問題:「3.9+5.1=9.0」は正解か不正解か?
9.0と答えると不正解だとしてバツをつける学校の先生がおられるそうです。
有効数字で考えたらむしろより正確で、正解よりも正解らしいとおもうのですけれどもねぇ。
この他にも学校ではまだ教えていない解法を用いて解いたためにバツにされたと、画像入りでtwitterなどで紹介されていて、最近この手の話題でにぎわっていますね。
いつかテレビで「自学自習が大事!」みたいなことを聞いた覚えがあるのですが、だとしたら「学校で教えていないことはダメ!」というのは筋が通らなくなってしまいますから、9.0をペケにしてしまう先生は自学自習には反対なのでしょうね。
この話は『林先生が驚く初耳学!』でも取り上げられていました。
環境が整うまでは動きづらい年少者
9.0にも少し関わることですが、番組中ひとつ気になったことがありました。
それは国語の問題で、林修さんが理由を聞かれているときは、文末は「〜だから」としないとバツをつけるひとがいるけれど、自分は書かれている内容が正しければマルをつけているといわれていたところです。
わたしもそんな瑣末なことより本筋から外れていなければマルでよいとおもいます。(←思いますってそんな機会わたしにはありませんけれども)
なんですが、それでも、もし「〜だから」と書かなければダメというような採点基準が設けられていたとしたらどうなるでしょう?
採点者はマルをつけたくても採点基準がダメだといっているからバツをつけざるを得ず、予備校ではそれでマルでも受験先ではそれではバツだということがあるのではないでしょうか?
「予備校ではこれでもマルだった」と抗議したところで裁定は覆らないのではないでしょうかねぇ。
仮に採点基準といったものはわからず、模試などの採点者の解釈や信念でもって普段マルつけをされているのであったとしたら、それは先生と生徒の双方にとって悲劇的なことでしょう。
つまり、生徒は点を取りこぼし、そのために先生は信を失いかねませんからね。
教育界の環境が整うまでは「今はまだ理由を聞かれているときには文末を「〜だから」としないと点を取り逃してしまうことがありますよ」といった一言を添える必要があるのではないかなぁ?
それとも、学校では各受験校の細かい採点基準を把握しているからそんな心配はいらないということなのかな?
このあたりの事情ちょっとわかりませんけれどもそんなことをおもいました。
なんにせよ、型を重視するあまり才気あふれる若者を社会が取りこぼしてしまうこともあるのではないかと、なにかそのようなあやうさを感じる話です。
白々しき慣習
だれかが言わないとなかなかわからないこと、気づけないことってあるでしょう?
たとえば、まだ着慣れないスーツに白い靴下をはいてしまっている就職活動はじめたての学生さんとかね。
あれってなんなんでしょうね?
スーツに白靴下を合わせるひとはいないというのに学生服に白靴下。
若者は走り回ったりするものだからすぐ汚れるわ、白いから汚れが目立つわ、洗っても落ちないわ、(社会に出ると履くことなくなるから)世間の感覚ともズレてるわで、いったいなんなんでしょう?白靴下。
校則で決まってるところもあるようで、もうわけがわからない。
ひと目で学生かそうでないかを識別するためなのでしょうか?
そのような学校にお勤めの先生方は白靴下なのでしょうか?
もしそうでなかったとしたら社会と離れすぎ、浮世離れしてやいませんか?
おそらくはガーゼなどと同じで出欠確認ならぬ出血確認が容易だとか衛生上問題ないかなどを見分けやすくするためだとか、あるいは染色する必要がないからそのぶん安価で各家庭の収入格差を示すシグナルとなることを防ぐためだとか、そういったような理由だったのでしょう。
だとしたらもういいでしょう。
ときはすでにもう21世紀日本。
本人が気づかないような出血をともなう足の怪我ってある?
あまりに不衛生だったらそうとうな臭いを発していることでしょうない(ただしこれについては最近の技術で無臭に近くなっているようですけれども)。
ファストファッション隆盛で3足1,000円きることもありますし、100均でも売られているぐらいですからもういいでしょう。
学生服に白靴下の合理的な理由はもうすっかり失われて久しいのではないかなぁ?
問題児の問題視
古い慣習にその時代の目をもって検証することなく、ただ惰性で継承し続けるというのはいかがなものでしょう。
すでに形骸化して内容が失われているというだけならまだしも、もはや不利益をもたらしているというのに変えないのであれば、これほど愚かしいことはないでしょう。
慣習に対して無批判に肯定し考えることなく受容して、それに生徒を従わせるというのは教育者としていかがなものでしょう。
考えず行動もしない教育者の姿勢をみて生徒はなにを思い、なにを学ぶでしょうか?そのような人になにか注意されてもその言葉に説得力がともなっていないのではないかと思うのです。
おそらく考えていないひとは考えていないということを自覚できてはいないのでしょう。なにについて考えればよいのか、疑問視する対象、問題となる問題が見えていないのですから問題がありません。問題視できません。
問題意識をもたない人に問題を見せるには、その問題について考えてもらうためには気づいてもらうしかありません。
すでに気づいている人、知っている人、問題が見えている人が言葉にして言わなければ、問題はいつまでも自分だけの問題にとどまり、いつまでたっても社会の問題とはなりません。
と、ここまでがなが~い余談。
ここがだいたい折り返し点。
といって今回も本題らしい本題というものがない問わず語りですけれどもね。
学校をひらく
「集団生活」や「協調性」という言葉が使われることがありますが、どのような言葉で形容しようとも、学校教育にはいかばかりか「従わせる」という要素があります。
勉学だけでなく生活についても教えるのですから、そのような面があるのも否めず仕方ないというか、むしろ必要とされる状況が少なくはないことでしょう。
しかしそれが過ぎて従わせることが目的となり、命令を忠実に遂行させることが教育だと無意識下で無自覚にも取り違えてしまっている先生がなんにんかいらっしゃるのではないでしょうか。
同じ年の子があんなにもたくさん一つ所に集まって一日のうちの大半を、数年間にわたって同じ部屋で同じことを一斉に行う特殊な環境。
先生からしたらそのような特殊な環境、圧倒的に年少者の方が多い特殊な環境は、スタンフォード監獄実験のような権力への服従がはたらきやすい状況にあるのではないでしょうか。
そう思うと、あの特殊な環境の中で自制心を保てている先生が多い(?)というのは気づかれていないだけで、実はとてもすごいことなのかもしれませんね。
とはいえすでに権力の渦中に絡め取られているのが先生の中でも年長者だったりすると忠言できる人ってそうそういないでしょうし、学校全体で権力に魅入られていたりしたらどうにもなりませんから、スタンフォード監獄実験が自主的に中止されたものではなかったように、学校にももう少し外部の目による検証と判断、外部からのはたらきかけが必要なのではないでしょうかねぇ?
「常識」と「伝統」を重んじて人を社会に合わせるブラック部活動只今も進行中
そもそもなぜ学校組織というのは閉鎖的なんでしょう?
こどもを守るためというタテマエのもと保身というホンネ隠してませんか?ふだんはそうではなくても問題が起きるとこんなんなってること多いですよね?
オープンマインドやオープンスクール、世にオープンさまざまあれど、わざわざオープンを謳わなければならないのはふだんオープンではないから、オープンでないことが一般的だと思われているからなのではないかな?
オープンにすることも口で言うだけではなく、まず年長者がその姿勢を見せないとね。それが示しをつけるということですし、そうでなければ示しがつかないということでしょう?
帝王学を教授する者
年少者を年少であるというだけで従わせようとする年長者。
生徒が生徒であるというだけで理不尽にも横柄で高圧的な態度をとっている教育者。
このような方々には、その年少者、その生徒がいつか自らが戴く人物になるかもしれないという想像力、またはそのような者にしようという気概がないのではないかと思います。
教育者が生徒の能力に嫉妬してしまうのでは、生徒が自分を超えていくような人物に育てようとの意思がないのでは、よりよい社会の到来は望めなくなるでしょう。…とは言いすぎですけれども、そのような心持ちであってほしいですね。(求めている意思が壮大すぎる?)
ただし、生徒がいつか自分を超えていく人物になるかもしれない、自分を超えていく人物にするのだとして、だからといって将来の自分の地位を確保するためにへりくだって取り入ろうとしたり、過度に甘やかしてなんでもかでも許してしまうというのでは、それもまた違うわけです。
それでは生徒は驕り高ぶった者になってしまい、先生からしたら自分を超える者にも助力したいとも思えない人物に育ってしまい、社会貢献どころか反対に社会に仇なす者ともなりかねませんからね。
超越者を育てる
軍隊などでは士官候補生の訓練にあたる者が下士官であることもあり、士官候補課程が修了すると生徒が士官となり、下士官の上官になるということがあるようです。
その日を境に士官候補生は将校となり、式典が終わると生徒の階級は自分のそれよりも高いものに。
そんな一場面が『愛と青春の旅だち』にありましたね。
こんなことはあまりないとは思いますが、戦時にでもなれば教官だった下士官が元生徒の士官の指揮下に入り命を預けることになるということもあながちない話でもないでしょう。
そのとき元教官の下士官はなにをおもうでしょう?
はたして上官を信頼できるでしょうか?
優れた将校となるために必要な素養をあのとき身につけさせられなかったと悔いているでしょうか?
帝王学を教授する者は、末は自らをも統べる者をその手で育てます。
はじめから超越者を生む気概をもってその任にあたります。
なかには奸臣もいるでしょうけれど…。
先生には、生徒が先生を超えていくことを嫉妬するのではなく、それを悦ぶような、そんな親心をもった方にあたってほしいものですね。
生徒が成長して学生時代を思い返したとき、尊敬されはしないまでも、せめて蔑まれることがないような、こどもをこども扱いしすぎず、不合理を理由もなく押し付けることのない先生が増えるといいですよね。
若者は、この国を、この社会を託し預ける未来からの預かりもの。
ぞんざいに扱うことなぞできましょうか。
はたらきかたのトリクルアップ
学校の先生にはこなさなければならない業務があまりにも多いのだと聞きます。
一日の拘束時間も長いことでしょう。持ち帰る仕事も多そうですし、さらには部活動やら研修やらで休日も削られて休む暇がないのではないかとおもいます。
休日であっても学区内で遊ぶことは控える方もあるようで、気の休まる時間がなかなかもてないのが現代の日本の教員の姿なのではないかと想像します。
そうでもないのかな?
本年は「はたらきかた」が問われた年でした。
いの一番に改革が必要な職場は学校なのではないかとおもいます。
心を亡くしてしまうほど多忙で時間に追われる指導者・先導者の姿を見せられて、年少者は将来に希望をもてるでしょうか?末はああなるのかと悲観してはしまわないでしょうか?それが常識なのだと認識されて引き継がれていったのでは、はたらきかたを変えようにも、だれがどうやって、どんな意思を持って変えるというのでしょう?
学校の先生、おそらく親の次に、場合によっては親よりも長い時間こどもと接し、その背中を見せることになる教育者のはたらきかたを変えずして、どうして将来の社会のはたらきかたが変わるとおもえるでしょう?
経済のトリクルダウンは破綻しました。
遠回りに見えて実は、はたらきかたも上からではなく下からのトリクルアップが功を奏すのではないでしょうか。
そうだとしたら、はたらきかた改革の第一歩は教育現場、教職員の余暇の拡大から図るとよいのではないかというただのおもいつきでした。