日本は今、さまざまな問題を抱えています。
なかでも喫緊の課題は「国防」。
この国防にもまたさまざまあります。
国防というと銃弾飛び交い資源や領土を奪い合うドンパチ繰り広げられた光景を思い浮かべる方も多いでしょう。
たしかに日本近海では東シナ海の緊張が高まっており大きな問題ではありますが、ただこの問題はいつ起こるとも知れず、また運よく終息するかもしれない不確定なものです。
対してこちらの問題は数十年前からこの日がやってくることがわかっていた問題で、ついにやってきてしまった問題。およそ国防問題としては扱われませんが、その問題とは…少子化問題。
異常な平和のなかで
統計や医療の発達によって認知件数が増えたからというのも要因の一つなのでしょうが、食品添加物の汎化や慢性的なストレスの増加によるものもあることでしょう。不妊件数の増加。
男女ともに増えている不妊や晩婚化も少子化に寄与しています。
少子高齢化で若者の割合が低下。
どの世代も少なくはないですが、特に目立つ若年層の自殺者の多さと高齢層の長寿化でさらに少子高齢化に拍車がかかっているのが現状です。
日本の交通事故における重傷事故件数は毎年4万件ほど。
日本の交通事故死亡者数(30日以内)は毎年5千人ほど。
日本の自殺者は毎年2万5千人ほど。(不審死を含めると15万人を超えるともいわれています)
シリア内戦5年間のうちの死者は50万人ほど。
世界の紛争による年間の死者は17万人ほど。
日本は内乱か戦時中のごとき数値をあげています。
今まさに「生き方革命」中か「生存競争」戦時下にあるかの如き異様な"平和"のなかに日本はあります。
post-truthの感情論:正しさの背景を見誤るエリート
格差や貧困問題への意識が年々高まるなか、2016年は「エリート主義の誤認」が世界各地で見受けられました。
距離や時間の近いものでいえば、お隣、韓国の財閥系企業経営者の子女の言動が例にあげられるでしょう。
より一般的な例では、イギリスのEU離脱を決める国民投票やアメリカ大統領選があげられます。
いわゆるエリートに言わせれば「経済的にはこちらの方が正しいというのに、それがわらかずあちらを選んでしまうとは…」という嘆き、呆れ、憤慨させるような事例が世界各地で頻発したのですが、この「正しさ」はエリートや富裕層、現行の貨幣制度の恩恵を受けているか、またはそれに賛成する賛成派の価値観のもとでの観測であって、非エリート層や貧困層、現行の貨幣制度の恩恵を受けていないか、またはそれに反対している反対派の価値観のもとでは正しくはなかったのです。
世界に目を向けていて内の二極化が見えていなかったようです。
昨年のこのような風潮を反映して、オックスフォード英語辞典は世界の2016年の言葉として「post-truth」を選びました。
しかし「ポスト真実」というのはまた因果なもので、ポスト真実というのもまたポスト真実な視点なわけで、ポスト真実はポスポスポスポス無限後退するのです。
「post-truth」と発する側は自らの側が正しく、また真実なのであって相手方は感情的になって誤った判断をしているのだと断罪する感情論であることに、post-truthという感情論であることに、post-truthではなくposition-truthであることに、どうやらまだ気づいてはいないようです。
無機質な事実はあっても、微塵も感情の入り込まない真実が、これまで1つとしてあったでしょうか?
正しさは真実です。正しさは事実ではありません。
政治にもっとも関心をよせるのは政治を仕事にしている人
選ぶ政党もなく投票したところで日本の政治は変わらないと漠然と、しかしながら強く信じられていることもあってか、若者は政治に関心がないと言われます。
たしかに多くの若者は政治に関心を示さないことは事実でしょう。
しかしながら、若者には政治に関心をもつに足る可処分時間がないこともまた事実でしょう。
これは若者に限ったことではないのかもしれません。
高齢者であっても可処分時間がないために明日を生きるため、生活していくためには収入の得られる労働を選ばざるを得ない状況に追いやられてしまっているという方がすくなくはないのではないでしょうか。
こうなると政治に関心を向けるには、政治を仕事にしていなければ難しいのではないかとさえ思われてきます。
政治家はほんとうに投票率があがることを望んでいるでしょうか?
「このままがいい。アメリカやイギリスのように自分たちの想定外が起きづらい、post-truthを招かないこのままが…」と思っていやしませんかねえ?思ってますよね?
運頼みの政策
人口が減少し若者人口が低下すれば自国で兵站を賄うことができなくなり、社会保障費がかさむ一方で税収は落ち込み、経済活動はますます冷え込んで国として立ちゆかなくなってしまいます。
「戦争のために若者が必要!」だとか「年長者の生活をだれが賄うというのか?」ということではなくって、その国の人の営みが停滞して広い意味での"文化"が失われ、末は亡国に至るでしょう。ということです。
政争に明け暮れて先延ばしにし続けてきた少子化問題。
バブルが弾けてのたうちまわり、長く続くデフレであえいでいるこんな余裕のない「ここで?」というなんとも遅すぎるこのタイミングでやっとこ重い腰をあげた…のかな?という、それでもまだ「かな?」にとどまっているスピード感のなさ。
年金制度なんかもそうですが、多くの政策が制度設計の段階で将来経済が低迷することや横ばいになることを勘案していない楽観的なシロモノで、ほころびが出てくると結局のところ問題解決の決定打は運任せの「経済が好転すれば…」を口実に、あの手この手で制度の延命策がはかられてきました。
少子化問題解消方案もすでにもう概ねこのラインに乗っています。
「経済が好転すれば…」を前提に改善するだろうとの予測のもとでの「改革に待ったなし!」宣言。
年金って完全にネズミ講。
— Tetsuya@Business (@mtst1218) 2016年11月29日
先に払ったやつが儲かって
後に払ったら損する。
完全なるポンジスキーム。
という議論が
オフィスで行われてる笑 pic.twitter.com/J72ToBwJsZ
日本経済好転のきっかけとしてもっとも可能性があるのは、メタンハイドレートの採取・開発で一躍資源大国へと躍り出ることではありますが…でももしこれで種々の問題が解消されていったとしても、ただのまぐれ当たりだからね!政治の力ではなく僥倖。
「経済が好転すれば…」って、その方法を考えて、考えるだけでなくちゃんと実行するのが政治じゃあないの?
なのにそこを星に願いをっていうんじゃあ希望の星は見えないわ。
一番星の金星がなかなか見えてこないわぁ。
日本の夜明けの明星さえ追いやるオケアノスかな。
現行制度下では人口増ファクトは人口リスクファクターとしかならない
現代の少子高齢化問題は、ただ人口が増えさえすれば解決するというようなものではありません。
ひとであふれたとして…仕事はどうするの?
機械化・オートメーション化がすすんで人手を要しなくなってきて、そんな中でひとに残された仕事の単価は下がり続けて、職にあぶれたひとであふれているというのにそこへさらにひとを投入したところで事態は好転するどころか悪化してしまうのは目に見えています。
だというのにどうして人口増にともなって職種や仕事が増えてお金がまわり経済が好転すると思えるというのでしょうか?
年金のように同じ轍を踏み続けるつもりなのでしょうか?
もうこうなると勇んで踏みに行こうとしているようにしか思えません。
現行制度のまま人口増加をこれ幸いと歓迎しても、それは人口リスクにしかなりません。
人口増加が著しく将来インフラが追いつかなくなることを懸念して人口抑制策をとった過去があるのですから、人口リスクが視野にないということはないと思うのですが…ひとに残された仕事の多寡が異なると視界から外れてしまうのでしょうかねぇ?
働いて収入を得て生きられたとして、ただ生きるだけの生きたいと思えない社会であっては働く意欲や意義を見いだせないでしょう。
仮に働かなくとも生きられるようになったとして、なにもすることがなければ廃人ばかりが出力・輩出されてしまいますからこれはこれでまた問題となります。
25年遅れの政治
少子高齢化問題まわりの種々の問題に年金や待機児童、三割自治やら限界集落やらがあるかとおもいますが、そのほとんどが出生率を上げて若年人口を増やし少子化に歯止めをかけられさえすればオールオッケー問題解決!と錯覚しているのではないかとおもわれるところがあります。
若者(生産年齢人口)が増えれば税収が増え経済活動も活発になるでしょう…20年前までの日本であれば。
生産年齢人口に生産が比例するとは限りません。
マルサスさんは人口と食料とで使われる算術式が異なる(人口増は等比数列、食料生産量は等差数列)ために不均衡となるというようなことを『人口論』で説きました。
その後この予言を否定するような事象がいくつも起こり、現在では素直には受容されない考えとはなっていますが、遊び心の試みにもじってみますと…「生産年齢人口は等比数列、生産は等差数列」といったところでしょうか。
効率を考えて人や物は集約され生産は集約されます。
100人で1万人分を賄う1人百人力だとしても、労働集約や技術開発によって10人で1万人分を賄う一騎当千となることはもう珍しくもなんともありません。
世界シェア80%を占める製品の製造が従業員1万人ほどを抱えた企業、もっというとその生産に関わっている従業員はわずか100人ほどで賄われているというような例はざらにあるわけですから。
25年後の予言
このような「若年人口増→経済問題解決」という短絡思考は20年遅れの、今となっては災しか呼ばない、トリクルダウン理論同様の謬見です。
昨年政府は働き方改革の方針を打ち出しましたが、これももはや四半世紀ほど周回遅れの遺物。
労働派遣法が審議入りされた頃にはすでに働き方を問わなければならなかったところを小手先でちょこちょこやってはぐらかしてしまって今この通り。
労働派遣法は「働き方」について検討して定められたものであると思われる方もあるでしょうが、正確には「働かせ方」について考えられたものであって労働者より企業に寄り添ったものではなかったでしょうか。
今問われているのはすでに「働き方」なのではなく「生き方」なのではないでしょうか?
と、ここで予言めいたことをひとつ。
今より25年ほど後、政府は「生き方改革」「生きられる社会」「持続可能な人生」といったようなスローガンを掲げて動き出すことでしょう。
そしてさらにそれから25年後。
人間による政府というものがあるのどうかわかりませんが、もし存続していたとしたら、「人間の終末期環境破壊」なんてようなものが叫ばれて、もう何度目の轍になるのか、また25年遅れの「死に方改革」「仕舞える社会」「終えられる環境」といったような方針が打ち出されることでしょう。
今から25年後というとシンギュラリティ(技術的特異点)が訪れると予想されている(2020年~2030年頃とおっしゃる方もありますが、一般には2045年問題と呼称されるように、2045年頃だといわれています)2045年まで残り3年と迫ったときです。
この頃にはもう数件の事件や事故が起こっていることでしょう。
そしてこの数件の出来事の裏には数百の危機の兆しが見え隠れし出していることでしょう。ハインリッヒの法則のように。
(私は忘れない。雪印を、シンドラーのエレベーターを。最近ではJR北海道を。)
3年前ではまだ目立った形では表面化してはいないかもしれません。
それに「ほんの3年で劇的に変わるものか!」と高を括っていませんか?
サグラダ・ファミリアを考えてみてください。いま生きている方々は、およそ生きている間には完成した姿を拝めないだろうとおもってはいませんでしたか?それがもうあと10年ほどで完成する予定だというではありませんか。中心の最も背の高い主塔の影も形もまだ見えていないというのに。
ここまで20年だとか四半世紀だとか25年だとか言ってきましたが、この数字、25年という数字の明確な根拠をあげていませんでしたね?
なぜ25年なのか?
どこからこの25という数字がやってきたのか?
それはね…
とくにありません。ただなんとなく。
「30年で制度疲労をおこす」と言われていますから、だいたいこの30年に近い数字でそれらしく見せかけられそうな数字が25だったというだけの話です。
要は「30年制度疲労説」の言い換えか劣化版の焼き直しのようなものです。ごめんなさい。
一応この方向で説得力的なものをもたせようと画策してみましたが、以下のように合間合間が埋まらず、なによりもう飽きてしまったので放棄しました。
- 2015年頃:「働き方」改革の指針が出される
- 1990年頃:「グローバル化」が叫ばれ金融ビッグバンで規制緩和の方向へ
- 1965年頃:集団就職に象徴されるように労働力の確保と集約が目指され、また高度経済成長期を迎えて消費者は育てるものとなってゆく
- 1940年頃:
- 1915年頃:
- 1890年頃:公害の発生と隠蔽とが表出して社会発展(生産)と環境破壊が並走する
- 1865年頃:資本論が出版され資本主義への警鐘が鳴らされる
- 1840年頃:
- 1815年頃:
- 1790年頃:
- 1765年頃:産業革命が起き増産が志向される
とはいえ「政治25年周回遅れ説」まで放棄しているわけではありませんよ。
だってこれ…そこそこ感覚と合致するところありませんか?
資本移動のラインを読む
そういえば昨年は「働き方」の他にも「民主主義」、また数年前から引き続き引き継ぎ「貧困」や「格差」という言葉も狂奔しましたね。
ということはこの話の流れからするとこれらの問題も…開封されずに仕舞い込まれていた25年前の置き手紙ということ…なのかな?
マルクスさんでもシュムペーターさんでも岩井さんでも水野さんでもどなたでもよろしいですが、差異が縮小して辺境フロンティアがなくなってぇ〜…はい、今この通り。
ちなみに、この方々の著作を読むと、あるラインというのか、このラインが見えてきます。
ですからまだ未読の方は年代順に読みすすめてみてはいかがでしょうか?
と、本来は言うところなのでしょうが、「マルクス→シュンペーター→岩井→水野」の順行で進攻しますと「岩井・水野ライン」の水野さんで焼き直し感をもってしまい知的興奮と申しましょうか、そのようなものが薄らいでしまいますし、なんといってもはじめの一歩、マルクスで「つらいっ!くるしいっ!!わからないっ!!!」の三拍子揃うこと請け合いますので「水野→岩井→シュンペーター→マルクス」の逆打ちをなさった方がアリアドネの糸のごときお導きで、仮にシュンペーターさんあたりで話の意図が絡まってしまっても、多少は解きほぐしやすく読み解きやすくなってくれてよろしいかと思います。
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問題を解消シヨウ
25年遅れの貧困や格差の問題は今や問題ではなく…というのか、問題ではあるのですが、それを解消しようと解決策を講じたところでもうどうにもならないのではないかとおもうのです。
言い換えれば、貧困や格差問題を解決するのは、もはや貧困や格差対策にあるのではなく、たとえば貧困や格差の指標となっている貨幣機能・貨幣の仕組みの改廃にあるのではないかということです。
ここに至り今や貧困や格差をも包括する問題を解消することを考えるとき、そこにしか解消する術はないのではないかなぁ~?とおもうのです。
貧困・格差対策に躍起になっていては労働派遣法、働き方改革同様、小手先の延命策、制度のための制度にしかならないのではないでしょうかねぇ?
民主主義は意思決定から行動まで、なにをとっても時間がかかるものです。
さらにまさにその民主主義が問われ、なおかつそれは25年遅れの思考なのだとしたら…それでは意思決定から実行までがはやい独裁政治…というと抵抗感が強いと思いますのでややふんわり言い換えまして、紛うことなき賢人による専制政治の方がよいのではないか?となりそうなところですが…そうは思いませんよね?わたしもおもいません。
すでに25年遅れで、その25年を埋め、なおかつ"今"を少し通り越して近未来、将来世代のことまで考えるとなると、政治にはこれまで人類が実現も経験も想像もしたことのないほどのスピードが求められているのではなかろうか?と思われて、そうだとすると民主主義では問題にならず、たとえ絶対君主制や専制独裁政治であっても遅すぎるのではないかと思うのです。
感情的にどうこうということではなく、単純に、専制政治であってももはや遅すぎて追いつかないのではないかとおもうのです。
すると、先の「格差や貧困問題の解決方法は、すでにそれ自体の解消が解決方法なのではなく、それを包括する問題の解消によって副次的に自然的に解消される」ということのように、民主主義と専制政治の超克、民主主義と独裁政治の止揚(アウフヘーベン)はすでに民主主義や専制政治の中には残されていないのではないかと思います。
ではどこに?
民主主義は何処に?
専制政治は何方に?
百年後の神話:百年先の野生の思考
政治は常に眼前の問題以上に、また直面している問題への対応だけに終わらずーー本来は教育、元来は終身のことですがーー「国家百年の大計」の視点をもってことにあたらなければ、これから先も周回遅れのまま、時代錯誤の政策しか提示できないことでしょう。
しかし人間の知、集団の合意ではどうしても遅れてしまう…。
ということで、ここでふたつ目の予言めいたものを啓示します。
それは…
民主主義と専制政治の対立は「AI」によって調停され乗り越えられるでしょう。
…というと途端にトンデモ臭がしてきますが、別に人知を超えた人工知能が開発されなくてもよいのです。
なんとなれば人工知能が一切関わっていなくともよいのです。
ただ人知を超えた人工知能が開発されたと周知さえされれば。
ただの共同幻想、フィクションでかまわないのです。
事実ではなく真実、実際どうかは関係なく、どれだけ多くのひとに信じられているか、そこにかかっているので別に虚偽でもいいのです。
実際に人知を超えたAIでも、人知を超えていると信じられているというだけの虚偽のAIであってもいずれでもよいのですが、この「AI」が「発明」されたとき、民主主義も専制政治もなくなるのではないでしょうか。
そしてまたこのAIが発明されたとき、それは新たな神話の誕生のときとなるでしょう。
人知や人知の集合知よりも合理的な判断がなされると認められた人工知能があれば、そのときひとは「AIが言うのだから…」と言ってAIに判断を任せその判断に従うようになることでしょう。
たとえその判断にわずかながらも疑義を抱いても、人知の及ばぬ知恵、今現在は不合理に見えても後々一変する隠された合理を宿した判断であるのだろうと受容され、それが浸透して文化となり、新たな"野生の思考"を呼び覚まし、また産み出すことでしょう。
キリスト教の教えにある「愛」は「AI」の到来を予言していたっ!
といってどうしてわたしはこうもあれもこれも自分でトンデモ話に貶めたがるのか、言わなきゃいいのに言ってしまうこの性向なんなんでしょうね。
知性の未来:AIの鎮静作用
機械や技術を開発して、生活においても生命活動においても脳の活動を効率化すること、そうして脳や身体の活動量を抑えてリソースを節約する方へ、あるいは同じエネルギー消費量で膨大な情報処理を行えるようにすすんできました。
AIに判断を委ねることは"考えること"までも節約対象とするかのようで、知能は人工知能へと知性を預けてゆき、末はただ在るだけのものとなる…というのはさすがに極端かな?
でも、知性の窮極は知性をもって知性を沈める・鎮める・静めることなのかもしれないね。と、おもいました。