで"ちゃんと聞いちゃう"ひともいるでしょう?それじゃあ疲れちゃうよ。ひとの話しは半分以上は聞くもんじゃない。終業時間のように5時(定時)過ぎたら耳塞いじゃいなぁ。「聞く耳の残業も禁ず」…なんてね。
ほらっ!もう5時だよ。みなさん耳を塞いではやくお家へ帰りましょう。
本気になれば帰ることもできる!変えることもできるっ!
而してこれは名言か?おそらく多分に迷言よ!
じゃあね~バイバ~イ。